熊野古道・伊勢路(熊野街道)を歩く

2011年03月20日(日) ~2011年03月26日(土)
総歩数:255609歩 総距離:186.1km

2011年03月23日(水)

紀伊長島~一石峠~三浦峠~始神峠~馬越峠~尾鷲

                      晴れ

 今朝も車で送っていただいて7時に赤羽川に架かる長島橋を出発する。
 橋を渡ったところに石の道標があり、「東 左 熊野」と読むことが出来る。その先、突き当たりを左へ進む。
石の道標
 左手に「濱口熊獄邸跡」がある。「人身自由術」と称する霊術を身につけた近代最大の霊術家で尾崎行雄、御木本幸吉と並ぶ三重県の三傑の一人と説明されているが、浅学な私は知らなかった。
濱口熊獄邸
 右手に「長楽寺」がある。ここは紀北地方に勢力を張った北畠氏の臣加藤氏が築いた山城が設けられていたところという。至徳元年(1314)に築城したが、天正4年(1578)加藤氏五代甚五郎の頃に新宮の堀内氏を中心とした熊野侍との戦いに敗れて落城したという。
長楽寺
 この辺りは街道の雰囲気を残した商店街が続いている。右手に傳光寺がある先の十字路に道標が立っており、「北 右 くまの道」「西 左 いせ道」と刻まれている。
傳光寺
 ここを右折して進むと右手に「長島神社」がある。天保年間(1830~44)に築かれたという立派な石垣の下に、楠の巨木が立っている。ここの社叢は三重県の天然記念物に指定されていて、この木以外にも境内には巨木が立ち並んでいる。
長島神社
 573mあるという歩行用のトンネルを右手にみながら42号線に合流、左折して暫く42号線を進む。国道は道に迷うことはないので安心だが、いかにも単調で面白味がない。鼻歌を歌いながら進んで、その先で42号線から左へ分岐、跨線橋でJRの線路を越え、無料休憩所があるところから左へ分岐して標識に従って「一石峠」へ向かう。海野踏切でJRの線路を横断すると右手に「無縁地蔵」と彫られた地蔵尊がある。
無縁地蔵
 一石峠、平方峠の案内板が立っている。それによると一石峠の名前は天明2年(1782)に出版された「巡礼道中指南車」という本に出てきているという。 かっての熊野街道は谷に沿って一石峠まで真っ直ぐに登っていたが、現在ではその一部が消滅していて、その部分は林道を迂回することになる。しかしそれ以外の旧道は残されているという。
 林道があるのでこれを横断、その先で再び林道に合流して進む。この辺りの道が失われているのだろう。 進んでいくと案内板があり、その横に「左 いせ道」「右 くまの道」と刻まれている道標があるが下部が土に埋まっている。
右 くまの道
 一石峠を下るとゲートが閉められているが、その横を通って進むと平方峠になる。
ゲート
 ゲートを通って右折するが、ここに新宮まで90kmの標識が立っている。段々数字が小さくなってくるのをみるとそれだけゴールに近づいているという実感があり楽しみだ。突き当たりを左折すると左手に「庚申堂」がある。
左手に「庚
 一石峠の案内板が立っているところからここまでに丁度30分が経過している。
 最初の三叉路を左へ進むと古里温泉街に入る。古里公民館の手前、「WC、42号線」という看板が立っているところから右折して進むが、この辺りは標識がなくて分かりにくかった。
WC、42号線
 古里踏切でJRの線路を横断して42号線に合流する。その先、古里トンネルの入口の左手横から42号線から分岐して坂を登っていく。ここから海際の崖の上の道を進む。資料によると「遊歩道の行き止まり手前で、左手に山道を下る」となっているので、先で行き止まりの標識があるか、道がなくなるか、のどちらかだろうと思ってそのままどんどん進んでいった。ところが段々道が荒れてきて、そのうち道がなくなってしまった。これはおかしいと思って引き返してみると、道の両側に白いポールが立っているところの少し手前の左手に階段があったので、これを下っていく。
遊歩道には行き止まりの標識はなく、道もその先へ続いているように見えるので要注意だ。
白いポール左手に階段

 山を下ったところに「若宮神社」がある。
若宮神社
 ここから赤い橋を渡り、堤防を進んでいく。その先から山道に入るが、ここに新宮まで86kmの標識と三浦峠への標識が立っているので、それに従って三浦峠を登る。ここは標高180mで伊勢路道標が1~18まで立っている。
三浦峠
 三浦峠の頂上はきれいな掘割になっている。
はきれいな掘割
 熊谷橋を渡って山を抜けると舗装道になる。右手に墓地があるところの突き当たりを右折して進むと、左手に三野瀬駅がある。その先の三瀬踏切でJRの線路を横断し、その先で42号線に合流する。始神峠への矢印がついている道路標識から42号線から分岐して左折、小さな橋があるが、その手前から右折して進む。ここにも標識が立っている。
始神峠
 標高147mという始神峠だが、板で作った橋があったり、転落防止のためだろう、ロープを張った登り坂があったりした。始神はもともと椒(はじかみ)といわれており、これは山椒魚を意味する言葉だという。大舟川上流に山椒魚が多く生息したことからこの呼び名がついたが、近年読みやすくするために「始神」と書くようになったという。
板で作った橋
 ここには「十二曲り」と呼ばれる上り坂があるが、比較的緩やかな坂だった。本当に十二ヶ所曲がるのかなと思ったが、数えるのも面倒だったので、何も考えずにひたすら登った。
十二曲り
 この峠の伊勢路道標は1~16になっている。やがて頂上に着く。ここからの眺望は熊野街道の中でも絶景として知られており、江戸時代から明治の中頃まで茶屋が営業をしていて、その跡も残っている。
頂上に着く
 この峠は歩道のみの江戸道と荷車も利用できる明治20年代に作られた明治道の両方が残っている珍しい峠だ。私がこれまで歩いてきた道は江戸道で、峠を少し下ると明治道に合流、少しの間江戸道と明治道は重なっているがその先で分岐する。その前に左手に「野面乱層積」がこの峠にもある。
野面乱層積
 「江戸道」と「明治道」の分岐点がある。江戸道はこのまま直角に峠を下っていき、760mで42号線に合流するが、明治道は宮谷池まで2kmとなっていて、なだらかな坂を下っていく。
江戸道」と「明治道
 道を素早く横断する動物がいた。リスだ。これでリスを見たのは二回目だ。とにかく動きが早いので写真を撮る暇がないのが残念だ。「大曲の又谷 手洗い場」があり、臼のような石が置かれていたが、あまりきれいではなくて手を洗おうとは思わなかった。

 左手に「宮谷池」があるが、これは1708年ごろに作られた人工の池ということだ。峠を下ると集落があって、トイレが作られており、その横に東屋が建てられている。始神峠の登り口からここまでで1時間16分が経過している。資料によるとこの家の方は古道を歩く人間を大事にしてくれると書かれており、丁度昼になったので、ここで昼食を食べていると、女性が出てこられて、お茶やコーヒー、更にはお菓子まで頂くことができた。それらを頂きながら色々とお話を伺う。宮谷池のこともこの女性から教えて頂いたのだ。この東屋やトイレは個人で古道を歩く人のために建てられたそうで、釘を全く使わずに建てられたということだった。昔はこの家に旅人を宿泊もさせていたそうで、ここで暫くお話を伺って出発する。記念に写真を撮らせていただこうと思ったが、拒否されてしまった。
東屋
 大舟川を渡るが、この川は水が流れていないので、河原を横断して向こう岸に渡る。堤防に上がってすぐ先を右折するが、ここに新宮まで78kmの標識が立っている。ほぼ半分来たことになる。これまでは峠はあっても低い高度だったので、きついことはなかった。伊勢路は平坦なのだろうとこの辺りでもまだ思っていた。
 馬瀬の信号で42号線を横断、JRのガード下を通って進み、更にその先の上里踏切でJRの線路を横断、更にその先で42号線を横断、そしてその先で42号線に合流する。船津川に架かる雨郷橋を渡ってすぐ先で左折、右手に地蔵尊があり、その先で右折する。
右手に地蔵尊があり
 更にその先で左折して進む。この辺りの道は分かり難いが、標識が随所に立っているので、それを見落とさないようにして進む。その先の42号線に合流したところに「修禅寺」があり、ここに宝篋印塔がある。塔には銘がなく、また文献や口碑も残っていないが、南北朝時代にこの地に源義家の子孫で松場義澄が住んでいたことから、その墓碑ではないかと言われているということだ。
修禅寺
 その先で42号線が右へカーブした先で道は二股に分かれており、ここで42号線から分岐して右へ進むと、右手に「八重垣神社」がある。社殿の裏に樹齢330年という杉の巨木が立っている。
八重垣神社
 船津川に架かる往古橋を渡り、その先の十字路を左へ進むが、ここには標識は立っていなかった。その先で42号線に一旦合流、その先で再び42号線から分岐するが、ここには標識が立っていた。その先で42号線に合流するが、船津の信号で再び右へ分岐するなど、何度も42号線と合流、分岐を繰り返す。ほとんどの場所に標識が立っているので、それに従って進む。
 右手に「永泉寺」があり、ここの境内には五輪塔や石碑が並んで立っている。またここには杉板に五十九句が墨書された句額があり、選者は近江国の俳諧師可涼園桃乙といわれ、書も桃乙の自筆と思われているということだ。
永泉寺
 その先で再び42号線に合流、暫く先で道は二股に分かれているので、標識に従って左へ分岐する。右手に相賀神社があり、その先に「真興寺」がある。ここの境内には「はまぐり石」があるが、これは「順れい手引観音」「天保11年(1840)」と刻まれており、巡礼者を祀るとともに熊野詣や西国三十三箇所巡礼の道しるべになっていたという。確かにはまぐりに似た格好をしている。
はまぐり石
 川に突き当たって右折、銚子川沿いを進む。便ノ山橋を渡り、便の山踏切でJRの線路を横断、突き当たりを左折、二つ目の角を右折するが、ここには標識がなかった。
 「鷲下みち」の案内板が立っており、それによると現在はコンクリート道になっているが、その下には当時の石畳が眠っているという。この先で馬越峠へ向かう。
 42号線を横断して進むと馬越峠の石畳道になるが、最初の段階では非常にしっかりとした石畳で、これは最近作られたもののようだ。
馬越峠の石畳道になるが
 ここにも伊勢路道標が立っており、1~22となっている。2.2kmの長さの峠だ。その先も石畳は続いているが、入口ほどしっかりとしたものではなくなっているので、これは古くからのものなのだろう。
古い石畳
 「夜泣き地蔵」がある。石積みの祠で、明治までは旅人の無事を祈る石地蔵があったとされているが、今は自然石のお地蔵様が祀られている。いつのころからか地区の人々が子供の夜泣き封じを祈って夜泣き地蔵と呼ぶようになったという。
夜泣き地蔵
「馬越一里塚跡」がある。昔は西側に松、東側に桜が植えられていたという。
馬越一里塚跡
 その先で林道を横断、その先で一旦道は平坦になるが、再び上り坂になり、更にその先で平坦になって進む。
 きれいな掘割が残っており、その先には石垣が残っている。
きれいに掘割
 馬越峠の頂上に着く。標高325mで海山町と尾鷲市の境界になっている。ここにはかって享保8年(1723)の銘がある「岩船地蔵」があり、その向かいに馬越茶屋があったという。嘉永7年(1854)に建立された「夜は花の上に音あり、山の水」という桃乙の句碑が立っている。
馬越峠の頂上
 峠を下り始めるが、石畳というより岩がゴロゴロしている感じの坂を下っていく。全国有数の多雨地帯である尾鷲地方の熊野古道は石畳が多く採用されており、これは大雨による路面の流失や崩壊を防ぎ、夏草やシダ類の繁茂を抑えて道筋を確保するためだったのだ。
「桜地蔵」がある。レンガ造りの御堂の地蔵尊は御堂を改築された畦地安兵衛氏にちなんで「安兵衛地蔵」あるいは桜地蔵、水呑み地蔵とも呼ばれているということだ。時刻は16時半を回っており、山の中は薄暗くなっている。
桜地蔵
 右手に「行者堂」があり、馬越峠の登り口からここまでで1時間23分が経過している。その横から街道をはずれて右奥へ至る道を進んでいくと「不動滝」がある。寛政6年(1794)の旱魃で飲み水にも事欠くようになったため、この地で雨乞いを行ったという。
行者堂不動滝

 ここから山道を抜けて舗装道になるが、ここに新宮まで66kmの標識が立っている。墓地の中に「馬越の津波供養塔」が立っている。宝永4年(1707)に発生した宝永大地震津波は尾鷲浦にも大きな被害をもたらした。この「経塚・三界万霊」塔はその大津波で流死した犠牲者の七回忌、正徳3年(1713)に供養、建立されたものだという。ちょうど東日本大震災があったばかりなので、改めて地震、津波の怖さを実感する。
経塚・三界万霊
 文政13年(1830)に建立された「南無阿弥陀仏」と刻まれた「徳本上人の名号碑」が立っている。
徳本上人の名号碑
 17時18分に北川橋に到着する。ここから今日の宿に電話を入れると迎えに来てくれた。

 本日の歩行時間   10時間18分。
 本日の歩数&距離  42084歩、31.3km。