熊野古道・中辺路を歩く

2011年02月12日(土) ~2011年03月19日(土)
総歩数:163714歩 総距離:128.8km

2011年03月17日(木)

近露王子~熊野本宮大社

                      晴れ

 7時10分に街道に合流して歩き始める。今日は晴れているが寒い。
 右手に「伝馬所跡」がある。この辺りは近露道中といわれ、熊野街道の宿場としてにぎわったところで、江戸時代には十軒の宿屋があったという。伝馬所があったという丹田家が立っている。
伝馬所跡
 その先で道は五叉路になっており、うっかりして左折してしまったが、途中で気がついて左から二番目の道を進むと左手に「野長瀬一族の墓」がある。野長瀬氏は13世紀初頭近露荘下司職になって楠木正成を助け、南都から吉野へ向かった護良親王の危急を救ったとされている。豊臣秀吉の紀州征伐に抗して一家離散となったが、その数十年後に再び近露に戻り、現在に至っているという。付近の山に埋もれていたものをここに集めたということで、五輪塔54基、宝篋印塔6基が祀られている。
野長瀬一族の墓
 標識に従って進むと左手に近野小学校、その先右手に近野中学校があり、やがて楠山登り口に着く。ここから楠山坂という山道を上るが、坂道を登り始めると途端に暑くなって着ている物を一枚脱ぐ。
歩いていると鶯の鳴き声が聞こえてくる。かわいい鳴き声だ。
 集落の中を進んでいくが、ここはかなりの高地にあるようで眺めがいいが、道が平坦ということもあって寒さが身にしみるので一度脱いだ物をまた着る。集落の人が「寒いね」と声をかけてくれた。
 「比曽原王子跡」がある。建仁元年(1201)後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家は近露王子の次に「ヒソ原王子」に参詣したと記されているようだが、鎌倉時代末期以降は「比曽原王子」となっていると説明されている。
比曽原王子跡
 その先で道は二股に分かれているので、左へ坂道を登ると「一里塚跡」の石碑が立っている。
 「野中伝馬所跡」の案内板が立っている。江戸時代、野中には11頭の馬が準備されており、人足はいつでも出られるように用意されていたという。
 「継桜王子跡」がある。天仁2年(1109)熊野に参詣した藤原宗忠はその日記に「道の左辺に続桜の樹あり、木は檜でまことに稀有なこと」と記しており、檜を台木とした桜が植えられていたことが分かるという。境内にある9本の杉の大木は枝が全て南を向いて伸びていることから「一方杉」と呼ばれている。
継桜王子跡
 「とがの木茶屋」があり、そこから少し下ったところに「野中の清水」があるようで、途中まで階段を下りてみたが、かなり急な階段だったので、それ以上降りることをやめて先へ進んだ。アップダウンが多いので、正直少々うんざりしている私がいる。
とがの木茶屋
 「秀衡桜」がある。奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、その子を残してここまで来たが、杖にした桜の木を地に突き刺して子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だといわれているという。この桜は明治の中頃までは継桜王子の社前にあったという。現在の桜は何代目かで、明治中頃に現在地に植えられたものという。
秀衡桜
 「安倍晴明の腰かけ石」がある。平安時代の陰陽道の大家安倍晴明がこの石に腰掛けて休んでいたときに上方の山が急にくずれそうになったが、晴明は得意の呪術で崩壊を未然に防いだといわれている。
安倍晴明
 「中川王子跡」がある。ここは当初「仲野川王子」あるいは「中の河」王子と記されていたようだが、承元4年(1210)の藤原頼資の日記以降「中川王子」と記されていると説明されている。
中川王子跡
 その先で旧山道の近道があるという標識が立っていたが、その上に歩くことができないと書かれていたので、そのまま舗装された道を進む。晴れてはいるが、時折雪がちらついて寒い。道路の横の金網には大きなツララがぶら下がっていた。
ツララ
 「小広王子跡」があるが、この王子は江戸時代以前の記録には王子として登場していないという。その後土地の人が小広峠の上に祀った小祠がいつの間にか小広王子と呼ばれるようになったと考えられているということだ。この辺りまでくるとまだ昨日の雪が残っている。
小広王子跡
 その先の標識が雪で覆われていて読むことが出来ないので、雪を除けてみた。
雪の標識1雪の標識2

 ここから山道を下っていくが雪が積もっていて滑るので注意をしながら下っていく。私が歩く前に何人かのグループがこの場所を歩いたようで、複数の足跡が残っている。谷川を渡ったところに「地蔵尊」を安置する祠があり、ここから山を上って行くと「熊瀬川王子跡」がある。道が二股に分かれていて、もう一方は「岩神王子へ」となっていたので、どちらへ進むか迷ったが、足跡も山を上っているし、地図をみても熊瀬川王子は少し上のほうにあるようなので、山を上っていった。「熊背川」王子の名前は鎌倉時代末期の「熊野縁起」にのみ記載されており、それ以外の文献には記載されていないという。
熊瀬川王子跡
 そのまま先へ進むと、先ほど分岐した道に合流し、その先に「一里塚跡」の石碑が立っている。当時の道で和歌山からここまで28里(112km)あったことになる。何人かの足跡が残る雪道を進んでいくと「草鞋峠」に着く。草鞋峠(標高592m)は西の小広峠、東の岩神峠に挟まれた峠で、江戸時代にはこの付近の山道は蛭降峠百八丁といわれて山ヒルに悩まされたところだという。
草鞋峠
 長い急な下り坂(女坂)を下っていくが、道が滑りやすいので注意をしながら歩いていくと「仲人茶屋跡」の案内板がある。昔は西の草鞋峠の坂を女坂、東の岩神峠の坂を男坂といい、その中間にこの茶屋があったので、江戸時代に仲人茶屋と名づけられたという。
仲人茶屋跡
 ここから九十九折の急な登り坂(男坂)を上っていくと「岩神王子跡」がある。天仁2年(1109)熊野に参詣した藤原宗忠は「石上の多介」(岩神峠)にあった王子社に参拝をしたが、そこに田舎から熊野に参る途中の盲人がうずくまっており、宗忠は食料を与えたという。明治初年にこの岩神峠を通る道が廃道になったため、王子跡は山林中に埋もれて約百年間不明になっていたという。
岩神王子跡
 ここから道は急な下り坂になる。とにかくアップダウンが激しい。ただ標識が随所に立っているので、それに従って進めば道に迷うことはない。
 右手に「おぎん地蔵」がある。おぎんは京都の芸者だったが、道湯川の豊之丞を慕ってここまできた。もう少しで道湯川というこの地で二人の追剥ぎに襲われて命を奪われたので、土地の方が哀れんでここに地蔵を立て、おぎん地蔵と呼ぶようになったという。文化13年(1816)のことだという。
おぎん地蔵
 所々に丸太を三本ほど束ねた橋が作られており、それを渡って進むが、これに雪が積もっていて滑る。しかも横は急斜面になっているところもあり、一旦転げ落ちると深い谷底まで転げ落ちてしまいそうだ。注意をしながら進んでいったが、あるところで見事に滑ってしまった。あまりにきれいに滑ってしまったため、そのままその場にしりもちをついてしまった。そのため横の崖を転がり落ちるところまでいかなかったのでホッとする。後でみてみると橋の写真を一枚も撮っていないことに気がついた。写真を撮るよりも転ばぬように注意をしながら歩くことで精一杯だったのだろう。それにしても我ながら見事なこけっぷりだった。
 谷川を渡る橋があり、その手前から右へ行くと「蛇形地蔵」があるので、街道をはずれて行って見た。この付近で出土した海藻の化石が蛇の鱗のように見えることから、「蛇形石」と名づけられ、それを背において祀られているこの地蔵尊は「蛇形の地蔵尊」と呼ばれ、明治22年の大洪水以前は旧岩神峠にあったという。昔熊野を往来する旅人がこの峠で「ダル」という妖怪にとりつかれて倒れる遭難が相次いだため、寛政年間に岩神峠にこの地蔵尊を祀って旅人の遭難を防いだという。明治の大水害時には岩神峠から不思議な音が聞こえたため村人は避難をして遭難を免れることができたので、その後この地に地蔵尊を迎えて祀ったということだ。
蛇形の地蔵尊
 街道に戻って進むと、川の方向に向いて「湯川一族の墓」と書かれた矢印が立っているので、それに従って川へ進んでみたが、お墓がどこにあるのか分からなかった。左手に「湯川一族発祥の地」の石碑が立っており、このあたりが戦国時代に御坊平野を中心に勢力をふるった湯川一族の本拠地だったのだろう。
湯川一族発祥の地
  すぐ横に「湯川王子跡」がある。以前は「内湯」王子、「湯河王子」といった記載が見られるが、承元4年(1210)の藤原頼資の日記に「湯川王子」という記載がみられ、以後この名が定着したという。
湯川王子跡
 急な坂道を上って行くと三越峠に出る。時計を見ると12時5分になっているので、ここにある休憩所で昼食にする。今日も宿で作っていただいたおにぎりだ。ところがこの休憩所、まだ新しくてきれいなのだが、窓にガラスが入っておらず、ドアもないので吹きさらし状態だ。中のベンチには吹き込んだ雪が残っている。とにかく寒いので、大急ぎで食べ終わって峠を下ることにする。
休憩所
 三越峠は口熊野と奥熊野の境界にあたり、中世には関所が置かれていたという。現在でも門が作られており、そこから急な坂道を下っていく。
三越峠
 ここにも何人かの靴跡が残っている。かなり健脚の皆さんだったのだろう。最後まで追いつくことは出来なかった。
何人かの靴跡
 ようやく山を下ると、梅の木が花を咲かせていた。ここから林道になって道幅も広く、歩きやすくなる。その先で林道から分岐して急な階段を下り、音無川沿いに進んでいくが、その先でようやく平坦な道になる。川は水がきれいだ。
 右手に広場があり、ここから「赤木越」がスタートしている。この道は湯の峰温泉へ向かう道だ。
赤木越
 すぐ先左手に「船玉神社」がある。昔、玉滝という滝があって、その滝つぼで神様が行水をしていると、急に大雨となった。ちょうどその時滝つぼに浮かんでいた一匹の蜘蛛がその大雨に溺死しそうになった。それを神様が見て、榊(サカキ)の葉を投げてやった(カシの葉であったという話もあるそうです)。蜘蛛はその葉に乗って、手足を使って船を漕ぐようにして無事に岸にたどり着いた。 その様子を神様が見て、船というものを思い付き、楠をくりぬいて丸木船を造った。これが最初の船であったという。
船玉神社
 その先で林道から右へ分岐する山道へ入り、坂を下っていくと「猪鼻王子跡」がある。滝尻王子から本格的な山岳路となった中辺路はこの猪鼻王子からアップダウンを繰り返しながら、次第に高度を下げ、熊野本宮大社へと向かっている。「猪鼻王子」と刻んだ石碑は享保8年(1723)に紀州藩が熊野行幸の史蹟顕彰のために立てたものという。
猪鼻王子跡
 林道に合流して進むと、その先で再び林道から分岐して右へ坂を上る。また登りかとさすがにうんざりする。
 坂を登りきったところに「発心門王子跡」がある。熊野本宮まで約7kmのところにあるこの王子は発心門といって「悟りの心を開く入口」とされる大鳥居があったことに由来するという。熊野本宮まで残り僅かだと気合を入れる。
発心門王子跡
 ここから舗装された道を進むが歩きやすくてホッとする。すぐ先を標識に従って右へ進むが、ここも舗装されている。人影のない静かな集落の中を歩いていく。左手に人形が二体立っているが、人間そっくりなのでびっくりする。
人形が
 その先に「歯痛の地蔵さん」がある。以前見た針地蔵と同様なのだろう。
歯痛の地蔵さん
 「水呑王子跡」がある。この石碑も享保8年(1723)に紀州藩が熊野行幸の史蹟顕彰のために立てたものという。
水呑王子跡
 その先で再び山道に入るが、この道は歩きやすい。
この道は歩きやすい
 集落に入って進むが、ここに「菊水井戸」がある。近くにおられた方に名前の由来をお聞きすると、この辺りの集落を菊水といい、その集落の水をこの井戸で賄っていたことからこの名前が付けられたということだった。この地区は山の高台にあるにも関わらず、井戸や湧水が多く湧き出しており、その代表がこの菊水井戸だという。
菊水井戸
 「伏拝王子跡」がある。京都を出発した熊野参詣の人々は約260km、12日前後でこの地に到着、熊野三山巡拝の最初の目的地である熊野本宮が遥かかなたに鎮座する光景を目の当たりにして、感動のあまり「伏して拝んだ」という。またこの王子には熊野本宮を目前にして、月の障りとなって参拝を断念しようとした和泉式部を熊野権現が快く受け入れたという伝説も残っているという。境内には和泉式部の供養塔と13世紀に建てられたという笠塔婆が立っている。
伏拝王子跡
 その先で緩やかな下りの土道になる。左手に文政9年(1826)の「南無大慈大悲観世音菩薩」という観音菩薩の宝号の石碑が立っている。
南無大慈大悲観世音菩薩
  土道を下っていくと「三軒茶屋跡」がある。ここは高野山と熊野を結ぶ果無街道と中辺路街道の分岐点で、昔は熊野本宮大社の参拝を終えると、ここから高野山へ参る人が多かったという。石の道標が立っており、「右かうや十九り半」「左きみい寺三十一り半」と刻まれている。昔は伏拝から本宮まで左右松並木で道幅も広く、石畳が敷かれていたという。この地は三軒の茶屋があり、特に近代は中辺路銀座と呼ばれるほど賑わっていたという。
三軒茶屋跡右かうや


 すぐ横に「九鬼ケ口関所跡」があり、門が立っている。
九鬼ケ口関所跡
 ここから再び石畳の階段を上って行く。本宮までもう少しだと気合を入れて上る。
 その先で石畳の階段を下っていくと、団地の中に入る。これまで山の中を歩いてきたので、一気に現実に引き戻されたような気持になる。本宮までもうすぐという場所に「祓殿王子跡」がある。(手持ちの資料にはこの王子を祓所王子としていて案内板と異なっていました。)前世や現世に心身に積もった汚れを祓い清め、熊野三所権現の神威にすがって祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊や祓いが重視されたが、特にこの王子での祓いは熊野本宮参詣の直前に行うもので、最も重要視されていたという。
祓殿王子跡
 15時54分に熊野本宮大社に到着する。
着いた!という思いが強い。現在よりも遥かに不便な旅をしてきた昔の人々はこの思いがもっと強いものだっただろうと想像する。無事に踏破できたことに心からのお礼をする。
ありがとうございます。
 境内には平日にも関わらず参詣客が多い。温度表示が5℃を示している。歩いているときは感じないが、立ち止ると寒い。
本宮1本宮2

 本宮参拝を終えた後、大斎原へ行く。ここには熊野坐神社(現熊野本宮大社)が鎮座していたのだが、明治22年の大洪水によって建造物が崩壊してしまったという。現在は遺構は残っていないが、高さ42mという大きな鳥居が平成12年に建てられていた。
大鳥居大斎原


 今夜の宿は大日越登り口の近くにある民宿に宿泊する。まだ新しい建物で気持がよかった。

 本日の歩行時間  8時間44分。
 本日の歩数&距離 33533歩、28.5km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん