熊野古道・大辺路を歩く

2010年12月01日(水) ~2011年02月12日(土)
総歩数:168240歩 総距離:123.2km

2011年02月12日(土)

紀伊浦神~浦神峠~二河峠~駿田峠~那智

                      晴れ

 7時30分に宿を出発する。昨夜まで雨が降っていたようだが、今朝は止んで晴れ間が広がっている。田無川に架かる鬼頭橋を渡り、更に高木橋、長光橋を渡って進むと、炭焼き小屋があり、煙がたなびいている。ただ人影はない。
炭焼き小屋
 ここにも案内板が立っているので、それに従って進み、浦神峠の山道を上っていくとやがて休平に出る。ここから案内板に従って山を下っていくと、庄池のところに「道標地蔵」があり、「右ハ山みち」「左ハ大ヘチ」と刻まれている。
「道標地蔵
 これから平坦な道になり、歩きやすい。右手に「石の道標」が立っており、ここにも「右ハやまみち」「左ハ大へち」と刻まれている。
右ハやまみち
 集落の中に入って案内板に従って右折、突き当たりを左折すると、右手に「大原神社」がある。ここの境内には享保4年(1719)、文政7年(1824)、文久2年(1862)といった古い石灯籠が立っている。
大原神社
 すぐ先の二股を右へ進むが、ここには珍しく案内板はなかった。その先右手に草木に隠れるようにして「弘法大師像」と地蔵尊が祀られている。
弘法大師像」と地蔵尊
山際の道を進んでいくと正面に「大泰寺」の参道が見えてくるので、直進して参拝することにする。ここは熊野七薬師の一つで、薬師堂に納められている薬師如来坐像は平安後期の作といわれており、国の重要文化財に指定されている。 本堂は元禄2年(1689)に創建され、現在の建物は昭和7年(1932)に再建されたものという。
大泰寺
 街道に戻って下和田のバス停の先から二股を左へ進み、次の二股を右へ進むと、右手に「諏訪神社」がある。ここは下和田の氏神様ということだ。
諏訪神社
 太田川に架かる大宮橋を渡ってすぐ右折、すぐ先を左折、更にその先の三叉路を右折と案内板に従って進む。
左手に「太田神社」がある。ここの境内には天保5年(1834)の石灯籠が立っている。
太田神社
 その先左手に「大辺路街道市屋休憩所」があったので、ここで一休みし、その後市屋峠へ向かう。峠の頂上は掘割になっており、文化15年(1818)のお地蔵様が祀られていた。
市屋峠
 山を下っていくと右手に与根河池がある。この池は江戸時代に灌漑用に作られたもので、池に3年、溝に10年かかったと伝えられていると資料に書かれている。二体の「与根河の地蔵尊」が左手にあり、一体には弘化2年(1845)と刻まれている。
与根河の地蔵尊
 左手にコンクリートの建物があるところから下り、すぐ先の二股を左へ進んで、急な階段を上って行くと二河峠に出る。このあたり左手は岩が迫っており、道幅50cmほどの細い道のすぐ右側は切り立った崖になっている。滑り落ちるとどこまでも落ちていきそうなので注意しながら進んでいく。
二河峠
 峠を下っていくと小川と道が一つになっている。幸い水は流れていないので、歩くことができたが、大雨の後などここを歩くにはかなり大変だろうと思った。山を下ると二河川の河原に出、ここに木の橋があるのでこれを渡る。
二河川の河原
 この先も右折、左折を繰り返すが案内板が立っているので、それに従って進む。
右手に「ゆりの山温泉」がある。ここは熊野詣の天皇や上皇、武人や宮人がここで湯垢離をとったといわれる古い温泉だ。ここを通ったのは午前11時ごろだが、土曜日ということもあってか、温泉に入るお客さんが何人も車で来られていた。右手に「ゆかし潟」が広がっており、この潟の周囲を回るようにして進むと「呼ばずの坂」の説明板が立っている。それによると明治の初めのころ、この村にやってくる郵便配達員が坂を下る手間を省くため、坂の上から村人を呼んで取りに来てもらっていたという。そのため、この坂の辺りでは郵便屋と間違われないように大声で人の名前を呼ばなかったという。この説明板の横に享和元年(1801)の石碑が立っていた。
享和元年
 左手に一軒民家があり、その横から案内板に従って左折して細道に入ると左手に「十三代亀山城主」の墓がある。十三代湯川直春は秀吉の紀州征伐の際、居城を焼いて熊野へ奔り、目良淡路守・山本主膳とともに南征軍に抵抗した。後に本領安堵を条件とした和睦に応じるが、翌年秀吉方の謀略により毒殺されたという。
十三代亀山城主
 小さい階段を上って上の道に出て、左へ進むと、左手に「諏訪神社」がある。
手に「諏訪神社
 その先で42号線に合流、湯川トンネルの手前から左折して木材工場の敷地内を通って山の中へ入って行く。弘化2年(1845)玉置定八建立と刻まれた地蔵尊がある。台座に「願就」と刻まれており、その下は欠落していた。
願就
 駿田峠を上って行くと左手に階段があり、「加寿地蔵」がある。階段の途中に「二の姫」があり、その上に「一の姫」が祀られている。昔、身分の高い歌子姫が熊野詣の途中、この峠で亡くなられたのでその供養のためお地蔵様をお祭りしたが、酒粕を好まれたことから(粕地蔵=加寿地蔵)と呼ばれたという。二の姫は歌子姫の妹姫で同じようにここで亡くなられたと説明されている。
二の姫一の姫


 駿田峠もきれいな掘割になっている。
駿田峠
 ここから坂を下っていくと、勝浦観光ホテルの駐車場に出るので、これを抜けて42号線を横断、天満川に架かる思案橋という小さな橋を渡る。その先右手にフェンスに囲まれた中に大きなヤツデの木が立っているところがあり、その手前から右折して進む。
ヤツデの木
 左手に「天満神社」があって延享3年(1746)の石灯籠が立っており、那智護国神社、天神社、八幡社、地主神社の四つの社が並んで立っていた。
天満神社
 酢醸造の歴史を感じさせる工場の横を左折、すぐ先を右折してその先で42号線に合流する。汐入橋を渡って、那智駅の手前を左折すると大辺路と中辺路の分岐点である「振分石」がある。ここで大辺路は終わるのだ。
振分石
 12時37分に振分石に到着する。大辺路は中辺路と違って歩く人が少ないと聞いており、その分案内板等も少ないのではないかと思っていたが、実際に歩いてみると、随所に案内板が設置されており、迷うことの少ない道だった。また海岸線を通っているようだったので、平坦な道が多いと思っていたのだが、想像以上にアップダウンが多くて驚いた。

 本日の歩行時間   5時間7分。
 本日の歩数&距離 20296歩、15.6km。

 振分石のすぐ横に「補陀洛山寺」がある。ここは仁徳天皇の時代、インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたという古いお寺で、江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808)の台風で主要な堂塔は全て滅失したという。その後長らく仮本堂だったが、1990年に現在の室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建されたという。

その横に「熊野三所大神社」がある。ここは夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とすることが名称の由来とされており、主祭神像三躯は国の重要文化財に指定されている。また九十九王子の一つである、浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社とも呼ばれる。

ここで大辺路を歩き終わったのだが、まだ時間があるので、ここから熊野那智大社へバスで向かって、那智の大滝、那智大社を経て、この地まで戻ってきた。更に翌日ここから新宮へ向かい、熊野速玉神社まで歩いたが、これらの道は中辺路になるので、次回中辺路を歩いた時にいっしょに掲載させていただきます。

熊野古道・大辺路総合計
 総歩行時間  37時間9分。
 総歩数    168240歩。
 総歩行距離  123.2km。
 熊野古道・紀伊路純距離 110.1km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)