北陸道(福井~高田)を歩く

2011年10月07日(金) ~2011年10月17日(月)
総歩数:518812歩 総距離:342.7km

2011年10月10日(月)

金沢~津幡~竹橋~倶利伽羅峠~石動

                                           曇り

 7時に出発する。夜はにぎやかなこのあたりも、朝は閑散としている。
 右手に「尾山神社」があるが、ここは初代加賀藩主前田利家と正室おまつの方を祭神として祀っている。慶長4年(1599)に前田利家を合祀して創建された卯辰八幡宮を、明治6年に卯辰山から旧藩主の別邸であった金谷御殿跡地に移し、社号を尾山神社と改めた。神門は明治8年の竣工で、和漢洋の三様式が取り入れられており、国指定重要文化財になっている。
尾山神社
 橋場の信号の右側に「石川縣里程元標」がある。街道はここから左折すると枯木橋が残っている。これは東内惣構堀に架かっているが、惣構というのは城の最も外にめぐらせた土や石の囲いのことで、その堀を惣構堀という。慶長4年(1599)第二代藩主前田利長はわずか27日間で、金沢城を取り囲む東内惣構堀と西内惣構堀という二つの堀を築いたが、現在では惣構堀の面影を残すところはほとんどなくなってしまっている。
枯木橋
 359号線を進んでいくが、森山一丁目の信号で街道から外れて右に入ると、「妙泰寺」がある。ここは慶長15年(1610)に建立され、元和元年(1615)豊臣秀吉の養女になった前田利家の娘、豪姫と宇喜多秀家の間に生まれた子女理松院を祀っている。ここの山門は切妻造りの高麗門で19世紀初頭の建立という。
妙泰寺
 その横に「全性寺」がある。ここは大永2年(1522)の創建で、天明6年(1786)に現在地に移転したという。ここの山門は入母屋造りの楼門で18世紀後半の建立という。外壁および軒裏等にはベンガラが塗られており、通常「赤門」と称されている。
全性寺
 「妙正寺」がある。ここの創建は永仁2年(1294)で、その後兵火によって焼失したが、元和元年(1615)に再建された。加賀藩十三代藩主前田斉泰の生母小野木八百子姫の祈願所だったという。
妙正寺
 「妙国寺」があるが、ここの山門は屋根が切妻造りの薬医門で、安永9年(1780)に建立されたものである。この山門は卯辰山山麓寺院群の中では、建立年代の明確なもっとも古い門という。
妙国寺
 この辺りは寺院が数多くあるが、元和2年(1616)の街作りの際に、この地に集められたという。
 街道に戻って進むと、山の上の信号のところに慶応元年(1865)の大きな「常夜燈」が立っている。
常夜燈
 その先で359号線から左斜めへ分岐するのだが、ここにまだ新しい北国街道の碑が立っている。
 右手に「大樋松門」がある。ここが城下への入り口になっていたところで、現在は何代目かの松が植えられているが、まだ小さい。このあたりも街道の雰囲気が残っている。
大樋松門
 金腐川に架かる大樋橋を渡って進み、大樋口の信号で359号線に合流するが、ここに「北国街道」の石碑と松が立っている。
 そのすぐ先、小坂町中の信号から再び旧道へ進むと,右手に地蔵堂があり、六体の地蔵尊が安置されている。
 百坂南の信号で再び359号線に合流するが、右手に「百坂の親子地蔵」がある。
百坂の親子地蔵」
 さらにその先、右手に「百坂菅原神社」がある。ここの樹林は自然に近い形で残されており、入り口右側にある欅は幹周5.2m以上の巨木で、百坂の大欅と呼ばれている。
百坂菅原神社
 森本北の信号から跨線橋でJRの線路を横断するが、橋を下っている途中、右手に「森本村道路元標」が立っている。
 左手に駐車場があるところから少し入ったところに、「亀田家」があり、ここに「明治天皇森本御小休所」碑が立っている。ここはわかりにくくて、最初は気が付かずに、その先にある住吉神社まで行ってしまったが、そこで祭りの準備をされている地元の方にお聞きしてわかり、引き返した。
亀田家
 その「住吉神社」は川の手前左側にあるが、境内に「磐持石」があり、大亀 34貫500匁、子亀 28貫500匁と刻まれている。昔の若者はこの石を持ち上げて、力比べをしていたという。
磐持石」
 森下川に架かる森本大橋を渡ると、左手に川崎神社がある。ここも祭りの準備が行われていた。
 このあたりから街道松が残っており、「松並木の旧金沢下口往還」の説明板が立っている。ここは県指定遺跡になっている。
 右手に「浪自加弥神社遥拝殿」がある。この神社は日本で唯一の香辛料の神様で、はじかみとは生姜や山椒、山葵などのように噛んで辛いものを指すという。
浪自加弥神社遥拝殿
 田んぼの中の道を進んでいくが、すでにほとんどで刈入れが終わっている。今年は気温が高いものの、季節は間違いなく秋だ。
 右手に「洲崎家」がある。洲崎家は宝暦年代より十村に準ずる山廻り役、蔭聞役を任ぜられていた。この場所へは明治10年に移住したという。
洲崎家
 今日は曇っていて日差しがないので、歩くうえで楽だ。
 右手に「三輪神社」があるが、このあたりの神社の鳥居のしめ縄はかなり太いものが巻かれている。ご近所の方にお聞きすると、昔はみんなで作っていたが、今ではそれはできないので、市販のものを使っているということだった。
しめ縄
 右手に「本福寺」がある。ここの梵鐘は宝永6年(1709)に今石動称名寺の鐘として鋳造されたが、享保14年(1729)に本福寺の住職がこれを購入したという。
本福寺
 右手に「弘願寺」があり、ここに「明治天皇行幸記念碑」が立っている。津幡宿の脇本陣的な役割を担っていたという。
 御旅館橋を渡った左手に「脇本陣 角屋跡」の石碑が立っている。このあたりが津幡宿があったところだ。
 津幡踏切でJRの線路を横断して進む。
 左手に数多くの地蔵尊を安置した地蔵堂があるが、ここが一里塚の跡という。
数多くの地蔵尊
 その先で道は二股に分かれているので、右へ進み、杉瀬境橋を渡る。
 左手、山を少し上ったところに「猪塚」がある。これは安永5年(1776)に大雪に乗じて、数千頭の猪を捕まえ、その尾を集めて供養したという円筒状の石碑だ。
 猪塚
 津幡運動公園の中を進んでいく。その先で山を下り、ガード下を通ってJRの線路を横断していくと、「竹橋宿」の石碑が立っている。
 右手に明治20年の「くりから村 道路元標」が立っている。
 左手に「教願寺」があるが、ここには室町時代の仏像が安置されており、天文年間(1532~1555)の創建といわれている。梵鐘は初代宮崎彦九郎(~1657)の作といわれており、県下で二十余口残っている作品の一つという。
教願寺
 竹の橋橋を渡って進むと、右手に「くりから三十三観音」が立っている。これは竹橋~埴生までの約3里の沿道に置かれていた三十三観音の一つだ。
くりから三十三観音
 ここから先、いよいよ倶利伽羅峠へ進む。その先で道は二股に分かれており、「歴史国道」の標識に従って左へ進む。このあたりには「熊出没 注意」の看板が立っている。
 左手に地蔵尊2体と阿弥陀仏2体を安置する祠が立っており、一体の阿弥陀仏には安政4年(1857)と刻まれている。
安政4年(1857)と
 山の中の道を進んでいくと、やがて「龍ケ峰城跡」の下にくる。ここは一向一揆に加担する土豪村上右衛門が城を築いたといわれ、天正年間には上杉謙信が攻撃して、その本陣となり、さらにその後佐々成政が使用したという。天正12年(1585)には前田秀継父子と佐々與左衛門との間で、数度の戦いが行われたという。
 やがて集落があるところまでくると、左手に「子安地蔵堂」があり、六体の地蔵尊が安置されている。
子安地蔵堂
 峠を上ったところに「手向神社」がある。ここは天平19年(747)の万葉集、元慶2年(878)の三代実録に「手向の神」と記されている旧い神社で、不動信仰と習合して長楽寺となっていたが、明治初期に手向神社となった。ここの石堂神殿は慶長19年(1614)に加賀藩三代藩主前田利常が、兄利長の病気平癒を祈願して寄進した長楽寺不動堂で、後に護摩堂になっていたものという。「倶利伽羅不動尊」の説明がある。ここは養老2年(718)にインドの高僧が国家安穏の祈願をされ、仏像を彫ったのが倶利伽羅不動尊というご本尊で、弘仁3年(812)に弘法大師がそれとほぼ同体の不動尊像を彫られ、これは現在の本尊になっているという。ここは成田不動尊(千葉県)、大山不動尊(神奈川県)とともに日本三不動と呼ばれている。
 「木造秀雅像」があるが、これは寛永19年(1642)に造られたもので、秀雅は前田利長の信任を得て長楽寺を再興した人である。その前に「子安地蔵堂」があり、六地蔵が安置されている。
 
手向神社1手向神社2

 栃波山古戦場の説明板が立っている。それによると木曽義仲の軍と平維盛の軍が国境である倶利伽羅山で対戦、源氏側は角に松明を燃やした牛、四,五百頭を放って平家側を打ち破ったという。
ここに「平為盛の五輪塔」が立っているが、資料によると、これはもと小矢部市の旧石動小学校(御旅屋跡)にあったもので、それをこの地へ移したという。
平為盛の五輪塔
 「猿ケ馬場」がある。ここは源平合戦で平家の本陣が陣取ったところで、この一帯が倶利伽羅古戦場と伝えられている。
その少し先、左手に「倶利伽羅ふるさと歩道入り口」という看板が立っているが、舗装された道は直進していたので、あまり深く考えずにそのまま舗装された道を直進してしまった。
倶利伽羅ふるさと歩道入り
 途中「火牛」に驚いた平家の兵が落ちたという「地獄谷」の標識が立っていたりしたので、この道で間違いないだろうと思いながら進んでいったが、どうもおかしいと気が付いて、もう一度先ほどのふるさと歩道の入り口まで戻って、今度はこちらを進んでみると、これが旧道だった。これまではこういった標識には、どこかに必ず北国街道、あるいは北陸道といった言葉が入っていたのだが、ふるさと歩道の標識には、何もそう言った言葉が記載されていなかったので、間違ってしまったのだ。
 この道を進んでいくと、少し高いところに「六字名号碑」が立っている。昔旅人の荷物運搬の際、亡くなった人足頭の渋谷氏の供養のために建てられたと説明されている。
六字名号碑
 その先で舗装道に出るが、ここにも複数本の標識が立っていて、その中に「←大池、埴生へ」という矢印が書かれている道が左折して伸びている。手持ちの地図をみると、これから進む方向に埴生の文字がみえるので、左折して進んでいった。そうすると途中にさきほどと同じ「ふるさと歩道」の標柱が立っていたので、安心をして進んでいくと、池に突き当たった。手持ちの地図には池などないので、ここで初めて間違っていることに気が付いた。どうもこのあたり、集中力が欠如していたようだ。仕方がないのでもとに戻って、下ってきた道を直進すると、すぐ先から道は二股に分かれており、左へ入る旧道があったので、これを進む。 この辺りには色々な標識が立っていてわかりにくかった。もっとも、あとで資料をゆっくり飲み直してみると、歩き直した道が主たる街道だったが、最初に私が歩いた大池を経由する道も街道だったようだ。
 今日は距離からいって余裕があると思っていたのだが、道を二回も間違ったりして、すっかり遅くなってしまった。時計をみると16時を指している。これから山の中を抜けなければいけないので、暗くなる前に山を抜けたいと足を速める。
 「矢立観音」がある。この観音は三十三観音の一つで、以前は埴生に移されていたが、その後、元の場所に戻されたという。三十三観音のうち元の場所が確かな唯一のものと言われている。光背に高岡大長と刻まれていることから、弘化、嘉永の年代に造られたものと思われているということだ。
 途中、茶屋跡の碑が立っていたり、東宮殿下行事記念碑があったりしたが、写真も撮らず、ひたすら急いで、16時42分に無事山を抜けることができた。ヤレヤレだ。
 左手に「名号碑」とその横に「石坂諏訪社跡」と書かれた標柱が立っており、その横に小祠が立っている。
 左手に「医王院」がある。ここには銅造阿弥陀如来坐像と木造僧形八幡神坐像が安置されている。どちらも平安時代中期から末期の作といわれており、富山県の有形文化財に指定されている。倶利伽羅峠を越えると富山県に入るのだ。
医王院
 野端の信号のすぐ先、左手に地蔵堂(将軍塚)があり、ここから右斜めへ分岐して進む。
 その先で地下道でJRの線路を横断して進み、石動の駅近くで17時30分に今日の歩きを終える。
 今夜の宿は「クロスランドおやべ」という、駅からかなり離れたところにあるホテルだ。このあたりではここしか泊るところがないので、駅からタクシーで行く。ところがタクシーに乗って何気なく「クロスランドまで」と行先を言ったのだが、着いてみるとなにか感じが違う。職員の方に聞くと、ホテルは少し離れたところにあるという。それからすっかり暗くなった道をトボトボと歩いていくと、何やら大きな建物があったので入ってみると、なんと老人養護施設だった。ホテルはその向こう側にあるといわれて、疲れた足を引きずりながら、ようやくホテルに入ることができた。それにしても今日はよく道を間違えた一日だった。

 本日の歩行時間   10時間30分。
 本日の歩数&距離  58870歩、36.5km。