伊勢南街道(和歌山街道)を歩く

2019年10月30日(水) ~2019年11月23日(土)
総歩数:279550歩 総距離:180.1km

2019年10月31日(木)

紀伊長田~大和二見

                    晴れ

 8時24分に道標のところから出発するが、紀伊長田の駅の横に「寛平法皇 勅願寺 厄除観音寺」と刻まれた長田観音寺の社標が立っている。
長田観音寺
 昨日は周囲が暗くなっていたので、道標の写真を改めて撮るが、寛政元年(1789)の子育て地蔵を安置する地蔵堂があり、その前にある道標には「右 いせ こうや」「左 長田厄除観音 こかわ寺へかけ ぬけみち」と刻まれている。
寛政元年
 その先で24号線を横断して進むと、右手に「風市神社」がある。境内に寛政と読むことが出きる常夜燈があるが、台風の被害なのだろうか、社殿の屋根が吹き飛んでいて、青いシートが掛けられていた。
風市神社
 その先左手に「右 いせみち」「左 こかわてら」と刻まれた自然石の道標が立っている。
自然石道標
 突き当りを右折、すぐ先の橋を渡って左折して川沿いの道を進むが、ここは桜並木になっている。桜の時期にここを歩くと気持ちがいいだろう。
桜並木
 その先で川に突き当たるので、迂回して粉河の信号で川を渡り、旧道の対岸まで戻って進む。ところがこの先で道が失われているようで、古い橋が架かっているところで川を渡り、ミカン畑の中を通って24号線に出てこれを横断、すぐ先で24号線から左へ分岐、郵便局の裏側を進む。
ミカン畑
 右手に小祠があり、その先左手に常夜燈が立っている。ここが資料によると淡路街道との追分になるようだ。自然石の道標があるが、うっかりしていて何と刻まれているのか確認しなかった。
淡路街道
 すぐ先右手には三体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
三体の地蔵堂
 高架下を通って進むと、右手に文化12年(1815)の常夜燈が立っており、「右 かうやみち 弘法大師永代常夜燈 左 いせまきのを道」と刻まれている。またその横に電柱の陰になっているが「右ハ こうやみち なて〇中」「ひたりわ いせみち」と刻まれた蒲鉾型角柱が、現在の標識と並んで立っている。ここが高野辻とよばれているところで、右へ曲がれば高野街道西口に通じ、左へ行けば伊勢、まきの尾へ通じている。
高野辻
 東野踏切でJRの線路を横断して進むと、地蔵堂がある。資料によるとこの地蔵尊の台石に安政2年(1855)「右 いせまきのを ミ ち」と刻まれており、道標になっている。
安政2年
 その先で道路工事が行われており、街道を歩くことができなかったため、わずかの距離だったが、迂回して進む。
 名手川に架かる名手橋を渡ってすぐ左折、すぐ先を右折して進むと、左手に「名手宿本陣」がある。ここは妹背家の住宅だったところで、主屋、座敷部が保存されており、国指定重要文化財、国指定史跡になっている。華岡青洲の妻、加恵の実家としても知られている。9時42分にここを通る。
名手宿1名手宿本陣2

 穴伏踏切でJRの線路を横断して進み、480号線に合流したところ、右手に石仏を安置する祠とその横に標識が立っている。
石仏と標識
 妹背橋を渡り、24号線に合流、高田の信号から24号線から左へ分岐して旧道を進むと、左手に地蔵尊を安置する祠がある。
地蔵堂祠
 寺前踏切でJRの線路を横断、その先の高田踏切で再びJRの線路を横断すると、左手に西笠田駅がある。
 左手に「南無不動明王」と刻まれた石碑とその横に二つの石碑が立っている。刻まれている文字が延享5年(1748)のように見える。
南無不動明王
 右手に紀ノ川が流れており、船岡山が見える。気持ちのいい道だ。
船岡山
 背の山踏切でJRの線路を横断したところ左手に、「才蔵堀跡」碑が立っている。宝永4年(1707)大畑才蔵が小田井用水を開削したとき、この一帯は固い岩盤の為、大変な難工事だったという。しかし開削できたおかげで伊都・那賀両郡役1000町歩の水田は穀倉地帯に生まれ変わったという。
才蔵堀
 この辺りは柿の産地なので、いたるところに柿の木があり、実が色づいている。
 その先で道は二股に分かれており、右へ坂道を下ってJRのガード下を抜けて進む。この辺りもそれぞれに標識が立っているのでわかりやすい。
 24号線に合流、右手に紀ノ川万葉の里という道の駅があり、その先から24号線から左へ分岐して旧道を進む。
 125号線の高架下を抜けて進むと右手に「一字一石搭」がある。
一字一石1
 右手に「十五社の楠」がある。樹齢600年以上の近畿一の大楠で県指定天然記念物に指定されている。「本幹の周り13.5余mで、支幹が八方に張り、その様が森のようにみえることから十五社の森と呼ばれている」と説明されている。ここは高野七口の一つ、有田・龍神口を歩いた際に見たところだ。10時46分にここを通る。
十五社の楠
 この辺りは歴史を感じさせる旧家が多い。右手に笠田郵便局がある前、左手に「宝来戎神社」がある。
旧家宝来戎神社

 24号線を横断、更にその先の佐野の信号でもう一度24号線を横断して旧道を進むが、この辺りも標識が頻繁にあるので、それに従って進む。役場前信号で一旦24号線に合流、すぐ先の桜谷川で再び旧道に入る。
 道は「七郷井」に沿っているが、これは農業用水路で、正徳3年(1713)の古文書にその名前が出てきているほど古い歴史を持っており、近辺七カ村の田地を潤していたことから「七郷井」と呼ばれているという。
七郷井
 左手に「御夜燈」と刻まれた台座のみの常夜燈があり、その横に文政10年(1827)の「法花全部一字一石搭」がある。
文政10年
 左手に県立医大病院紀北分院がある右手、橋の手前に「延命地蔵」を祀る祠とその前に「法花一字一石搭」がある。
延命地蔵
 すぐ先右手にも自然石に刻まれた「法花一字一石搭」がある。
自然石法花一字一石
 その先を左折、更に右折して進むと、右手に「天満宮」がある。
天満宮
 更にその先左手に登録有形文化財に指定されている旧家がある。
登録有形文化財
 「すぐ こかわ いわで 右 高野山慈尊院九〇 左 いせはし本五〇」「右 こかわいわでわ〇」と刻まれた道標があるので、ここを左折する。
すぐこかわ
 街道から少し外れた24号線にラーメン屋があったので、ここで昼食にする。気さくなおばちゃんがおられ、色々と話しかけてこられるので、「今日はこれから大和二見まで歩く」と言うと驚かれていた。
 街道に戻って進むと、高架下の手前右手に地蔵尊がある。
地蔵尊2
 この辺りも標識が整備されているので、それに従って進む。この標識は本当に助かる。
 右手に「前田邸」がある。ここは江戸時代の邸宅で菜種を商っており、庄屋でもあったという。13時31分にここを通る。
前田邸
 「名倉市場蛭子神社」がある。名倉村は高野山領荘園で最古の官省符荘で中心的な村落であり、鎌倉時代に開設されたという。13時33分にここを通る。
名倉市場蛭子神社
 ここから左折してちょっとした坂を上っていくが、ここは「ババタレ坂」と呼ばれている。明治になって高野口駅が開設されたころ、駅まで牛や馬を使って材木などを運んでいる際に、この坂で牛馬が用を足したことからこの名前で呼ばれるようになったという。 
 左手に「右 信太神社参道 北四十町」と刻まれた大正12年の社標が立っている。
信太神社参道
 田原川踏切でJRの線路を横断するが、左手に和歌山線の高野口駅がある。踏切を渡ってすぐ右折して進み、寛政10年(1798)の住吉大神宮の常夜燈があるところから右折する。 
住吉大神宮
 その先、二つ目の角を左折して進むが、ここには珍しく標識がなかったので、うっかり先へ進んでしまった。
 旧道に戻って進むと、左手に「名木曽廃寺跡」がある。ここは白鳳時代の寺院跡で、金堂を西に、講堂を東に配置する法起寺式伽藍配置と考えられており、当時としては中規模の寺院だったという。護摩石という基礎石があり、その上に御堂が建てられている。14時ちょうどにここを通る。
名木曽廃寺
 左手に「史跡 一里松 用地永代提供」と刻まれた石碑が立っている。ここは和歌山四箇郷の一里松から数えて十里に当たるにところだったという。
一里松
 左手に「日本最初 子安帯解 田和地蔵尊 従是十八町」と刻まれた道標がある。
田和地蔵尊
 右手に「生地岩見守」という碑が立っている小洞があり、その奥に寛政8年(1796)の常夜燈が立っている鈴鹿神社がある。生地氏は本姓は坂上といい坂上田村麻呂の末裔ということだ。
生地岩見守1鈴鹿神社

 ここは高台になっていて眺めがいい。
視界良好
 堀の内踏切でJRの線路を横断、24号線に合流し、すぐ先で左へ分岐して進むと、右手に「大師の井戸」がある。
大師の井戸1
 その先交差点の少し右手に「西 右 かうや 左 京大坂道」「北 右 わか山こかは 左 い勢ならはせよし野 追分」「東 京大坂道 南 南無大師遍照金剛」と刻まれた東家四ツ辻道標が立っている。ここは高野七口 京大坂道(不動坂)を歩いた時に通った道だ。15時6分にここを通る。
東家四ツ辻道標
 まだ新しい一里塚の碑が立っている。「大和街道 和歌山市京橋より十一里の地点」と刻まれている。
新しい一里塚碑
 右手に「橋本宿本陣」の池永家がある。
橋本宿本陣
 古佐田郵便局が右手にあり、その先からわずかの距離旧道が残っているので、24号線から左折、すぐ先で右折して再び24号線に合流するが、ここの左手に「左 こうや こかわ き三井寺 わか山」「右 いせ 山上 よしの なら はせ たへま」と刻まれた道標が立っている。
古佐田道標
 24号線から分岐して左へ坂を下る。その先で道を間違えたが、すぐ気が付いて南海高野線の踏切を越えて進む。一旦24号線に合流するが、すぐ右へ分岐して旧道を進む。道は一旦下り坂になる。資料にあるくらがり坂のようだ。左手に各1体の石仏を安置している小祠が二つ並んでいる。
小祠二つ
 その先で道は上り坂になる。そのまま旧道を進んでいき、24号線に合流するところ左手に14体の地蔵尊が並んでおり、真ん中に一体の地蔵尊を安置する小祠があり、その先に万葉歌碑がある。
14体の地蔵万葉歌碑

 24号線の反対側には「大師井戸」がある。弘法大師が高野山草創の際、この地を通った時に飲料水の不自由を哀れに思って、この井戸を掘ったという。昭和28年に水道ができるまで使用されていたという。冷たいので別名冷水と呼ばれたという。
横の岩には歌が刻まれている。16時27分にここを通る。
大師井戸歌碑

 24号線を進み、標識があるので、それに従って24号線から左へ分岐して進む。この辺りの街並みも昔ながらの風景が残っている。
昔ながらの風景
 落合川を渡るが、ここが大和と紀州の国境になる。急坂を登って24号線に合流する。真土峠を登り切ったところで24号線から右へ分岐して旧道を進む。すぐ先で道は二股に分かれているので、右斜めの階段を下って進む。
 「旧紀州街道 真土越への路」と刻まれた標識が立っている。和歌山県ではすべて「大和街道」となっていたが、奈良県に入ると紀州街道となっている。もっともこの先で紀州街道と刻まれた標識は見かけなかった。
紀州街道
 その先で道は二股に分かれているので、左へ坂道を上り、更にその先で右へ下る。その先で坂を上って24号線に合流するが、和歌山県と違って標識はない。
 JR和歌山線の跨線橋を渡った先で24号線から左へ分岐して、山際の道を進む。一旦24号線を横断、すぐ先で再び24号線を横断して旧道を進むが、右手に「犬飼山 転法輪寺」がある。ここは弘仁7年(816)に空海が創建したお寺ということだが、 時刻は17時5分で、ちょうど日没の時間になっており、暗くなる前に歩き終わりたいので、立ち寄らずに先を急ぐ。 
転法輪寺
 左手に「烏ケ森堂」がある。ここは空海が修行中にこの場所で大雨に遭われた時、大きな烏が飛来して、羽根を広げて空海を助けたという。この烏が十一面観音の化身と言われている。そのことから空海は高野山開創の後に、このお堂を建立したという。現在の建物は昭和36年に再建されたものという。
烏ケ森堂
 つるべ落としの秋の夕暮れ、山際の道を進むが、周囲はどんどん暗くなってくる。
山際の道
 左手から道が合流するところ左手に「生蓮寺墓地 無縁佛浄土 参道」と刻まれた道標が立っている。
生蓮寺墓地
 すぐ先、左手に「雨晴地蔵尊」を祀る地蔵堂がある。
雨晴地蔵尊
 左手に「生蓮寺」がある。ここは嵯峨天皇(786~842)の皇后懐妊の時に小野篁に祈願を命じて地蔵菩薩像を安置したのが起源という。昔から雨乞い、晴れ乞い祈祷の請願書だったという。その後、空海が来山し地蔵菩薩像を刻んで本尊胎内に安置したと伝えられている。近代に入って荒廃していたが、大正年間に復興されたという。
生蓮寺
 その先で道は二股に分かれており、左に進むと左手に大和二見駅があり、その先で24号線を横断して進む。
 今日の宿はその先にあった。
17時35分に歩き終わる。周囲はもう真っ暗になっていた。

 本日の歩行時間   9時間11分。
 本日の歩数&距離 52169歩、34.7km
 本日の純距離    33.1km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

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記録

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歩人
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