熊野古道・伊勢路(熊野街道)を歩く

2011年03月20日(日) ~2011年03月26日(土)
総歩数:255609歩 総距離:186.1km

2011年03月25日(金)

二木島~大吹峠~松本峠~紀伊井田

               晴時々曇一時小雨

 二木島駅へ戻るため新鹿駅を6時59分の電車に乗ると、昨日二木島駅で一緒だった女性とばったり会った。思いがけない再会(?)に驚く。考えてみれば電車の本数が少なくて次の電車は8時32分までないので、これに乗っていても不思議はないし、乗客が少ないのでわかりやすいということあるのだろうが、それにしても帰りも行きも同じ電車というのには驚いた。折角なので「通路を挟んだ」横の座席に座ってお話をする。僅か4分間の会話だったが、とても感じのいい女性で楽しかった。こうしたちょっとした触れ合い、これも旅を彩る一こまなのだろう、と一人勝手に解釈する。
 7時3分に二木島駅に着いて女性とお別れするが、「お気をつけて頑張ってください」という言葉がうれしい。
 街道は駅のすぐ横を通っており、駐車場の横の細い道を通って進む。民家のドアに熊野古道の標識が張ってあったので、それに従って狭い階段を登っていく。
古道の標識
 「二木島の一里塚跡」があり、そこの庚申堂内に庚申塔と並んで「キリシタン燈籠」がある。キリシタン燈籠は信仰の自由がなかった時代に隠れキリシタンが礼拝の対象物として創り出したもので、形式からみて創造、偽装、迷彩、無刻の四つの時代型に分類されており、この燈籠は創造時代型に該当し、江戸初期のものではないかと思われているということだ。キリスト教弾圧が厳しい時代に街道に沿ってこの燈籠があるということ自体極めて異例という。
二木島の一里塚跡
 一旦311号線に合流、二木島峠のバス停の横から標識に従って階段を登っていき、山道に入って行く。ここが二木島峠、逢神坂峠の登り口だ。二木島の中心を流れる逢川の「逢」や逢神坂峠の「逢神」には伊勢の神様と熊野の神様がお逢いになったという意味がこめられているそうだ。ここの伊勢路道標は1~30になっており、3kmほどの道のりだ。
二木島峠
 「巡礼供養碑」と思える石組みの碑がある。
巡礼供養碑
 二木島峠を越えるが、ここも鶯ののどかな鳴き声が聞こえる。道もなだらかで朝の光に青い苔が浮かび上がってなかなかいい風情だ。
がってなかなかいい風情だ
 「逢神坂峠」に来る。二木島峠から850m、新鹿側登り口から1.6kmとなっている。ここは狼が多く出没したので狼坂とも呼ばれていたという。
 峠を下ってくると左手に「庚申堂」がある。二木島峠の登り口からここまでで1時間28分が経過している。
左手に「庚申
 ここで道は二股に分かれているので右へ進み、湊川橋を渡って左へ、更にその先で右折して進んで集落の中を歩き、その先で311号線に合流する。
 左手に天保2年(1831)の「巡礼道標」がある。これには街道に面して「右なち山」「左いせ道」東側に「すぐなち山」西側に「すぐいせ道」と刻まれている。
巡礼道標
 右手に「徳司神社」があるが、ここの石垣は丸い石で出来ていて珍しい形になっている。ここに9時3分に到着したが出発して丁度2時間が経過している。宿はここの少し手前にあったので、やはり昨日の峠越えは無理だったと思った。
徳司神社
 その先で311号線から右へ分岐して波田須・大吹峠への道標が立っているのでそれに従って進む。右手にまだ新しい小祠が立っており、その横に文政12年(1829)の石灯籠が立っている。
文政12年
 311号線に合流、その先で311号線がトンネルに入る手前から右へ標識に従って階段を登る。「西行松」の案内板が立っているが、この松は枯れて今では何も残っていない。この辺りから平坦な道になる。
 「波田須の石畳」がある。ここの石畳は一つ一つが重厚で大きく、敷き方も豪快で鎌倉時代のものといわれており、伊勢街道では一番古い石畳といわれている。
波田須の石畳
 右手に波田須神社があるところから311号線を横断、その先で街道から外れて「除福の宮」へ行ってみる。始皇帝から不老長寿の薬を探すように命を受けた除福は波田須に上陸したという。この辺りから雨が降ってきたが幸いたいした降りにはならなかったので助かった。
除福の宮
 「おたけ茶屋」の案内板が立っているところから標識に従って坂を下る。このあたりは道が入り組んでいて分かり難く、注意をしながら標識に従って進む。その先で311号線に合流して進み、右手にトイレがあるところから道が二股に分かれており、トイレの後ろに大吹峠を登る道があるのでこれを進む。ここも苔むした石畳が続いている。
大吹峠石畳
 大吹峠の伊勢路道標は1~14になっている。峠の辺りは竹林に囲まれており、これは熊野古道では珍しい風景だ。この辺りはかって「大吹の御厨」と呼ばれて鎌倉時代から南北朝時代にかけて伊勢神宮の神領地になっていたという。
大吹の御厨
 山を下ると311号線に合流、その先で階段を上って防波堤を歩いていく。大泊海岸の信号で42号線を横断したところに「松本峠」の登り口がある。ここの伊勢路道標は1~7で短い。ここにもきれいな石畳の道がある。
松本峠石畳
 頂上に「松本峠のお地蔵様」がある。このお地蔵様は建ったその日に妖怪と間違われて、鉄砲傷を付けられてしまったという。お地蔵様にとってはとんだ災難だ。
松本峠のお地蔵様
 長い下り坂を下っていき、笛吹橋を渡る。平安時代坂上田村麻呂が鬼ガ城にいた鬼の大将を討伐した際、その勝利を祝って将軍の行列が笛を吹き、太鼓を叩いて渡ったことからこの橋を笛吹橋と呼ぶようになったという。
 大吹峠の登り口からここまでで1時間27分が経過している。これから先、道はようやく平坦な道が続くようになった。
 その先で道を間違えて「木本神社」まで行ってしまったが、気がついて神社までいく一つ手前の角を右折して進む。旧酒甚旅館が左手にある。ここは明治の初期に開業し、数多くの巡礼や旅人が宿泊したが、平成7年に廃業したという。
旧酒甚旅館
 商店街の中を歩いていくが、食堂やコンビニがない。熊野市までくれば店はあるだろうと思って今日は昼食のおにぎりを持ってきていなかったのだ。困ったなと思っていると郵便局があったので、そこに入ってお聞きすると熊野駅の近くに店があるということで、街道を外れて行ってみた。そのお店では今日は日替わり定食だけしか出来ませんと言われたが、とにかくお腹が大きくなればいいので、それをお願いする。腹がへっては歩くことが出来ないのだ!
この頃になって降ったり止んだりしていた雨が上がる。昼食を食べて無事お腹が満たされたので街道に戻って先を急ぐ。
 右手に「稲倉稲荷神社」がある。ここは寛文年間(1661~)に新出町の奥川本家が京都の伏見より勧請したものという。その横に宝暦9年(1759)に作られた手洗い水舟として使用されていた水槽がある。
稲倉稲荷神社
 稲倉稲荷神社の横から左へ42号線に合流して海岸に沿って進むと、「獅子岩」がある。ここは高さ25m、周囲210mの岩塊で約1400年前に海底のマグマが冷えて出来たという。横から見ると確かに獅子の姿に似ている。
獅子岩
 この先、海岸は七里浜と呼ばれるところで、きれいな海岸線が広がっている。
七里浜
 この辺りまで来ると食事ができる店がたくさんあった。
 その先に「口有馬道標」がある。「右 くまのさん道 志ゆんれい道」と刻まれているが建立年月はないという。花の窟の西の曲がり角にあり、「熊野三山、西国巡礼はここから右へ曲がっていくべし」という指示になっているということだ。
口有馬道標
 右手に「花の窟神社」がある。皇室の先祖とされる天照大神の母神であるイザナミの尊は火の神カグツチ神を産んだ時、火傷を負って死に、この地に葬られた。尊の魂を祀るため、土地の人々は花の咲くころに花を飾り、幟や旗を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い踊って祭りを行うことから、「花の窟」という名前がついたという。熊野三山の中心である本宮大社は主神がイザナミの尊の子のケツミコ神であることから、「花の窟」は熊野三山の根源とされており、日本最古の神社として有名だ。ここには社殿はなく、高さ45mの巨叢を御神体としていて、自然崇拝の太古からの遺風を残している。ここはあまりに大きくてカメラに入りきらなかった。
花の窟
 街道はここから右折して進み、熊野有馬郵便局の先から道は二股に分かれているので、左へ進むが、この分岐点に文政3年(1820)の「立石の道標」がある。「右はほんぐう」「左はじゅんれい道」と刻まれており、伊勢神宮へ参拝した後、本宮へ急ぐ人と那智山へ参拝する巡礼がここで分かれたという。
立石の道標
 立石の信号で42号線を横断して「浜街道」に入る。ここはこれまでの厳しい峠道と比較して平坦な道で歩きやすくホッとする。本当にただ平坦な道というだけでありがたく感じてしまう。
 街道の所々にスイセンが花を咲かせている。そういえばこれまで歩いてきた街道、特に峠には花が全くなかったなぁとこのとき気がついた。
スイセン
 新宮まで18kmの標識が立っている。明日の昼に京都へ向かうまでに何とか歩き終えることができそうだ。42号線のガード下を通って志原橋を渡り、再び42号線を横断して浜街道を進む。ところがその先で資料には道が描かれているのだが、その道がなくなってしまった。おかしいなと思いながら藪を進んで行って見たが、やはり道はないので42号線に合流してそのまま進んでいった。途中に喫茶店があったので、その店の方にお聞きすると、この辺りはまだ道の整備ができていないので歩くことができないということだった。新緑橋北の信号から右へ分岐する道があり、これを進んで緑橋を渡って進むと左手に「市木の一里塚」がある。
市木の一里塚
 右手に御浜町役場があるところの御浜町役場前の信号から「七里御浜を歩く道」の標識に従って左へ入って行く。すぐ横が七里浜なので引いては寄せ、寄せては引く波の音が心地よい。
 その先で跨道橋を渡って42号線を横断、すぐに左折して阿田和の街中を歩いていき、尾呂志川に架かる阿田和橋を渡る。その先で42号線に合流する手前右手に寛政8年(1796)の石仏が安置された小祠がある。
寛政8年
 御浜町から紀宝町へ入るところから道が二股に分かれているので、ここを右へ進む。18時近くなって周囲は薄暗くなってきている。その先の42号線沿いに道の駅があったので、そこに立ち寄って夕食を食べる。今夜の宿はビジネスホテルで夕食がないのだ。食事といっても食堂は既に閉まっていたので、売店で売っていた寿司を買って食べる、というより流し込むという感じか。旅をしながら、その地域の名産を食べるということをしてみたいが、一日中歩いていると疲れてしまって、おいしい店を探そうという気にならないし、そのような店が近くにないケースも多いのだ。幸い食べることに関しては満腹になればそれで満足というグルメとは対極のタイプなので、こういう場合助かっている。
 食事を終えて街道へ戻り、「見松寺→」の看板があるところから右折、馬場北踏切でJRの線路を横断して坂を登っていき、その先で街道から外れて左折する道があるのでこれを下って紀伊井田駅に18時36分に着き、18時49分の電車で新宮駅へ向かう。ここも次の電車は19時41分までない。ここまでくれば明日の午前中には十分に歩き終えることができる距離なのでホッとする。

 本日の歩行時間   11時間38分。
 本日の歩数&距離 45203歩、34km。