北陸道(福井~高田)を歩く

2011年10月07日(金) ~2011年10月17日(月)
総歩数:518812歩 総距離:342.7km

2011年10月12日(水)

小杉~下村~東岩瀬~水橋~滑川~早月加積   

                                          晴れ

 7時15分に出発する。射水市社会福祉会館が小杉宿の本陣の跡ということだが、遺構は何も残っていない。
 左手に「久證寺」がある。元和3年(1617)に創建されたもので、立派な鐘楼門がある。ここには安永4年(1775)の大凶作の時、戸破村の年貢を納めるため、この寺にあった親鸞聖人の絵像をかたに高岡の金貸しから借金をして一村を救った時の証文が残されているということだ。
久證寺
 北陸銀行旧小杉支店の建物がある。これは土蔵造りで、明治時代の記念碑的建造物である。
北陸銀行旧小杉支店
 常夜灯が参道に並んでいる「十社大神」がある。ここの創建は不詳だが、鎌倉末期の木造狛犬一対が社宝として伝えられており、天和2年(1682)に砺波射水郡奉行所の足軽高桑八十郎等が寄進した「阿弥陀如来立像」「聖観音菩薩立像」「千手観音菩薩立像」の木造仏等がある。
十社大神
 すぐ横に「蓮王寺」がある。ここの創建は平安時代末期か鎌倉時代初期と考えられており、一時衰退していたが、江戸時代の初期に再興されたという。本尊の丈六阿弥陀如来坐像は台座を合わせると高さが5mにもなる、県下随一の木造仏で、老人ボケをなくし、弥陀のお迎えを得て、浄土へお導きくださる御利益があるという。しっかりと拝んでおく。また境内には15世紀前半のものと思われる五輪塔が二基ある。
蓮王寺
 鷹寺橋を渡って進むと、右手に天保4年(1833)の法華塔と庚申塚が並んで立っている。
 その先、右手に文化2年(1805)、文政13年(1830)の題目石や文政7年(1824)の廃筆塚等が立っている。
 左手に「手崎加茂社」がある。境内には嘉永6年(1853)の石灯篭が立っている。
 この加茂社の前に「右 とやま」「左 いわせ」と刻まれた道標が立っている。この場所は下村方面へ向かう藩主参勤交代の往還と願海寺を経て富山へ向かう願海寺街道の分岐点なのだ。この道標は願海寺街道ができた承応(1652~1654)の頃のものと考えられている。
左 いわせ
 左手に「不捨院」があり、境内に明治期の三層塔・五輪塔が立っている。
 左手に「子安地蔵尊」を祀る地蔵堂があり、その横に鷲塚の説明文がある。それによると、この地は古来より樹木が茂り、鷲がよく飛来して小鳥や子供までさらっていくので、村人は困っていた。あるとき、村の衆が大木の傍らに立つ地蔵様をよく見ると、鷲にさらわれた子供を地蔵が養っていた。この地蔵は弘法大師が造った子安地蔵だったので、村人はその霊感を感じ、鷲を殺してこの地に埋め、塚を作ったという。このことから人々はこの地を鷲塚と呼ぶようになったという。
子安地蔵尊
 左手に鷲塚の「加茂社」を見ながら進み、新堀川に架かる白石橋を渡る。
 左手に「高徳寺」がある。寛正元年(1460)に創建されたといわれており、境内に観音堂があるが、これは延宝5年(1677)に当時の住職が川底から掘りあげたものといわれている。
高徳寺
 その先に「加茂社」がある。この辺りは加茂社と名前が付く神社が多い。ここには文政6年(1823)の石灯篭が立っており、社宝は室町時代の箱獅子形獅子頭大小2個という。
 新鍛冶川に架かる下村大橋を渡って進むと、右手に「海翁寺」がある。ここは文明5年(1473)の創建という。
 「道番の道標」がある。街道の道路工事が終わった寛文5年(1665)から道路管理のための道番を置いたが、この道標のある場所がかっての道番人の屋敷があった場所で、富山藩、加賀藩の領境だったという。
道番の道標
 右手に永享3年(1431)に創建され、享保8年(1723)に建てられた本堂がある「正覚寺」があるが、このあたりに下村宿の本陣があったという。下村本陣は宝暦11年(1761)に初めて設けられ、坂井家が代々務めたという。
 田んぼの中の直線に伸びた道を進み、加茂橋を渡る。
 諏訪社があり、その前に「左 はまみち」「右 江戸道」と刻まれた文化12年(1815)の道標が立っている。
 206号線を進み、八町簡易郵便局のところから左折、和合保育園の先、右側に地蔵尊2体を安置した地蔵堂がある。
 布目の信号で207号線に合流、その先で右折して進むと、右手に八幡小学校があるが、その手前、右側に石仏を安置する祠がある。
 左手に「護国八幡宮」がある。ここには嘉永元年(1848)の石灯篭がたっている。 
護国八幡宮
 丸い円筒状になった祠の中に、石仏が安置されている。このような祠はほかの地域ではあまり見かけないものだ。雪国固有のものなのだろうか。
円筒状になった
 神通川に突き当たり、堤防に添って左折、萩浦橋を渡り、千原崎の信号で左折する。神通川は鉱山からだされた廃液中のカドミウムが原因となって引き起こされたイタイイタイ病で有名だが、今では静かな流れになっている。
 岩瀬西宮の信号で道は二股に分かれており、間違って右側の道を直進してしまったが、途中で間違いに気が付いて引き返す。ここは左へ進まなければいけなかったのだ。
 東岩瀬宿を通るが、この辺りは昔の街道の雰囲気が色濃く残っている。
 左手に「北前船回船問屋 森家」がある。ここは明治11年に再建されたものだが、文政のころより北前船で栄えた東岩瀬の回船問屋の様式をよく残しているという。特徴は当地から積み出す船荷のため、玄関から裏の船着き場まで通り庭(土間廊下)が通じていて、表から母屋、台所、土蔵という順番で並んでいることという。観光客らしき人がかなり来られていた。
北前船回船問屋 森家
 その先右手に盛立寺があり、文政4年(1821)の石灯篭が立っている。ここで昼食にする。今日も持参したおにぎりだ。
 左手に「諏訪神社・恵比寿社」がある。ここはカネヤの宮といわれて、創建ははっきりしないが、文政12年(1829)に現在地に移転し、漁業関係者の尊崇が厚いという。
 大漁橋で入り江を渡って進むと。、「古志の松原」記念碑が立っている。それによると、この辺りはかっては白砂清松の地で、越中舞子と呼ばれていたという。
 横に「天神松天満宮」がある。安永年間(1772~1780)ラン昌寺の境内にあった天満宮が大火で燃え、御神体の天神画像が火にあおられて燃え上がり、この松の木にとまった。土地の人々はこの松に、しめ縄をはり、鳥居を立てて天神松をあがめたという。その後、天神画像の行方は分からなくなったが、慶応元年(1865)松のあったところに天満宮を建立し、菅原大神を祀ったという。
 左手に「義経鎧掛けの松」の説明板が立っているが、その松は現在ではなくなっているという。
 ただこの辺りには現在でも松が道の両側に数多く立っている。

 「飛び団子と熊野地蔵」がある。それによると16世紀後半の戦国時代に、このあたりに魔物が出るということで、それを退治しようとして轡田豊後守が単身松原奥深く分け入っていき、魔物を見つけて格闘を始めたが、とうとう魔物に組み敷かれてしまった。その時思わず、「熊野権現、助けたまえ」と心に祈ったところ、口の中に団子が飛び込んできた。夢中でそれを食べると急に力が湧き出して、魔物を仕留めることができたという。これが飛び団子伝説で、その伝説にゆかりの熊野地蔵が祀られている。
飛び団子と熊野地蔵
 左手に「精霊塚」がある。これは戦国時代末期の永正~天正年間(1504~1591)大村城に轡田氏がいたが、天正6年(1578)上杉方に攻められて落城した。この塚はその時の戦死者を葬ったと伝えられており、付近からは刀や城の抜け穴とみられるものが見つかっているという。
精霊塚
 村川に架かる日方江橋を渡って進み、その先から1号線から分岐して左へ入ると旧道が残っている。
 その先で再び1号線に合流して進む。
 左手に「泉福寺」がり、数多くの赤い前掛けをした地蔵尊が並んでいる。
 「親鸞上人腰掛の松」がある。この辺りは浜黒崎の松並木として県指定天然記念物になっているが、この木も指定樹木となっており、樹齢500~600年というひときわ大きな木だ。親鸞がこの松の下でしばし休息を取ったという。 
親鸞上人腰掛の松
 常願寺川に架かる今川橋を渡ると、右手に「高麗神社」がある。ここの創建は不詳だが、元禄以前の創建といわれており、当地の産土神だ。このあたりで奈良・平安時代の遺構が発見されており、延喜式の「水橋駅」跡とも比定されているという。
 白岩川に架かる東西橋を渡ると、右手に「水神社」がある。ここは明治2年に最初の架橋が行われたのだが、その際、付近の神社の境内の木を切ったことを神に詫び、感謝を捧げて、この神社を造ったという。この横に六角堂があり、伝蔵地蔵尊を祀っている。これは幕末の凶作時に給人蔵の米を解放した米商人高田屋伝蔵の冥福を祈るために、建立されたという。
水神社
 現在は酒店になっているあたりが水橋の本陣があったところだという。

 右手に「水橋神社」がある。ここは創建は不詳だが、延喜式に水橋の宿駅があったという記録があり、古い歴史がある。源義経が奥州へ逃避行をしていて、この水橋の渡しに差し掛かったとき、海女が現れて、義経主従を導いて、無事渡し終えたという。この海女は海神の化身だったという。
水橋神社」
 明治9年に建立された「金比羅神社」があり、ここに明治17年に建立された「庚申璽」と「竹甫先生記念碑」が立っている。竹甫先生は私塾を開いて、門弟を養成したそうで明治16年に門弟が建立したという。
 左手に「筆塚」「按○塚」「豊沢団吉碑」と三つの碑が並んで立っている。これらはいずれも明治時代の寺子屋の門弟による建立という。
 その先左手に「一里塚跡」がある。周囲をコンクリートで囲まれている。
 上市川に架かる魚躬橋を渡ると、左手に「加茂神社」があり、その前に「古戦跡」の碑が立っている。
 その先、右手に「加積雪嶋神社」がある。ここには数多くの石仏や道標がある。この辺りにあったものをここに集めたのだろう。
 左手に自然石に「大岩道」「是より四里」と刻まれた文化8年(1811)の道標が立っている。「史跡 立山 大岩道しるべ」と書かれた説明板が立っている。
大岩道
 「養照寺」がある。ここの御殿は県内で唯一の本陣の姿が残っている。滑川の本陣は当初、弥永寺が務めていたが、寛永2年(1625)に綿屋九郎兵衛(桐沢家)が命じられた。しかし、天明8年(1788)の滑川の大火で類焼したため、養照寺が仮に本陣を務め、綿屋が新築されてからは脇本陣になった。しかし綿屋はその後再び火災で焼けたため、天保13年(1842)から幕末まで、養照寺が本陣を務めたという。
養照寺
 右手に「明治天皇滑川町御小休所跡」碑が立っている。
 左手に「檪原神社」がある。ここは延喜式に記載されている神社でクロマツ林が見事だ。境内に「道祖神」と刻まれた石が安置されている。
檪原神社
 すぐ横に「金比羅神社」があり、文化12年(1815)の常夜燈が立っている。
 右手に「一里塚跡」碑がある。南側の塚が残っている。越中には23基の一里塚が築かれたが、残っているのは朝日町境・横水とこの滑川市坪川のみということだ。
 街道松が一本だけ残っている。この松は樹齢200年と思われるそうで、滑川市では唯一の街道松という。

 この先から、街道を外れて駅へ向かい、17時52分に早月加積駅に着く。ここから電鉄魚津の駅の近くの旅館に入る。

 本日の歩行時間   10時間37分。
 本日の歩数&距離  52327歩、36.2km。