熊野古道・中辺路を歩く

2011年02月12日(土) ~2011年03月19日(土)
総歩数:163714歩 総距離:128.8km

2011年03月16日(水)

一ノ瀬~滝尻王子~近露王子

                    曇、雪

 7時5分に宿を出発する。宿は街道のすぐ近くにあったので、すぐに合流、そこから急な坂道を上ると、右手に「花折地蔵尊」がある。この辺りも標識があるのでそれに従って進む。
花折地蔵尊
 その先で今度は急坂を下っていき、車道に合流するところから左折、すぐ先を右折して進んだが、ここは一旦車道を進み、その先にある郵便局のところから左折して私が歩いた道に合流するのが街道だったようだ。標識がなかったので少しの距離だが私は間違って歩いたようだ。その先で311号線に合流したところ左手に「鮎川王子跡」がある。藤原頼資が承元4年(1210)に修明門院に随行して熊野詣をした時、この辺りで大雨に遭遇、随行した公卿の従者等9名が増水した川に流されて命を落としたという。
鮎川王子跡
 鮎川新橋を渡るが、風が強くて寒い。帽子を飛ばされないように手に持って橋を渡る。橋を渡って左折、すぐ先の内ノ井川に架かる大宮橋を渡り、その先で道は二股に分かれているので左へ進む。ここにも標識が立っているのでそれに従って進むと、右手に「住吉神社」がある。ここの境内には幹周り8m、樹高35.8mという楠の木をはじめとした巨木が立っており、神社の社叢は和歌山県の天然記念物に指定されている。
住吉神社
 神社の横から道は二股に分かれており、右の坂道を上る。道なりに進み、左手にのごし橋、右手に藤原定家の歌碑が立っているところを直進していくと、道は舗装された道から梅畑の中の土道になる。右手に「道祖神」と「庚申塚」がある。これは陰陽合体の道祖神で「さえの神」といわれ、邪悪なものをさえぎり、路の悪霊を除いて旅人を守り、男女円満、縁結びの神として信仰されていると説明されている。
道祖神」と「庚申塚
川沿いの山道を進んでいくと「念仏渕と鮎川温泉」の案内板が立っている。それによると後白河法皇は頭痛の持病を持っていたが、熊野の神が夢枕に現れ、前世のどくろが岩田川(現富田川)に沈んでいて、どくろに松の根が入り、水の流れに松の根が揺れて、そのたびに法皇の頭が痛むので、ねんごろに供養するようにというお告げがあった。早速熊野に向かったところ、渕のところで急に頭が痛くなったので、阿闍梨を呼んで祈祷すると、渕の底から松の根の刺さったどくろが見つかり、頭痛がよくなったという。熊野へ詣る人々が渕のところで念仏を唱えると、仏、仏と渕の底から仏様の名が聞こえてくることから念仏渕という名前がついたという。渕の付近を掘って出たのが鮎川温泉と説明されている。
念仏渕
 311号線の橋の下をくぐって進むと「オオウナギ指定地境界標」が立っている。オオウナギは熱帯性のウナギなので富田川は北限の生息地といわれており、鮎川付近で1.7m、重さ28kgのオオウナギが保護されたことがあるという。私の身長とほぼ同じだ。考えただけでも気持が悪い。ウナギが好きとはいってもちょっと食べる気はしない。
この辺りでは雪がちらついている。寒いのだが、この先で急な上り坂になり、これを上って行くと一気に汗が出てきて、一枚着ている物を脱ぐ。
 峠に来ると庚申塔が二体とその横に享和元年(1801)の石灯籠が立っている。
庚申塔が二体
 右手に石碑が二つ立っており、その横に宝暦6年(1756)の「御日侍供養塔」がある。
御日侍供養塔
 緩やかな坂道を下っていくとやがて舗装道に合流する。その先で富田川に架かる北郡橋を渡るが、ここは赤いつり橋でかなり高いところに架かっているので、下を見るとぞっとする。
北郡橋
橋を渡って右折して進み、西谷川に架かる清姫橋を渡ると右手に「清姫の墓」がある。この地「真砂の里」は安珍、清姫物語の主人公「清姫」の出生の地として有名で、昔から清姫の墓やゆかりの板碑等が祀られている。清姫の墓はここから300mほど上流の富田川の森の中にあったが、国道の拡幅等によって現在地に移されたという。
清姫の墓
 その先で一旦311号線に接し、すぐに左へ坂を上るが、その先で再び311号線に合流、富田川沿いに進む。この辺りは車の交通量もさほど多くなくて気持のいい道だ。滝尻橋を渡ると左手に「滝尻王子跡」がある。天仁2年(1109)に熊野詣を行った藤原宗忠が滝尻王子で「はじめて(熊野権現の)御山の内に入る」と記したように、ここからいよいよ熊野三山の聖域に入るのだ。滝尻王子は熊野九十九王子社のうち最も重要視された社格の高い五体王子社に数えられている。
滝尻王子跡
 ここに滝尻茶屋があるので立ち寄ってみると、語り部をされている牧さんがおられて、色々とお話を聞かせていただくことが出来て、勉強になった。私が出発するときには竹で作ったほら貝のような笛を吹いて見送っていただいた。
牧さん
 茶屋で一息入れた後、王子社の横から坂を登り始める。ここから最高地点の上多和茶屋跡まで約600mの標高差があり、いきなりの急坂だ。坂を登り始めるところに大きな岩を包むようにして木の根が巻きついていて、いかにも神秘的な雰囲気を感じる。
木の根
 坂を登りはじめるが急坂だ。息が切れてくる。 やがて「胎内くぐり」の岩がある。熊野への道は潮見峠越えが主流になって、室町時代以降この剣ノ山を登る熊野参詣者はいなくなったが、土地の者は春秋の彼岸に滝尻王子へ参拝し、その後この岩穴をくぐって山の上にある亀石という石塔に参ったという。この岩穴を抜けることを胎内くぐりといい、女性がここをくぐれば安産するといわれている。私も入口まで入ってみたが、中は狭くてうまく抜けられそうになかったので、くぐることはやめた。語り部の牧さんのお話ではくぐる際、来ているものが汚れれば汚れるほどご利益があるということだった。
胎内くぐり
 そのすぐ先に「乳岩」がある。これは奥州の豪族藤原秀衡が夫人同伴で熊野詣にきた際、ここで夫人が急に産気づきこの岩屋で出産したという。夫婦は赤子をこの地に残して熊野へ行ったが、その子は岩から滴り落ちる乳を飲み、狼に守られて無事だったので、奥州へ連れ帰ったという伝説があるそうだ。
乳岩
 「不寝王子跡」がある。ここは中世の記録には登場しておらず、江戸時代、元禄年間に出てくるという説明がなされている。山賊の見張りを寝ずにしたということから名前が付いたという説もあるが、ネズの語源は明らかではないという。
不寝王子跡
 一旦平らな道になるが、その先でもう一度上り坂になる。滝尻王子から500m毎に番号道標が立てられており、歩く上で参考になる。
番号道標
 坂を登っていると、横を小さな動物が走っていった。リスだ。動きが早いので写真を撮る暇がなかったのが残念だった。「剣ノ山経塚跡」がある。剣ノ山は古くは神聖な場所とされており、ここから熊野本宮へかけて九品の門が立ち、ここには最初の下品、下生の門があったという。この経塚跡は経典を経筒に入れ、それを壷に入れて地中に埋めたところだ。
剣ノ山経塚跡
 剣山の頂上に到着する。371mと記されている。ここから緩やかな下り坂になる。所々に石畳が残っている道を黙々と歩いていく。だれもいない静かな道だ。
所々に石畳
 右手に「針地蔵」がある。歯が痛い時このお地蔵さんに願をかけ、願いが叶うと針を奉納したという。このあたりになると雪交じりの強風が吹き付けてきて寒い。
針地蔵
 その先の急な階段を上って進むが、テレビ塔があるところまで来ると平坦な道になる。
右手に「夫婦地蔵尊」を祀る祠があるが、これは新しいもののようだ。。
夫婦地蔵尊
 丁度12時に「高原熊野神社」に到着する。ここは応永12年(1405)に建立され、天文元年(1532)に建て替えられたもので熊野古道最古の神殿ということだ。ただ、平安時代から鎌倉時代にかけての記録に当社の存在は確認できておらず、九十九王子には通常数えられていないということだ。ここで昼食にする。今日も宿で作っていただいたおにぎりを食べる。ここには高原霧の里休憩所があり、丁度観光バスで団体が着いたところだった。
高原熊野神社
 この休憩所の横から坂を上って行く。この辺りは旧旅籠通りになっていて、横屋、亀屋といった昔の屋号を掲げた家が並んでいる。道は急な上りになって、すぐに山道になる。左手に庚申塔が立っている。
左手に庚申塔
 「古道散策のみなさまへ」と書かれた看板が立っている。それによるとここから近露王子までは民家も、連絡の方法もなく、所要時間は約4時間なので気をつけてくださいとなっている。12時35分にここを通る。この先道は石畳になる。
古道散策
 「一里塚跡」の碑が立っているが遺構は何も残っていない。
一里塚跡
 更に進んでいくと語り部の方が女性二人を案内されていた。色々と説明をされながらゆっくりと進んでいたので、「こんにちは」と声を掛けて通り過ぎると、「お気をつけて」と返していただいた。雪がちらついているが、気持のいい山道を進んでいくと右手に「高原池」がある。その先右手に「大門王子跡」がある。この王子は中世の記録には登場しておらず、王子の名の由来はこの付近に熊野本宮の大鳥居があったことによるもので、鳥居の付近に王子社が祀られ、それにちなんで大門王子と呼ばれたのだろうと推測されているということだ。
大門王子跡
 ここを過ぎた辺りから雪が激しく降ってきた。この段階では雪の熊野古道を歩くとは珍しいことなので、面白くなってきたと思っていた。アダモの「雪は降る♪」を口ずさみながら歩いていく。まだまだ余裕があったのだ。
雪は降る
 ところが更に風が強まり、次第に暴風雪の様相を呈してきた。周囲は瞬く間に白くなっていく。稜線の左側を歩いているので左側から吹き付ける雪がすごくて、左半身は払っても払っても雪がこびりついてくる。このまま雪が降り積もって歩くことが出来なくなるとこれはちょっとまずいぞと思い出した。時間を見ると高原を出発して1時間半が経過している。近露との間の半分あたりを歩いているので、引き返すわけにも行かない。とにかく早く近露に着かなければとちょっと焦った。先ほどの女性の二人連れは大丈夫だろうかと思ったが、語り部さんが一緒なので的確な判断をされているだろうと思い先を急ぐ。
暴風雪
 「十丈王子跡」がある。これは平安・鎌倉時代には重點王子として記されているが、江戸時代には十丈峠にあることから、この名前で呼ばれるようになったと説明されている。
十丈王子跡
 その先まで行くと、道は稜線の左側から右側を歩くようになった。風は左側から吹き付けていたので、急に風が止み、雪も降り方が少なくなってきたので、ヤレヤレと思った。
稜線の左側
 右手に「小判地蔵」があり、嘉永7年(1854)に飢えと疲労で小判をくわえたまま、ここで倒れたという巡礼を祀っているということだ。地蔵には「道休禅定門」という戒名が彫り付けてあり、豊後国(大分県)有馬郡の人だったという。たぶん伊勢と熊野に参って、紀三井寺へ向かう途中に亡くなったのだろうとされているが、昔の旅はこのように命がけだったのだろう。
小判地蔵
 「悪四郎屋敷跡」の標識が立っている。昔、力が強く、頓知にたけていたという十丈四郎という人がここに住んでいたという。悪という言葉は勇猛で強いということから来た言葉だ。ただ遺構は何も残ってはいない。
 このあたりで道は再び稜線の左側へ出たため、風雪は益々強くなってきた。南国九州の人間にとっては強烈な吹雪だがとにかく前進あるのみだ。寒さで顔の筋肉が硬直しているようで、さすがに歌を歌う気持にもなれず、ひたすら先を急ぐ。
南国九州
 「一里塚跡」の石碑が立っているが、ここも遺構は何も残っていない。
一里塚跡」の石碑
 「上多和茶屋跡」の案内板が立っているが、看板が雪で覆われていて文字が読めないため、手で雪を落として読んだ。それによると標高約600mのこの地に茶屋があったそうで、この山上には陰暦の11月23日の夜に東の空に三体の月が現れるという伝説があったので、その日はここに大勢の人が集まり、餅を供え、心経をくって月の出を待ったという。
上多和茶屋跡
 その先から道は下り坂になり、稜線の右側になった時は風雪はほとんどなくなり、左側に出るとまた激しい風雪に晒されるという状況を繰り返す。それにしてもすごい風雪だ。
 「三体月伝説」の案内板が立っている。内容は上多和茶屋跡にあったことと同じことだ。上多和、悪四郎山、槇山に同様の伝説が残っているという。ここから道は二股に分かれているが、標識に従って左へ下っていく。
石畳が残っている道を下っていくが、この辺りになるともう風雪はなくなり、道には雪も積もっていない。何とか山を越えたようだとホッとする。またこの場所に限ったことではないが、間違いそうな道のところには「この道は熊野古道ではありません」という標識が立っているので、これも歩く上で随分助かる。
この道は
 「大坂本王子跡」がある。大坂(逢坂峠)にあることからこの名前がついたということだ。江戸時代には「大坂王子」「相坂王子」とも記され、寛政10年(1798)頃には小社があったという。
大坂本王子跡
 山を下ったところで311号線に接するが合流せず、標識に従って階段を上る。
 その先に「一里塚跡」の石碑が立っている。
 「箸折峠の牛馬童子」がある。箸折峠といわれるこの峠は花山法皇が御経を埋めたところといわれ、またお食事の際、カヤの軸を折って箸にしたので箸折峠、カヤの軸の赤い部分に露が伝うのをみて、これは「血か露か」と尋ねられたので、この地を近露(チカツユ)というようになったという。ここの宝篋印塔は鎌倉時代のものと推定され、石仏の牛馬王子は花山法皇の旅姿、そばにある石仏は役ノ行者像と説明されている。
箸折峠の
 急坂を下っていくが、とにかく熊野古道はアップダウンが激しい。特に下り坂は膝にくるので、ゆっくり気をつけながら下っていく。ようやく人家があるところまで降りてきて日置川に架かる北野橋を渡って進むと左手に「近露王子跡」がある。ここは古くは「近湯」「近津湯」を書かれていたが、承安4年(1174)に熊野を参詣した藤原経房の日記以降「近露」と書かれるようになったという。
近露王子跡
 15時48分に近露王子跡に到着する。ここから今日の宿である民宿ちかつゆまで400mほどの距離である。
 宿は別棟に温泉があり冷え切った身体を温める。吹雪の中、アップダウンの厳しい道を良く頑張ったなぁと思いながらゆっくりとお湯に浸かる。最高の気分だった。宿のご主人によると今回の東日本大震災の影響で予約客のキャンセルが相次いでいるということで、ほかに宿泊客の姿はなかった。

 本日の歩行時間   8時間43分。
 本日の歩数&距離  30108歩、24.5km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん