熊野古道・中辺路を歩く

2011年02月12日(土) ~2011年03月19日(土)
総歩数:163714歩 総距離:128.8km

2011年03月15日(火)

紀伊田辺~一ノ瀬王子

                      晴れ

 熊野詣では京都を出発し、船で淀川を下って、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸。海岸筋を熊野の玄関口、口熊野といわれた田辺まで南下し、田辺からは東に分け入り「中辺路(なかへち)」の山中の道を本宮へ向かう道が一般的だった。したがって「中辺路」と「紀伊路」は同じ道なのだが、近世初頭ころから、田辺からそのまま海岸線沿いに南下し、紀伊半島をぐるっと回って那智の浜に到る道を「大辺路(おおへち)」、高野山と本宮を結ぶ道を「小辺路(こへち)」と呼ぶようになり、それにともなって紀伊路の田辺から本宮までの道を「中辺路」と呼ぶようになったという。 

 11時20分に紀伊田辺駅を出発する。駅前から二つ目の信号を右折して進むと、左手に「蟻通神社」がある。ここは「大辺路」を歩いた時に通ったところだ。その先の二股を左へ進むと「新町道標」がある。ここが大辺路と中辺路の分岐点だ。ここも前回通ったところだ。
新町道標
 中辺路はここから右折して進む。その先で208号線と合流して左へ進み、会津の信号を横断して進むが、地図をみていると良く分からない。前回「大辺路」を歩いた時に参考にした「みんなで歩こう熊野古道 大辺路・小辺路」はとても分かりやすかったので、今回も同じ本で「いっしょに歩こう熊野古道 紀伊路・中辺路」という本を取り寄せてこれを参考にしたのだが、中辺路の地図はアバウトな書き方が多く、分かりにくかった。そのため途中から和歌山県観光連盟が出している「和歌山県街道マップ 熊野古道 中辺路」をみて歩くことにしたがこちらの地図のほうがわかりやすかった。会津の信号のところでよく分からなくて、一旦進み、会津川の手前から戻ったりしたが、結局、橋の手前の川沿いの道を右折、秋津踏切でJRの線路を横断、その先の大師橋を渡ると突き当たりに「高山寺」がある。ここは田辺の人々には「弘法さん」の名で親しまれているそうで、聖徳太子の草創、弘法大師が中興したと伝えられているが、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちにされたという。江戸時代、文化年間(1804年~1818年)に建てられた多宝塔が見事だ。
高山寺
 高山寺から右折して会津川沿いに進み、田辺バイパスの下を通る。その先で右折して秋津橋を渡って左折、紀伊民報本社の横から右折するが、ここには標識が立っている。
 右手に「秋津王子跡」がある。このあたりは左右秋津川に挟まれた氾濫原の低地で長い歳月の間の水没や水害などによって、現在では秋津王子の旧地や古道を辿ることは難しいと説明されている。
秋津王子
 ここで昼食にする。例によってコンビニのおにぎり4個を適当な場所がなかったので道端に座り込んで食べる。その先左手にNHKのラジオ中継放送所のアンテナが立っているところから右折して進む。左手に会津小学校があり、その先から右折、左会津川に架かる目座橋を渡って左折、次の橋(名前は不明)があるところから右へ進む。
次の橋
 天王池があり、その右手に寛保元年(1741)の石碑と地蔵尊二体が安置された小祠がある。
寛保元年
 左手に「須佐神社」がある。ここの神事である「万戸の獅子舞」は田辺市の民族文化財に指定されているという。
須佐神社
 右手に紀南農協の万呂支所がある先から左折、橋の手前から右折して川沿いに進む。前方に熊野橋がある手前の小さな橋を渡って進むと十字路があり、その右手前方の梅林の中に「万呂王子跡」碑が立っている。道からは分かり難いところだったが、丁度梅林に人がおられ、私がキョロキョロしている姿をみて、「ここだよ」と先方から声をかけてくれたので、探し当てることができ助かった。分かり難いので迷う人が多いのだろう。
万呂王子跡
 そのまま梅林の中を進んで35号線に合流したところに万呂王子の案内板が立っていた。それによると万呂王子は明治10年に下万呂の須佐神社へ合祀されたが、そのころまではこの地に小さな森があり、王子の面影が残っていたと書かれている。そのまま35号線を進んでいくと、左手に三栖廃寺塔跡の看板が立っており、そこから左へ分岐する道へ進む。更にその先で三栖廃寺塔への案内板が立っており、それに従って街道をはずれて左へ分岐して進むとちょっとした公園になっていて、そこに「三栖廃寺塔跡の石碑と小さな祠」が立っていた。三栖廃寺は奈良時代前期、白鳳時代の創建とされ、法隆寺式伽藍配置で三重塔が立っていたと推定されているということだが、現在では遺構は何も残っていない。
三栖廃寺
 街道に戻って進み、下三栖の信号の先、報恩寺の大きな案内板が立っているところから右折、左会津川に架かる善光寺橋を渡ると右手に報恩寺がある。街道はここから坂を上って進むが、資料ではこの辺りから先は道が荒れているので35号線を通り、新岡坂トンネルを通ったほうがいいと書かれていたが、実際に歩いてみると、標識が各所に設置されていて間違わずに歩くことが出来た。途中、梅林があり、その中に「三栖王子跡」がある。藤原為房が永保元年(1081)に熊野を参詣した時に三栖荘に宿泊したと日記に記されているそうだ。
三栖王子跡
 その先も標識にしたがって細い山道を進む。今は草が枯れているので歩きやすいが、草が繁った季節は草が刈られていなければ、歩き難いかもしれない。ただこれだけ標識が立っているのであれば、地域の方々が草刈等の対応をしっかりとやられているのかもしれないとも思った。いずれにしても道の保全作業は大変だろうと思う。
道の保全
 山を下ると35号線に合流するが、左手に新岡坂トンネルの出口が見える。
 その先右手に「八上王子跡」のある「八上神社」がある。ここには見事な巨木が立っており、この神社の社叢は上富田町の天然記念物に指定されている。
八上神社
 この先、「いっしょに歩こう熊野古道」の地図は分かりにくかったが、設置されている案内板に従って川沿いに進む。左手岡川の向こう側に岡小学校がある。岡川橋で岡川を渡って進むと、右手に小さな森があり、その中に「田中神社」がある。ここは昔、田中神社から6kmほど上流にある岡川八幡神社の上手の倉山という山から大水のときに森全体が流れ着いたのだと伝えられているという。この神社の森は全体を藤で覆われており、この藤は、口熊野・田辺に在住した世界的博物学者南方熊楠の命名により「オカフジ」と呼ばれており、和歌山県指定の天然記念物になっている。
田中神社
  右手に岡川に架かる松本橋があるところから左へ入ると「王子谷越えルート」があるのでこれを進む。標識に従って坂道を進んでいくと山道になる。かなり急な坂だが道はあるので、それを上って行き、やがて下る。
王子谷越え
 山を下ったところ左手に「岩田神社」があり、その境内に「稲葉根王子跡」がある。大正4年に岩田神社に合祀されたという。
岩田神社
 富田川に突き当たるので、これを左折、川沿いに進む。この場所は道が分かれており、一つは私が歩いた道で、もう一つはここから右折、その先の畑山橋という潜水橋を渡り、興禅寺を通って一ノ瀬王子へいたる道である。
 富田川は古くは上流を来栖川、中流を岩田川、下流を富田川と呼び、この付近を一ノ瀬(市ノ瀬)といって、熊野詣の道中、禊をした聖なる川として知られているという。
 根皆田川に架かる根皆田橋を渡り、その先の市ノ瀬橋で富田川を渡って左折、川沿いに進み、清水谷川にかかる清水橋を渡って進む。その先で標識に従って右折するが、その角に地蔵尊を祀る祠がある。
その角に地蔵
 右手少し坂を上ったところに「一ノ瀬王子跡」がある。平安・鎌倉時代の熊野詣は何度も岩田川の瀬を渡って滝尻まで行くが、最初に渡るのがこの一ノ瀬だったという。
一ノ瀬王子跡
 右手に笠を置いた安政6年(1859)の「庚申塔」があり、これは道標になっている。
庚申塔
 その先で加茂橋を渡ったところにある民宿に今夜は宿泊する。

 16時28分に民宿に到着する。
 今日は平坦な道がほとんどで歩く上では楽だった。

 本日の歩行時間   5時間8分。
 本日の歩数&距離 27482歩、18.2km。

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