熊野古道・伊勢路(熊野街道)を歩く

2011年03月20日(日) ~2011年03月26日(土)
総歩数:255609歩 総距離:186.1km

2011年03月24日(木)

尾鷲~八鬼山峠~三木峠~羽後峠~曽根次郎坂太郎坂~二木島

                      晴れ

 7時15分に北川橋を出発する。中井町の中を通って進むと尾鷲市総合案内処が右手にあり、そのすぐ先から左折して進む。そのすぐ先を今度は右折するが、このあたりにも標識が立っているのでそれに従って進む。
 左手に「在蔵」がある。これは郷蔵ともいい、江戸時代、紀州藩へ税として納める米や囲米を収納していたという。囲米制は宝暦3年(1753)から開始され、飢饉や困窮の度に繰り返し放出されて人々を餓死から救ったという。
在蔵
 その先左手に「庚申供養塔」が立っている。
庚申供養塔
 中川橋を渡るが、ここは水量が豊かで、水の流れも速い。JRのガード下を通り、左手に「庚申堂」があるところから左折する。
左手に「庚申
 この辺りから道は込み入っているが、「熊野古道 やのはま道」という標識が随所に立っているので、それに従って進む。
やのはま道
 右手に「宝篋印塔」がある。これはこの地方では珍しい関東方式の室町期のものという。北朝の追求を逃れた南朝のある王子がこの地で亡くなったので、その王子に関連したものではないかといわれているそうだ。
宝篋印塔
 ここから左折して矢の川に架かる矢の川橋を渡り、左折して川沿いを進んでいると、すぐ横の木に鶯が飛んできて止まり、身体を震わせて「ホーホケキョ」と一声鳴いて、またどこかへ飛んでいった。これから八鬼山峠へ挑戦する私への「がんばれ!」というエールのようだった。
 右手に「ままになるならあの八鬼山を鍬でならして通わせる」という八鬼山を隔てた三木里浦の庄屋の娘お柳(17歳)と矢浜村の宮大工の弟子喜久八(18歳)の悲恋を歌った尾鷲節の歌詞が刻まれている碑のところから右折して進む。
尾鷲節の歌詞
 右手には東邦石油の貯蔵タンクが並んでいる。その先に駐車場とトイレがあり、ここの左手に八鬼峠の入口がある。八鬼峠の頂上まで3830m、130分となっており、「各所で熊出没情報あり」の看板が立っている。ここの伊勢路道標は1~63まであって、かなりの距離がある。いよいよ最大の難所といわれている八鬼峠へ挑戦だ!
八鬼峠の頂上まで
 最初は比較的平坦な道が続き、少しずつ坂を登っていくという感じだ。「行き倒れ巡礼供養碑」がある。これは幕末、安政大地震津波の五ヵ月後にこの地で倒れた茨城県筑波郡伊奈町の武兵衛という人の供養碑ということだ。西国三十三箇所の巡礼に出る人は心に悩みを持つ人や身体に病を持つ人が多く、そういった人々が西国第一の難所である八鬼山峠で急に容態が悪くなり、そのまま亡くなってしまうということがあったようだ。
行き倒れ巡礼供養碑
 「石畳道」になる。この辺りは施行当時の面影をよく残しているそうで、敷石も大きく、立派なものが多い。
この辺りに「ゴットン石」というものがあって、これを踏むと小さな音がするのでそう呼ばれているそうだが、どれがその石なのかわからなかった。
石畳道」になる
 一町ごとに地蔵尊が立っているが、これは「町石」でふもとの矢浜を起点として、頂上まで(627m)五十体立てられていたそうだが、現存するのは三十三体で全て地蔵尊ということだ。
町石
 「籠立場」の案内板が立っている。ここは紀州藩主や巡見使が街道を通行するときに乗っている駕籠を止めて休憩したところだ。それにしてもこの急坂を駕籠を担いで登るのは大変だっただろうと思う。
「不動明王立像」がある。これは伊勢内宮清順上人供養碑で永禄9年(1566)に建立されたものだ。戦国時代、伊勢神宮は二十年に一度の遷宮が長い間行われておらず、朽ち果てていた。そのため尼僧清順は諸国を勧請して浄財を募って宇治橋を復興、永禄6年(1563)には外宮の造営と遷宮を成し遂げた。更に続いて内宮の遷宮を計画したが、永禄9年(1566)道半ばにして亡くなったという。
不動明王立像
 難所である「八鬼山峠」の中でも最も難所といわれる「七曲」を登る。さすがに急坂で厳しい。息が切れる。途中に古いお墓が何箇所もあるが、戒名が刻まれており、これらも行き倒れの方のお墓なのだろうか。体調が悪い中でこれほど厳しい坂を登るのは大変だっただろうし、それこそ命を懸けた旅を続けてきて、ここで遂に力尽きて倒れてしまったのだろう。命を懸けてまで頑張るその力、気持とは一体どこから湧き出てきたものなのだろうか?その気力を病気の治療に当てるという考えは起きなかったのだろうか、夫々の方々に色々な事情があったのだろうな、などど考えながら私もあえぎ、あえぎ坂を登っていった。
 途中で眺望が開けた場所があるが、そこから見ると大分高いところまで登ってきたという実感が湧く。その先は平坦な道と上り坂が交互にやってくる。
眺望が開けた
 「桜茶屋一里塚」跡がある。尾鷲地方では片方の塚に「松」、もう一方の塚には「山桜」が植えられたというが、現在ではもう何も残っていない。
桜茶屋一里塚
 二つの大きな石があり、手前の平たい石を「蓮華石」、後方の縦長の石は「烏帽子石」と呼ばれている。石の形が蓮華(蓮の花)と烏帽子に似ていることからこう呼ばれているという。また蓮華石をすり鉢、烏帽子石をすりこぎに見立てて、「女石」「男石」とも呼んでいるそうだ。
烏帽子石
 九木峠(522m)の道標がある。「右 みきさとまち」「左 くきみち」「大正15年」となっている。当時はこの道は生活道路として欠かせない道だったというが、これだけの急坂を頻繁に往復するのは大変だっただろうと思う。
九木峠(522m)の道標
 「荒神堂」がある。ここは大宝2年(702)に修験者である阿闇梨辺昌院仙玉法印の創基と伝えられ、一時衰退したが、天正初年(1573~)に権大僧都、各真法印が中興した。お堂の中には「石像三宝荒神立像」があり、天正4年(1576)と刻まれているということだ。ここは西国三十三箇所第一番札所の「前札所」として八鬼山越えの巡礼が道中の安全を願って参拝したという。
荒神堂
 ここに茶屋跡があり、昭和初期まで営業をしていたという。その先で明治道と江戸道に分かれるが、江戸道を進むと桜の森広場があり、眺望が開ける。
桜の森広場
 ここから急な坂道を下っていくと「十五郎茶屋跡」があるが、ここはいつ開業して、いつ閉店したのかわからないということだ。ここには休憩所が設けられている。ここから更に急坂を下る。
十五郎茶屋跡
 その先で先ほど分岐した明治道とこれまで歩いてきた江戸道が合流する。この辺りの木には白いペンキで「世界遺産登録反対」と書かれている。反対意見があるとは聞いていたが、このようにはっきりとした反対運動の姿をみたのは熊野古道の中ではここだけだった。ただ、その後聞いた話ではこの方とは既に和解が出来たということだった。
 「駕籠立場跡」がある。ここから先の八鬼峠へ向かう江戸道は急坂になるので(私は下ってきたのだが)、お供の行列は槍を担いで登ってもいいことになっていたので、別名「槍かたげ」とも呼ばれたという。
 下り坂はここでようやく平坦になる。その先で「八鬼山峠道」三木里登り口の案内板が立っている。これで八鬼山峠を越えたのだ。峠の登り口からここまで約3時間半がかかっているが、さすがに難所だと実感する。疲れた!
 これまで中辺路から休むことなく歩いてきて疲労がかなり蓄積しているようで、この峠越えはさすがに堪えた。
 谷川を渡ると舗装道にでる。ヤレヤレだ。 その先で道は二股に分かれているので、標識に従って左へ進む。
「名柄一里塚跡」がある。ここは左側の塚にクロマツ、右側の塚にヤマザクラが植えられていたそうだが、今は両方とも枯れていて、右側の塚だけにその跡をとどめ、現在はタブノキが自生している。ここで昼食にする。今日もおにぎりだ。
名柄一里塚跡
 長柄踏切でJRの線路を横断、その先で311号線に合流、右折して沓川に架かる沓川橋を渡って、すぐに左折、堤防を進んで集落の中へ入って行く。突き当りを右折、坂を上り、突き当たりを左折、道なりに進んで311号線に合流する。八十川に架かる八十川橋を渡り、その先で標識に従って「三木・羽後峠 ヨコネ道」に入る。
三木・羽後峠
 「比丘尼転び」という看板が立っている。ここは熊野比丘尼が転んでそのまま行き倒れになったという言い伝えが残る難所。かなりの急斜面に細い土道が付いている。
 「炭焼き窯跡」の標識が立っており、その先で311号線に合流する。その先で再び311号線から右へ標識に従って入ると、ここは「三木峠」だ。標高は122mで伊勢路道標は1~8と短い。峠から下を見ると眼下の海沿いに311号線が通っている。
海沿いに311
 峠を下ると農道に合流するが、すぐ先を左へ標識に従って細道を進み、その先で右へ分岐する。
 三木峠を過ぎるとすぐに「羽後峠」にかかる。 三木峠も羽後峠も比較的緩やかで八鬼山峠を越えてきた身体にはやさしく感じる。ここには「猪垣」がある。猪垣とは田畑や山林に石垣を積み上げて、シカやイノシシなどの侵入を防いで農作物を守るもので、ここの猪垣は熊野古道最長とされており、立派な石垣が残っている。
猪垣
 途中、猪垣の間を抜ける場所もあるが、随所に標識が立っているので、それに従って進む。羽後峠は標高150mで伊勢路道標は1~9であり、2/9が羽後峠の頂上になっている。
2/9が羽後
 山を下って農道にでるが、ここで道を間違って農道をそのまま進んでしまった。途中でどうもおかしいことに気がついて引き返すと、農道に出たすぐ先から右手に下る道があったので、これを進む。標識が立っていたのだが見落としてしまっていたようだ。すぐ先右手に賀田羽根の五輪塔の案内板が立っており、そこから右手へ進むとそのすぐ先右手に「賀田羽根の五輪塔」が立っている。五輪塔は上から宝珠の空輪、請花の風輪、笠石の火輪、塔身の水輪、基礎の地輪からなっており、「空・風・火・水・地」の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始され、鎌倉以降は先亡者の供養や墓石として作られたものだ。ここの地輪には寛永18年(1641)と刻まれている。
賀田羽根の五輪
 「三木・羽後峠 ヨコネ道」の標識がたっているところからここまでで1時間52分が経過していて時刻は既に14時40分を過ぎている。当初の予定ではこの後、曽根次郎坂太郎坂、二木島峠を越えて新鹿まで行くつもりにしていたのだが、どうも難しいようだと思い出した。ただいずれにしても二木島には宿はないので、新鹿までは交通機関を使ってでも行かなければならない。
 その先で舗装道に出て右折、階段を下って進み、古川橋を渡ると左手に「首なし地蔵」がある。昭和34年の鉄道建設工事で旧熊野街道筋が駅構内になったためこの地へ移設したそうだが、江戸時代から首はなかったそうで、首から上の病が治るといわれている。
首なし地蔵
 左手に飛鳥神社があり、その横から311号線から分岐して直進する。右手に曽根公民館があるところに「曽根石幢」がある。これは別名「六地蔵灯籠」とも言われ、悪疫を退散させる地蔵として祀られている。
曽根石幢
 その先で311号線に接する手前の道を右折して進むと、右手に「曽根五輪塔」が立っている。これは戦国時代曽根近隣八ケ村を治めた曽根弾正夫妻と長男孫太郎の墓碑で弾正五輪塔は室町時代の形式である。夫人の五輪塔は承応3年(1654)、孫太郎板石塔婆は明暦3年(1657)の銘がある。
曽根五輪塔
 曽根次郎坂太郎坂を登り始める。二木島まで4.2kmの距離があるという。ここは尾鷲市と熊野市の市境を越える甫母峠(標高310m)を越える難所だ。この峠は大化2年(646)から天正10年(1582)までの間、志摩国と紀伊国の国境だった。曽根次郎坂の次郎は「自領」、太郎坂の太郎は「他領」の意味でこの地が国境だったことを示しているという。ここにも「猪垣」が残っている。
猪垣」が残っている
 ここの伊勢路道標は1~39になっている。ここにも「行き倒れ巡礼供養碑」が立っている。文政13年(1830)にこの地で倒れた武州足立郡中之田村(現、さいたま市)の人の供養塔という。供養碑がこのように残っていない人も含めると本当に数多くの人たちが道半ばで行き倒れて亡くなったのだろうと思う。当時の旅はまさに命がけの旅だったのだ。
行き倒れ
 その先に「曽根の一里塚跡」がある。道の両側に周囲より少し高い土塚が残っている。
曽根の一里塚跡
 「くじら石」がある。大きな岩で確かにくじらに似ている。
くじら石
 甫母峠の頂上は13/39で宝暦7年(1757)の「甫母峠の地蔵」と「ほうじ茶屋跡」がある。
甫母峠の地蔵
 その先で高さが2~3mもある見事な「猪垣」が残っている。これは寛保元年(1741)から一年がかりで築かれたものだという。
見事な「猪垣
 1時間42分掛けてようやく峠を抜け、その先で二木島の駅に着く。17時27分になっている。さすがにこれから二木島峠を越えて新鹿まで行くには途中で暗くなってしまって無理なので、ここから新鹿駅までJRでいくことにする。というかJRしか交通手段がないのだ。時刻表をみると17時42分があるので丁度都合がいいと思って待っていた。今日は峠の連続でクタクタになっており、グッタリなって駅で一休みする。時刻になってホームに出ると電車がやってきたが、駅の大分手前で止まってしまった。一瞬その辺りに乗り場があるのかと思ってあわてた。というのもこの電車の次は19時4分までないのだ。駅は無人駅で駅員はいない。もしこの電車に乗り遅れてこんなところで1時間半も待たされるのはたまらないと思って、あわてたのだ。ちょうどそのとき女性の方がホームにおられたので確認すると、この場所でいいということだったので安心して電車を待った。何らかのトラブルがあったようだが、すぐに回復したようで、電車はホームに到着、無事4分後に新鹿駅に着いた。ここから歩いて10分ほどのところに今日の宿があった。
 新宮まで残り少なくなってきたが、その分疲労も蓄積しており、そんな中で今日は峠の連続。さすがに疲れた。宿の方にお聞きすると、クタクタになって到着するお客が多いということだった。しかし歩数を見ると34244歩しか歩いていない。平坦な道に比べると随分少ない歩数だ。それだけアップダウンが多く厳しい道だったということなのだろう。それにしても疲れた!

 本日の歩行時間   10時間12分。
 本日の歩数&距離 34244歩、26.4km。