伊勢南街道(和歌山街道)を歩く

2019年10月30日(水) ~2019年11月23日(土)
総歩数:279550歩 総距離:180.1km

2019年10月30日(水)

京橋~紀伊長田

                   晴れ

伊勢南街道は紀伊国と大和国、更に伊勢を結ぶ紀ノ川沿いの街道で、かって都が奈良に置かれていたころは歴代天皇の行幸の道であり、江戸時代には紀州藩の領地であった松阪までを結ぶ道で、参勤交代の道として利用された主要街道であった。和歌山ではこの道を「大和街道」と呼び、三重では「和歌山街道」と呼んでいるが、この記事では伊勢南街道(和歌山街道)とした。
 参考資料としては「和歌山県歴史の道調査報告書(Ⅱ)南海道・大和街道」「三重県歴史の道調査報告書 初瀬街道 伊勢本街道 和歌山街道」「みえ 歴史街道ウォーキングマップ」及び東吉野村教育委員会の「東吉野の旧街道」を参考にした。

11時5分に京橋・札の辻を出発する。ここが街道の起点となるところだ。
起点1起点2

 ここから街道は本町通を北進するが、ここは和歌山市のメインストリートになっている。JR紀勢本線の高架下を通り、その先を右折、更に26号線に突き当たるので左折、嘉家作の信号を右折して24号線を進むと、右手に「春泉堂(嘉ケ作り御成屋敷」の説明板が立っている。それによると春泉堂は藩主が別館へ御成りの際の休憩所だったという。
春泉堂
 この辺りは嘉家作丁(かけつくりちょう)と呼ばれ、城下入口の宿場だったところだ。寛永10年(1633)紀ノ川大水害後に築造された堤防斜面を利用して建築されたもので、表は道路、裏は堤防で低くなっている「懸け造り」という独特の建築様式となっていた。また町内は藩士休憩のため軒先を深く出し、「一文字の軒」と称されるように高さが統一され、「おだれ」と呼ばれる深い軒先を通って、東西約三町の間を通りぬけられるようになっていたという。「嘉家作り丁 一文字の碑」と刻まれた石碑が立っている。
嘉家作丁1嘉家作丁2

 地蔵の辻という信号がある。ここには地蔵堂があったが、道路拡幅工事に伴って移転し、現在はここから街道を外れて右折した先、紀勢本線の高架下に移設されている。御堂の前には「地蔵辻 茶所」「為先祖代々善 」と刻まれた安政5年(1858)の手水鉢がある。11時40分にここを通る。
地蔵堂1
 その先にスーパーがあったので、ここで昼食にする。
 新在家には「四箇郷の一里塚」があり、両塚が残っているが、このような町中で両塚が残っているのは珍しい。ここは京橋を出て最初の一里塚だ。24号線の道路工事の際、盛り土がされたため、当時は現在よりもっと大きかったという。北塚の松は昭和54年に、南塚の松は昭和59年に植え替えられたそうで、木はまだあまり大きくはない、
四箇郷一里塚
 右手に「四嘉郷身代わり地蔵尊」を祀るお堂がある。
四嘉郷身代わり地蔵尊
 阪和自動車道の下で14号線から左斜めに分岐して進むが、ここは車もあまり通らず、静かな道で歩きやすい。
 右手に資料によると「右 和歌山加太阿わしま道 左 紀三井寺ヨリ和歌山十八丁 西国三十三か所 熊野弁日前宮道」「すぐ高野山こかわ寺 大坂道」と刻まれた明治18年の八軒屋の道標が立っている。
八軒屋の道標
 和歌山バイパスの高架下を抜けた右手に「根来寺不動明」と刻まれた寛政10年(1798)の石碑が立っている。
根来寺不動明
 右手「八軒屋自治会館」の庭に石仏を安置する祠が二つとその横に宝篋印塔が立っている。
八軒屋自治会館
 紀ノ川の堤防にある14号線を歩くが、ここは歩道がなく、交通量もかなりあるので、歩きにくい。
 千旦の信号で14号線から右へ分岐して下っていくと、千旦団地があり、その先で熊野古道紀伊路と合流する。紀伊路は2010年に歩いているのだが、ここを歩いた記憶は全く残っていない。その先で熊野古道と分岐するところに標識が立っていて、「吐前王寺社跡 100m」と書かれているので、立ち寄ってみることにした。道路には「熊野古道」の標識が埋め込まれている。熊野古道は標識が随所にあって、歩きやすかったことを思い出す。
熊野古道1熊野古道2

 右手に「吐前王子跡」がある。久しぶりに見る王寺跡だ。13時51分にここを通る。
吐前王子跡
 街道に戻って進むと、左手に馬次自治会館があり、その前に身代わり地蔵を真ん中にして、その両側に地蔵を安置する祠がある、更に左手の祠の横に常夜燈が立っている。ここが資料に書かれている「馬次のお地蔵さん」のようで、常夜燈は確認が取れなかったが、寛政10年(1633)のもののようだ。地蔵はイボトリや安産に御利益があるという。ここは馬次という地名から伝馬所だったようだ。
馬次自治会館
 左手に「一里山の巡礼墓」と思われるところがある。ここに来る少し手前で地元の方にお聞きすると、お墓は以前この先にあったが、しばらく前に近くのお寺に移転したといわれていた。墓石は江戸時代のもので、秋の洪水時に船戸渡しの舟が流されて、満屋に流れ着いた巡礼者のご遺体を合祀したものという。ただ、標識もなくて場所の確定ができなかったので、本当にこの場所かどうかはわからなかった。
一里山の巡礼墓
 右手に常夜燈が立っているが、建立年月はわからなかった。
右手に常夜燈
 その先で14号線に合流し、岩出橋を渡るが、渡った左手に「大宮神社」があり、境内前に延享2年(1745)の常夜燈が立っている。ここは和銅5年(712)に熱田神宮より日本武尊を勧請して創建され、当地の産土神になったという。14時55分にここを通る。
大宮神社
 「歴史街道 大和街道」「→ わかやま ← やまと」と刻まれたまだ新しい標識が立っている。この標識はこれから先も和歌山県内の随所に立っていて、歩くうえでとても助かった。ただ、古い道標に「やまと」と刻まれたものはなく、いずれも「いせ」と刻まれているので、伊勢へ向かう街道だったと理解したほうがいいようだ。
歴史街道
 大和街道踏切でJRの線路を横断して道なりに進んでいくが、この辺りも先ほどの標識が随所に立っているので、それに従って進んでいく。大冠橋を渡った先、左手に「左 紀三井寺 わか山 道」「右 こかわ二り半 かうや 道」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。
文政9年(
 くねくねとした細道を標識に従って進んでいくと、14号線に合流するが、そのすぐ左手に「西田中神社」がある。ここはもと羊の宮と呼ばれていたが、昭和21年に若宮八幡宮本殿が合祀されたことから、本殿が二棟あって、向かって左側の一棟は旧羊の宮本殿で、建築様式から室町時代末期の作と推定され、右側の旧八幡神社本殿は寛永12年(1635)に建立されたという。入口には享和2年(1802)の常夜燈が立っている。16時2分にここを通る。
西田中神社
 その先で14号線から右斜めに分岐して旧道を進む。その先で道は二股に分かれているところがあるが、ここにも標識が立ってていて、それに従って右へ進む。
 その先で14号線に合流するが、そのすぐ先右手に地蔵堂がある。
右 地蔵堂
 右手に田中小学校がある先から14号線から左へ分岐して旧道に入る。その先で道を間違えて、一旦14号線に合流してしまったが、間違いに気が付いてもとの旧道に戻って進み、左手に法音寺があるところから右へ進んで一旦14号線に合流する。すぐ先、打田の信号の少し手前から左へ分岐して進むと、左手に「打田一里塚跡」碑が立っており、その横に「東田中神社」がある。この近辺にはもともと地主神が八社あって田中の八社と呼ばれていたが、戦後アメリカ進駐軍の指令によって、各4社ずつ合祀されて、先ほどあった西田中神社とこの東田中神社に改称されたという。東田中神社は平安時代初期の天長年中(830年頃)に慈覚大師が勅命を受けて、近江の日吉神社を勧請、山王権現と称し、田中壮の総社とされていたが、昭和21年に若宮、中の宮、竹房神社の三社を合祀して東田中神社と改称したという。16時51分にここを通る。
打田一里塚東田中神社

 その先24号線を歩道橋で横断、ここも標識に従って進んでいくが、その先で道は二股に分かれているところがあり、ここには標識がなかったので間違って直進してしまった。ここは右折しなければいけないところだったことに気が付いて歩きなおすが、日没が刻々と近づいており、かなり焦る。
道が二股
 左手に「八幡宮」があり、境内に文化元年(1804)の常夜燈が立っている。17時17分にここを通るが、もう日没時間を過ぎており、かろうじて残照が残っている状態だ。
八幡宮
 その先に道標が立っているところで、17時30分、今日の歩きを終わることにした。周囲はすでに真っ暗だ。すぐ近くの紀伊長田駅から今日の宿がある和歌山へ電車で戻る。

 本日の歩行時間   6時間25分
 本日の歩数&距離 37694歩、25.2km
 本日の純距離    23.4km((途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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