熊野古道・大辺路を歩く

2010年12月01日(水) ~2011年02月12日(土)
総歩数:168240歩 総距離:123.2km

2011年02月09日(水)

紀伊富田駅~草堂寺~富田坂~安居辻松峠~仏坂~周参見            

                      晴れ

 朝起きてみると昨夜のうちに雨が降ったようで、地面が濡れていたが出発するときには既にあがっていた。
紀伊田辺駅を7時55分に出発し、紀伊富田駅に8時18分に到着する。もっと早い時間に出発したかったのだが、その前のJRは6時24分しかなく、ホテルの食事は7時からだったので、ゆっくり朝食を食べてから出発する。歩く上で朝食は必須なのだ。

 富田橋を渡り、42号線を横断すると道は二股に分かれているので、右へ下る。ここに富田橋というバス停がある。下ったところに案内板があり、それによると富田坂まで1.2kmとなっている。
案内板
 案内板に従って集落の中の細い道を進み、飛鳥橋を渡ると「草堂寺」がある。ここは古くは円光庵といっていたが、慶安3年(1650年)中岩洞外が再興し草堂寺と改称、禅宗となり、洞外に帰依した一条家および九条家の祈願所だったという。
本堂は天明6年(1786年)までに再建され、本尊の観音像は、平安時代の仏像で、長州の日頼寺(山口県下関市)から東福寺を経て当寺に安置されたという。また、天明7年(1787年)丸山応挙門下の画家、長沢蘆雪が来寺して障壁画を残し長沢蘆雪の寺の名でも知られているという。
草堂寺
 草堂寺の右横の石垣に沿って細道があり、ここから富田坂に入って行く。ここには案内板が立っている。当初紀伊田辺から紀伊富田までは案内板がなくて迷うことが多かったが、このあたりから先は案内板が随所に設置されていて歩く上でとても助かった。
 左手に正保4年(1647)と刻まれた板碑や文政6年(1823)の「奉納大乗妙典日本廻」、文政11年(1828)の「日本廻国千人供養塔」等4基の石碑が並んでいる。
奉納大乗妙典日本廻
 一里松跡の案内板が立っているが、遺構は何も残っていない。その先の二股を案内板に従って左へ進む。
 馬谷城跡の案内板が立っており、なだらかな上り道になる。「(救) 3 大辺路富田坂」と書かれた標柱が立っている。この標柱はこれから先も立っていて番号が一つずつアップしている。もし何か事故でもあれば、この番号を伝えれば自分のいる大体の場所が分かるという意味だろうと解釈した。
大辺路富田坂
 やがて「富田坂 七曲り」にかかる。ここはかなりの急坂だが20分ほど坂を登るとなだらかな道になる。
富田坂 七曲り
富田坂茶屋跡がある。大正8年まで営業していたということだが、飲み水もなにもない峠なので峠を越える人間にとっては貴重な場所だったのだろう。
 左手に「不動明王」が祀られている。
不動明王
 その先で道は二股に分かれているが、ここにも案内板が立っており、それに従って左へ進む。
 山道には木の根が数多く出ており、それが階段の役割を果たしてくれている。もっとも、つまずいて転げてしまうと、片側は切り立った急斜面になっていて、どこまで転げ落ちるか分からないような場所なので、注意をしながら歩いていく。
木の根
 「安居辻松峠」にくる。ここは旧白浜町と旧日置川町の境になっており、昔は道の両側に塚が築かれ、そこに松が植えられていたという。その松は昭和18年の山火事で焼けてしまったということだ。
安居辻松峠
 ここも二股になっているので右へ進むと、すぐ先で左へ下る道があり、この坂を下っていく。かなりの急坂だ。
坂を下っていくと舗装された林道に出るので、これを下っていくが、所々に古道が残っており、その場所には必ず案内板が立っているので、それに従って古道を通って下っていく。途中、眺望のいいところがあり、そこから見ると、すごい山の中を歩いているということが良く分かる。
すごい山の中
 下っていったところにゲートがあり、これを横から越えて進んでいく。ここから右へいくと「祝の滝」があるようだが行かなかった。
ゲート
 「姶良火山灰層」の説明がある。今から二万二千年前桜島が大爆発を繰り返し、吹き上げられた火山灰が偏西風に乗って約500kmも離れたこの地へ降り注ぎ、約30cmの地層になっているという。丁度現在宮崎の新燃岳が噴火をして宮崎のほうは大変なようだが、それよりもっとすごい大噴火が起きていたのだろう。自然のすごさを感じる。
 左手に「梵字塔」がある。大日如来や阿弥陀如来など十仏の梵字を刻んでいるというが、梵字などの素養は全く持ち合わせていない私には解読不明だ。
梵字塔
 左手に「庚申塔」がある。このあたりは寺山や三ケ川の旧集落の入口に当たるので、庚申塔や地蔵像が建てられ、かつ集められたのだろうと説明されている。
左手に「庚申塔
 横に三ケ川があるが、水が全く流れていない。三日に一度水が流れるといわれるほど水の流れが少なかったそうだが、今日も全く水は流れていなかった。
三ケ川
 山を下るとようやく集落があった。三ケ川のバス停があったので、その横の家の階段に腰掛けて、今朝紀伊田辺のコンビニで買ったおにぎり4個を昼食として食べた。
本来の古道はここから左折して安居の渡しへ進むのだが、今は渡し舟はなく、もし舟で渡ろうと思えば事前に予約を入れなければならないということだったので、渡し場へいくことはやめて、日置川沿いに進み、口ケ谷橋を渡る迂回路を歩く。橋を渡って直進し、突き当りのひとつ前の四つ角を左折して進む。ここには半分壊れかかった案内板が立っていた。
 道なりに進んでいくと、日置川に突き当たりここから山道に入って行く。ここは昭和29年に渡し舟が廃止されてから仏坂を越えることが出来なくなったので、この場所から渡し舟が着いていた仏坂の入口までの道を平成14年に整備したという。日置川に沿って道は作られているが、川沿いギリギリのところに道はできており、所々にロープが張られている。
所々にロープ
 足元に注意しながら進んでいくと、道がなくなってしまった。おかしいなと思ったが、とにかくもうそれ以上前には進めないので、どうしようかと思ってひょっと上を見るとなんとなく道があるような感じだ。とりあえず上に上ってみようと思って坂をよじ登るときれいな道があった。途中で上に上がる道があったのだろうが、見落としてしまったようだ。ここまで「みんなで歩こう熊野古道」という地図と「和歌山県街道マップ 熊野古道」という二つの地図を手に持って見比べながら歩いてきたのだが、ここでウロウロしている間に後者の地図を落としてしまったようだ。少し戻って探してみたが分からなかったので、そのまま先へ進む。
 その先に「安居の渡し場跡」の案内板が立っていたが、遺構は何も残っていなかった。昔の街道は川向こうからこの場所に渡し舟が通っていたのだ。
安居の渡し場跡
 ここから「仏坂」という急坂を登っていく。かなりの急坂だ。これだけ急坂を登ると、この先で今度は急な下り坂が待っているのではないかという思いがチラッと頭を掠めた。そしてこの先でその思いは現実になるのだ。
「桂松跡」がある。この松の名前は江戸時代の紀行文によく出てきており、上部がカツラを被ったような形をしていることから「桂松」と呼ばれていたと説明されているが、今はもう松は残っていない。
桂松
 「仏坂茶屋跡」がある。ここは江戸時代は臨時的な設営だったということだが、明治以降人の往来が多くなってから常設されるようになったという。またここでは大正3年から昭和10年までの間、「安宅牛」と呼ばれる地元の牛の売買の市が開かれていたという。その先で林道に出るが、すぐに再び山道を登って行く。ここにも案内板が立っており、それに従って進む。ここも道一面に木の根が這い出していて右手はここも急斜面だ。南紀は急峻な山が多く、崖の中間に造られた細い道を歩いていく。ただ現在では道はきれいに整備されているところが多く、案内板も完備しているので歩きやすい道だ。
急峻な山
 道が二股に分かれているところがあり、左手へ進むと古道ということだが、現在は荒れていて歩くことができないとなっており、この分岐点に「古道うおーくコース」の案内が置かれているので、それに従って右へ進む。
古道うおーくコース
 やがて坂を登りつめたところに案内板が立っており、それに従って左折して下り始める。ところが登るときに思ったことが現実となって、すごい急坂だ。木の根がいたるところに出ているので、それが階段代わりになるのだが、逆にそれに足を引っ掛けて転ぶと一気に転がり落ちてしまうような急坂だった。注意しながら坂を下っていると「パーン」という音が聞こえた。何の音かなと思ったが、あまり気にせず下っていると、再び「パーン」という音が聞こえ、今度はそれが銃声だとわかった。そういえば3月15日までは狩猟の解禁期間だ。昨年2月21日に赤間関街道(北浦道筋)を歩いている時に猟銃を持った方に会ったことはあるが、実際の射撃音を聞いたのはこれが初めてだった。この後も暫く銃声が聞こえた。
 「不動尊」がある。地元では「沖見不動」と呼ばれているそうだ。仏像には明治38年と刻まれていたが台座には文久2年(1862)の文字が刻まれていた。
沖見不動
 ようやく坂を下り終えると舗装された222号線に出る。この右手に「地主神社」がある。ここは社殿がなく、背後の巨岩を含めた森全体がご神体とされていたようで、今も祭壇の中央に立つ神木のサカキによって象徴されている。熊野地方では神は巨岩や大樹に宿すという素朴な自然信仰から社殿を設けずに祀るところが少なくなかったという。
地主神社
 太間川に架かる入谷橋を渡る。このあたりようやく平坦な舗装道に出てホッとする。222号線を進み、松の木踏切でJRの線路を横断する。太間川沿いに進むが、この川も三ケ川と同様に水が流れていない。その先の堀切踏切で再びJRの線路を横断すると、左手に「石塔」が立っている。「堀切の文殊坊」という庵寺があったらしく、寺子屋の弟子が師匠の供養に建てたという筆子塚もあると説明されているが、どれがそれなのかわからなかった。
堀切の文殊坊
 ここで道は二股に分かれているので、これを右へ進む。集落の中の細い道を進み、突き当りを右折、その先左手に「周参見王子神社」がある。大辺路を歩いてきてはじめての王子社だ。若一権現社ともいい、熊野の神様をお祭している。
周参見王子神社
その先で周参見川に突き当たり、これを右へ川沿いに進み、遠見橋を渡る。周参見小学校に突き当たり、これを右折する。その先に周参見町役場があったので立ち寄って先ほどなくした「和歌山県街道マップ 熊野古道」がないかお聞きすると、あるということだったので一部頂き、街道の事に関してもしばらくお話をする。
 その先、右手に若宮踏切のあるところを左折して進むと左手に万福寺がある。その先の下地踏切でJRの線路を横断して42号線に合流する。今日はその先にある国民宿舎枯木灘に宿泊する。このあたりは他に宿はないと思っていたのだが、来てみると釣り客を対象にしているのだろうか、他にも民宿が何軒かあった。

 16時44分に宿に到着する。

 本日の歩行時間   8時間26分。
 本日の歩数&距離  34854歩、26.2km。