薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年09月25日(木)

野田郷~阿久根~牛ノ浜

 朝、出発をするときに旅館の写真を撮る。女将さんも一緒に撮るつもりでいたのだが、拒否されてしまった。いい女将さんだったのでちょっと残念だったが、しかたがないので旅館のみ写す。お世話になりました。 旅館静香
 今日は電車で高尾野から野田郷まで行き、7時25分に歩き始める。駅前の道を直進すると、やがて「武家屋敷群」になる。学童の登校の世話をされておられた方に、ここも出水の武家屋敷群と同様に昔のままの姿が残っているのかとお聞きすると、昔はもっと道幅が狭かったので、約20年前に道路の拡幅工事が行われ、その際作り直したものだということだった。
野田郷武家屋敷
 途中に「庚申碑」がある。暦の上で60日、及び60年に一巡する「庚申」の日及び年を庚申といい、その夜人間の身体の中心にいる「上尸(ジョウシ)、中尸及び下尸」の三尸の虫が身体から外に出て、その人の罪を天帝に告げて生命を奪うという道教の説から、その夜は眠らず語り明かして、三尸の虫が外に出ぬように、平安時代においては貴族社会で、室町時代においては一般にも行われるようになった。江戸時代には各所で庚申信仰が盛んで、薩摩藩ではきびしい郷中教育(青少年教育)に利用したと説明されていた。
野田庚申碑
 そのすぐ先に「大日の仁王像」がある。この仁王像は永林寺にあったもので、廃寺後ここに安置されたといわれている。永林寺は感応寺末寺で、この近くにあったが、明治初年の神仏分離令のあと廃寺になった。右の像は口を開けた阿(ア)型で金剛像という。金剛杵を持った手上部は欠損している。左側の像は口を閉じた吽(ウン)型で力士像という。又両像とも金剛力士像ということもある。ア・ウンとは万有一切の始まりと終わりを表している。仁王(二王)は寺院建物の守護神で仁王像は寺門に建立され、いかめしく、猛々しい形相である。この像は宝暦2年(1751)に建立されていると説明されていた。
大日仁王像
 更にその先、右手に「天神の石敢当」がある。石敢当とは負けたことのない豪傑の名前で、三叉路の突き当たり、家の内、川、溜池や集落の通路、橋のたもと等に建てられていて、悪病除け、泥棒除けなどといわれる魔除けの呪いとした。中国の風習が琉球を経て、14世紀頃日本に伝わったものと説明されている。高さ70cm程度の石の角柱だ。
石敢当
 直線道路の終わるところに菅原神社があり、赤い鳥居が立っている。ここから右折して山の中に入っていく道を進むのだが、雨が降りだした。道はオレンジロードと名づけられており、きれいに舗装されている。朝の出勤時間帯だからだろうか、車の通行量は多く、信号がないのでどの車もかなりのスピードを出している。雨は一気に激しさを増してきている。歩道がなく、車の上げる水しぶきでびしょ濡れだ。途中、陸橋が架かっており、その下を進む。
 産業廃棄物中間処理場という看板の立っている建物が左側にあり、その先で今度は右側に建設産業廃棄物の処理場がある。ここで道を間違えた。雨の中資料が濡れることを防ぐため、ビニールの袋に入れて見ているので、良く確認しないまま最初にあった中間処理場を左手に見ながらオレンジロードをそのまま進んでしまった。やがて山を越えて橋に差し掛かったが、橋の名前を見ると資料に書かれている「赤はぎ橋」ではない。
 又、富吉商店という店があるはずなのだが、これもない。雨がこの頃上がってきたので、もう一度資料を出して見直すと、どうも道を間違ったようだ。二つ目にあった建設産業廃棄物中間処理場の横に右折する道があり、これを進まなければいけないようなので、そこまで戻って改めて歩き始めた。ここもやはり山の中の道だ。やがて右手に「富吉商店」がある場所に出た。すぐ左手に橋があり、名前を確かめると「赤剥橋」となっている。これで間違いない。この間約25分ほど時間をロスしてしまったが、このようにキーワードになる名称が資料に書かれていると非常に助かる。 
富吉商店
 橋を渡って進むと、前方に「桑原城址」といわれる小高い丘がある。
桑原城跡
 ここを右折し、城址を左に見ながら進む。左手に「とれたて市場」があり、その先には右手に赤い鳥居が立っている。更にその先にはコスモのガソリンスタンドがある。ガソリンスタンドの約400m先に四角のロードミラーがあり、そこから右折すると資料はなっている。ちょうどそのあたりに右手に2本、左手に1本のミラーがあったがミラーは丸いものだ。その先に四角いミラーがあるのかなと思って少し進んでみたがない。これ以上行くと距離が400mを越えてしまうと思い、元に戻って右折して進む。ミラーが四角いものから丸いものに取り変わっていたようだが、400mという数字が書かれていたので間違うことがなかった。
 両側に竹やぶのある道を進んでいくと、左手に鶴翔高校が見える。その少し先が坂の頂上で右手に海が見えて眺めがいい。風景1
 この頃には雨はすっかり上がり、逆に太陽が照り付けている。9月も後半というのにジリジリと暑い。ここから下っていくと3号線に合流する。Googleマップではここの信号は阿久根農高入口となっているが、実際は鶴翔高校入口となっている。おかしいなと思ってすぐ横にある理容室の方に尋ねると学校の名前が変わったので、信号の名前も変わったことを教えていただいた。ここから3号線に合流し、左折して歩いていく。この後、3号線は左に曲がっているのだが、旧道は直進して線路を越えて進むようになっている。ところがその道がわからない。ウロウロしていると人がおられたので聞いてみると、空き地があり、そのすぐ横に細い下り坂の道があるということだった。これを歩いていくと寺山踏切という小さな踏切があり、これで肥薩おれんじ鉄道を越える。左手前方に阿久根市民病院の大きな建物が立っており、この病院を右手に見ながら進んでいく。 
 左手に阿久根駅を見ながら進み、その先で左折して進む。本町の信号で3号線に合流するようだが、その少し前で3号線に合流すると中央公園があり、そこに「河南源兵衛の碑」が立っている。初代河南源兵衛は中国明朝に仕える河南省出身の藍会榮(ランカイエイ)という人で、寛永11年(1634)頃島津藩はその支配下にあった琉球に亡命中だった藍会栄を阿久根に移住させ、中国、琉球との貿易の任に当たらせた。以来明治維新までの260年間、出身地の河南を姓とし、代々「源兵衛」を襲名した。一族は藩の庇護の下、藩直属の御用商人として、中国、琉球をはじめとする国々との海運業で活躍したと説明されていた。
河南源兵衛碑 
 ここでカウントする。
 10時55分 阿久根宿を通る。
 出水宿から5時間33分、32872歩、20.3km。
 
 同じ場所に「空順法印像」が立っている。空順法印は寛文3年(1663)大口市羽月の生まれで17歳で出家、島津藩主吉貴公の信望厚い高徳の僧であった。当時阿久根では約12年間に渡って大火が続いており、空順法印に火止めの祈祷を願った。阿久根に来た法印は戸柱海岸で7日間の断食、水行を行い、この法力によって以後およそ数十年間火災がなかったと伝えられている。その功績を謝して元文3年(1738)この像を建立したと説明されている。
空順法印像
 その先に鹿児島銀行阿久根支店がある。ここは河南源兵衛の屋敷があった跡で、当時は御仮屋に泊まるよりも、こちらのほうに主に宿泊していたということだ。
 高松川に架かる高松橋を渡って、その先大丸町の信号を右折、左手にスーパーがあったのでここで昼食を取り、その先から左折して進む。ここの道は一直線になっている。
  右手に「光接寺」がある。ここに御仮屋にあった石燈ろうが移設されていると聞いていたので見せていただいた。ご住職らしい方が出てこられて説明をしていただいたが、その時、このあたりの道は区画整理が行われたため、昔とは変わってしまっていること。今歩いてきた直線の道の部分は以前はお寺の境内だったというようなことを教えていただいた。
光接寺
 その先突き当りで左折して3号線に合流し、歩いていくと西目の信号があり、その先で僅かではあるが旧道が残っている。
  右手に大川島の海水浴場がある。引き潮らしくかなり潮が引いているが、なかなかいい景色だ。
大川島
 ただ、とにかく暑い。ここまできたところで暑さにすっかりやられてしまっており、バテバテだ。大川島に露天の店があり、今日は休みらしく、棚だけが置かれているので、そこでしばらく休憩を取ったが、疲れが取れない。なんとか歩き始めたが、13時25分に牛ノ浜駅まで来たところで、これ以上は無理と判断して、丁度来た電車に乗って、今日の宿がある川内駅まで行く。それにしても9月後半でこれだけ暑いとは!
 電車に乗るとき、薩摩街道保存会の会長をされている丸目さんに連絡を入れる。今日歩き終わった後にお会いすることにしていたのだ。ホテルに入って、とりあえず洗濯をし、あらかたの日記をつけた後、16時10分に丸目さんがホテルにわざわざおいでいただいて、今後歩く牛ノ浜から川内までの道を車で案内していただいた。「この間の道は非常に分かりにくい」ということだったが、確かに車でざっと通ってみた限りでは、道がかなり入り組んでおり、分かりにくい。また旧道の山道が残っていて、とてもいい雰囲気なのだが、草がかなり生えていて歩くのは大変そうだ。お話をお聞きすると11月にこのあたりの道の草刈を行われるということだった。草刈には30台ほどの草刈機を持ち寄って草を刈られるそうで、かなり大規模に行われるようだ。結局、今日案内をしていただいた部分を再度見直しをして確認をしたほうがよさそうだし、折角草を刈っていただけるのであれば、その後に歩けば旧道の山道も歩きやすそうだ。それにここまできて想像以上の暑さに相当バテていることも事実だ。これらのことから今回の旅はここで一旦中止し、11月に出直すことに決めた。
 その後、薩摩川内市内のお店で夕食をご一緒させていただく。
 丸目さんは今から10年ほど前に、川内市の道の、時代による移り変わりを調べられている際に、薩摩街道という言葉に行き当たり、その道がご自分の家の前を通っていることから街道に興味を持たれて、調査を始められるきっかけになったそうだ。現在では会員180名、これまでに街道歩きの引率をした人は延べで6000人にもなるといわれていた。
 丸目さんは実際に現場を何度も歩かれておられるので非常にお詳しく、何を質問しても的確な答えを頂いた。たまたまネットで存在を知り、ご連絡を取らせていただいたのだが、今回歩くに際しても、詳細な資料を送って頂いたので、とても分かりやすく、全体的にスムースに歩くことができた。ありがたいことである。
 その後、丸目さんのお知り合いという藤井さんも合流。明日は一旦引き返すということもあって、気持ちの面でも余裕ができており、23時頃まで話に花が咲く。旅をする中でこうして地元の方とお知り合いになるということはとても楽しいことだ。まさに旅の醍醐味を満喫させていただき、とても楽しいひと時を過ごさせていただくことができた。
 本当にお世話になりありがとうございました。

本日の歩行時間  6時間。
本日の歩数&距離 30155歩、19.5km。

追伸)2010年8月に丸目さんは鹿児島県に協力されて「薩摩街道(出水筋)歩行マップ」を作られたそうで、これは熊本県の袋駅~鹿児島県の木場茶屋までの間の詳細なマップになっています。よくできていて、このマップがあればとても歩きやすいと思います。
ネットで「薩摩街道(出水筋)歩行マップ」で検索すると見ることができますし、鹿児島県北薩地域振興局に問い合わせて入手もできるそうです。
薩摩街道を歩きたいと思っておられる方にとっては非常に参考になるマップだと思います。