熊野古道・伊勢路(熊野街道)を歩く

2011年03月20日(日) ~2011年03月26日(土)
総歩数:255609歩 総距離:186.1km

2011年03月20日(日)

伊勢内宮~伊勢外宮~田丸~女鬼峠~栃原

                     晴後雨

  今日から伊勢路を歩くが、紀伊半島の西側を通る「紀伊路」が法皇や上皇らの御幸ルートであったのに対して「伊勢路」は庶民の道として榮え、お伊勢参りを終えた旅人や西国三十三カ所めぐりの巡礼者たちで賑わったという。

 伊勢神宮を参拝するにはまず外宮を参拝し、次に内宮を参拝するのが正しいとされているようで、前日那智から伊勢に着いたときホテルに入る前に外宮に立ち寄ってみた。しかし午後6時で閉まってしまうため間に合わなかった。前日、大雲取越を大急ぎで歩いた訳はOB会参加のスケジュールとともにこの辺りにもあったのです。それにしても僅か7分の差でバスに乗り遅れるとは。。。。と再び悔しさが沸き起こる。
 ただ今更悔やんでも仕方ないので、一応外宮には昨日立ち寄ったことにして、今日は内宮から出発し、その後にもう一度外宮に参拝することにした。内宮は、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮である。 天照大御神は皇室の御祖神で今から約2千年前の垂仁天皇26年崇神天皇の御代に皇居をお出になり、各地を巡られた後、この五十鈴川のほとりに鎮座されたという。20年ごとに神殿を建て替える式年遷宮は1300年余り続けられている。
 6時30分に内宮前に着く。冷気が身を包むが、この時間には既にかなりの数の参拝者の姿が目に付く。ここまで無事に旅を続けてくることが出来た御礼を述べ、これから歩く伊勢路の無事を祈る。伊勢神宮にはこれまでに何度か来たことがあるが、いつ来ても粛然とした気持になる。ここは石段の下からしか写真撮影は許されていないので、規則に従って神殿の下から写真を撮る。
内宮 
 内宮参拝を終え、五十鈴川に架かる宇治橋を渡って、すぐ先で右折しておはらい町通りを進む。ここには色々なお店が立ち並んでいるが、まだ朝早いのでどこも閉まっている。今回利用した資料は「熊野古道伊勢路図絵」というイラストの地図でこれもとても分かりやすかった。
宇治橋
 突き当たりに「近畿自然歩道」という道標が立っており、ここから左折して進む。
 右手に「猿田彦神社」がある。猿田彦大神は瓊々杵命(ににぎのみこと)の天孫降臨に際して御案内をされた神で、そのことから道しるべの神とされており、また伊勢の地を中心に国土の開拓・経営に尽くされた神で、大神の御裔の大田命は、皇女倭姫命が神宮御鎮座の地を求めて巡歴されたときに五十鈴の川上の地を奉納、伊勢の神宮が創建されたと伝えられている。
 その先から右折して進む。滝倉川に架かる黒門橋という小さな橋を渡ると牛谷坂と呼ばれるちょっとした坂になっている。左手に「宇治惣門跡」の石碑が立っているが、ここは牛谷坂と宇治の町並みの間に俗に黒門と呼ばれた惣門が設けられた場所で、明治維新までここに番所があったという。
宇治惣門跡
 牛谷坂を上って行くと、左手に大正3年に建立された大きな常夜燈が二基立っている。
常夜燈が二基
 街道らしい雰囲気の残っている道を進んで行くと、右手に「寂照寺」がある。ここは徳川家康の孫で秀忠の娘、豊臣秀頼の室千姫の菩提を弔うため、延宝五年(1677)に知恩院第37世寂照知鑑上人によって創建された。以来その位牌・遺物を安置して供養してきているという。無旦那寺のため、後に財政的に窮乏するが、安永三年(1774)僧月僊が来て、描いた絵を売り寺運を回復したという。ここには一切経を蔵している享和3年(1803)に完成した大光明蔵がある。
大光明蔵
 その先右手に「長峰神社」がある。この神社の名前は外宮と内宮を結ぶ尾根伝いの地形に由来をしているといい、天の岩戸開きのとき、岩屋の前でお神楽を舞ったという天鈿女命を祀っている。
長峰神社
 勢田川に架かる小田橋を渡り、その先で8時10分に宿泊していたホテルに一旦戻って朝食を食べ、その後8時51分に再び街道に合流する。ホテルの朝食は7時からなので、先に内宮を参拝したのだ。
 「外宮」に参拝する。ここは「豊受大神宮」で一般的には外宮と呼ばれ豊受大御神をお祀りしている。この豊受大御神は天照大御神のおめしあがりになる大御饌(おおみけ…食物)の守護神であり農業をはじめ諸産業をつかさどる神とされている。第21代雄略天皇の22年(西暦五世紀)に天照大御神の御神慮によって丹波の国(今の京都府北部)より、この地にお迎えしたと言い伝えられている。時間は既に9時を回っており、数多くの参拝者がいた。
外宮
 外宮の中を抜けて22号線を左へ進んでいくと「小西萬金丹」のお店が右手にあり、その先に川が暗渠になっていて欄干だけが残っている「筋向橋」がある。ここは参宮街道と伊勢本街道が合流する場所にあり、この橋の擬宝珠は嘉永2年(1849)の銘があって昔からのものという。
筋向橋
 道が左へカーブする先から宮川の堤防へ上る階段があるので、これを上って堤防に上がり、右折して進んでいって度会橋を渡る。橋を渡ってすぐ先を左斜めへ進み、そのすぐ先の三叉路の真ん中の道を進み、左手に尾崎咢堂記念館のあるところから右折、突き当たりを左折すると右手に地蔵堂がある。
右手に地蔵堂
 そのまま道なりに進み、板東というバス停の先で道は二股に分かれているので、右へ進む。この辺りまで標識がなくて分かりにくかった。その先、菱川に架かる和合橋を渡るが、ここに初めて標識が立っており、新宮まで162kmと記されている。
新宮まで162km
 田んぼの中の舗装された道を進むが車も少なくて歩きやすい。汁谷川に架かる汁谷橋を渡るが、その横に「庚申塔」が立っている。
庚申塔
 右手に「上地公民館と大楽寺」と刻まれた石碑が立っており、その先一直線の道を進む。中辺路ではアップダウンの激しい山の中の道を歩いたが、伊勢路では一転平坦な道なのでこれは楽だと、このときは思った。後半戦であれほど厳しい峠があるとはこの段階では想像もしていなかった。
一直線の道を
 上地踏切でJRの線路を横断、古川に架かる古川橋を渡る。左手に「常夜燈」が立っている。
左手に「常夜燈
 その先街道から右へ少し入ったところに「孔子廟跡」碑が立っている。それによると医者であった小林太郎は大正4年に明朝末期の作と言われる孔子、孟子、子思の三青銅像を京都の古美術商から買い付け、ここに孔子廟を建立したことを記念して石碑が建てられたという。
孔子廟
 外城田川に架かる外城田橋を渡って進み、突き当りの二股を右へ進む。すぐ先の百五銀行の手前を左折すると、ミエマン醤油があり、その先を左折するが、ここで大和からの初瀬(はせ)街道と熊野からの熊野街道が合流、伊勢本街道として伊勢神宮へと向かっている。ここに道標が立っている。
伊勢本街道
 次の交差点に「新宮まで158km」の標識が立っている。この標識は4kmおきに新宮まで立っていた。田丸踏切でJRの線路を横断、すぐ先を右折、川に突き当たったところ左手に「庚申塔」を安置する祠が立っている。
左手に「庚申
 外城田川に架かる田丸大橋を渡って右手へ進むと、右手川の向こう側に田丸城跡が見える。ここは南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれており、康永元年(1342)に足利尊氏によって落城した。その後変遷を経て、元和5年(1619)紀州徳川家の所領となったところだ。
 三郷川に架かる竹乃島橋を渡り、その先の幸神の常夜燈があるところから道は二股に分かれており、ここを右へ進むと、右手に「接待地蔵」が立っている。昔、この地に接待地蔵があったと夢枕にお告げがあったため、掘ってみると台石のみが出てきたので、新しい地蔵尊を建立して開帳供養したという。
接待地蔵
 新興住宅街の中の舗装道を進んでいくと、外城田小学校の横に「東外城田神社」があるので、ここの境内で昼食にする。今日は前日ホテルの横にあったスーパーで買ったパンだ。
東外城田神社
 その先で道が二股に分かれているところを右へ進むが、ここに「新宮まで154km」の標識が立っている。すぐ先左手に多数の地蔵尊を安置する「石仏庵」があり、右手には「順礼道引観世音」の石柱がある。
石仏庵
 突き当たりを左折、その先の突き当たりを右折して進む。国東橋を渡って進むと、「猿田彦ゆかりの地」と刻まれた石柱が立っている。この辺りの家には「笑門」と書かれた注連縄がかかっているので地元の方にお聞きすると、これは一年中こうして玄関に掛けていて、大晦日に新しいものと架け替えるということで、この地では「福神様」と呼ばれているということだった。これまでこうした風習はみたことがなかったので、この地特有のもののようだ。
福神様
 「永昌寺」がある。ここの境内には紀州の殿様行列のとき、旅人が土下座したまま居眠りしたため、打ち首になってしまったので、これを哀れに思った村人が祀ったといわれる「眠り地蔵」がある。たかが居眠りをしたぐらいで打ち首とは、と現在では誰しも思うことだが、当時では当然のように行われていたのだろうか?なんともやるせない気持だ。ここを左へ進む。
眠り地蔵
 その先で和歌山別街道と熊野街道の分岐点があり、ここに「左さいこく道」「よしのかうや道」「すくさんくう道」「天保4年(1833)」と刻まれた道標が立っている。
和歌山別街道
 左手に「西外城田神社」があるが、お祭りが行われるらしくて椅子が並べられており、その横に数人の人が集まっていた。
西外城田神社
 小川を渡り、成川集落の中を通っていくと右手に「成川大師堂」がある。昔この地の人が江戸へ出ているときに夢枕に弘法大師が現れ、祀ってくれるようにいわれたので、その場所へ行ってみると、木造の大師像があったので、これをこの地に持って帰って祀ったという。
成川大師堂
 「女鬼峠」への標識に従って進んでいく。伊勢自動車道のガード下を通り、突き当たりを標識に従って右折、その先で道は二股に分かれているので、これを右へ上って行く。山道を上って行くが、ここの岩には「荷車の轍」の跡が残っている。当時荷車が頻繁に往来していた跡だという。
荷車の轍
 峠には「水飲み場跡」や「石積み」が残されており、標高120mの頂上は切り通しになっている。
 この峠は道もしっかりとしているし楽に越えることができた。
切り通しになっている
 「南無阿弥陀仏」と彫られた名号碑と元文3年(1738)の「如意輪観音像」を安置した祠がある。
如意輪観音像
 「大神宮寺相鹿瀬寺跡」の案内板が立っている。それによると相鹿瀬寺は天平神護2年(766)称徳天皇によって建立されたが宝亀6年(775)に廃止されたということで、現在では遺構は何も残っていない。 その先も道標に従って進むと右手に貞享5年(1688)の地蔵尊がある。
大神宮寺相鹿瀬寺跡
 その先右手に貞享元年(1684)の「浄保法師五輪塔」がある。浄保法師は伝染病に苦しむ人々のため自ら生き埋めとなって仏の救いを祈ったという。自らの命を投げ出してまで皆のことを祈るという行動の原点はどこにあったのだろうか?自分にはとてもできないと思う。
浄保法師五輪塔
 右手に「寺子屋跡」があるところから左折、左手に竹林が広がっており、その前に「まんじゅう屋跡」の案内板が立っているところを進んでいくと、その先で先ほどの舗装道に合流する。昔このあたりは養蚕が盛んで、現在の茶畑は昔は桑畑だったという。右手に「養蚕室」が見える。
養蚕室
 左手に「千福寺」がある。ここの本尊の観世音菩薩は聖徳太子の神勅によるといわれており、2月と8月の大祭には火渡りの行事が行なわれるという。
千福寺
 その先で車道を横断すると右手に元坂酒造があり、酒蔵の先から右折して山際の道を進み、その先で車道に合流する。ここまできたところで雨が降り出したが、幸い余りひどくならずに済んだ。右手に「お滝さん」と呼ばれる小さな滝があり、この水は絶えることなく流れていると書かれていたが、みるところあまり水量は豊富ではなかった。
お滝さん
 柳原橋を渡り、その先で道は二股に分かれているので、左へ進むがここには標識はなかった。ここから一直線の道が続いている。そのまま進んで、新田の信号で42号線を横断したところで時刻は16時18分になっており、今日はここで終わることして栃原駅へ向かう。16時53分のJRがあるので二つ先の駅である三瀬谷駅まで向かう。宿はそこにしかないのだ。この頃になると雨がかなり降り出していた。

 本日の歩行時間   10時間23分。
 本日の歩数&距離  48817歩、33.2km.