奥州街道を歩く(宇都宮~仙台)

2007年10月11日(木) ~2007年10月21日(日)
総歩数:421759歩 総距離:265.2km

2007年10月12日(金)

喜連川~佐久山~太田原~鍋掛

                                    薄曇

 7時10分に出発したが、出発の際ご主人の写真を撮らせて頂く。お世話になりました。お蔭様で楽しいひと時を過ごすことができました。
喜連川
 昨夜電話で話をした方がこの宿に泊まられたとき、喜連川の一里塚跡を見つけたといわれていたそうなので場所を聞いて行ってみた。ところがいくら探しても見つからない。私の資料には遺構なしと書かれているので、もしかしたら新しい発見かと思って頑張って宿の人に電話を入れて再度場所を確認をしたり、近所の方に聞いたりしたが結局わからなかった。
 喜連川の町内は朝の出勤時だからなのか車が多い。今日も114号線を歩く。
 旧道は街のはずれ台町の信号から道を右折し、すぐに左折して進み内川に架かる金竜橋のところで再び114号線に合流する。
 つるが坂と命名された、坂とはいえないような坂を進むと「明治天皇御小休御膳水跡」の碑が立っており、傍らに男女の道祖神が立っている。
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 江川に架かる宮下橋を渡る。川の水がきれいだ。周囲はのどかな景色が広がっている。
 さくら市地域包括支援センターがありその手前に「明治天皇引田原御小休所跡」碑が立っている。
 明治初頭のこの地は一体どんな状態だったのだろうか?今でもこんなにのどかな場所なのだから当時はもっとのどか、というよりさびしい場所だったのではないか。行幸の一行が何人おられたのかわからないが、かなり難儀な旅だったのではないかと想像する。
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 佐久山宿の手前まで特に記すこともなく黙々と歩く。すれ違う人もほとんどというか、全くいない。車が時折通り過ぎるだけである。
 佐久山宿本陣近くの道から少し入ったところに不動明王の祠がある。説明文によると丈65.5cm、台座より火焔光背までの高さ120cm身幅32.5cmある木像の立像で江戸時代の作といわれているそうだが、中を見ても覆いがされており見ることはできなかった。すぐ裏には樹齢800年、樹高21.5m、目通7.5mもある巨大な欅が立っており県指定の天然記念物になっていた。
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 佐久山宿本陣は遺構なし。資料では佐久山郵便局隣となっていたのでその場所でカウントする。
 10時26分佐久山宿を通る。喜連川から3時間16分、18166歩(約11.7km)。

 少し進んで道を直角に右折し、正浄寺の前を通って箒川に架かる岩井橋を渡って進む。
 ここものどかな田園地帯。左手後方に男体山、左横に八方ヶ原が見える。親園小学校を左に見て進むと左手に「浦ロ(ホロ)碑」がある。浦ロとは蜃気楼のことだそうで、旅の僧が那須野原で蜃気楼を見た体験を重ねて山口鉄五郎代官を讃える一文を記し、それを石に刻んだものだという。
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 右手には町初碑がある。これは高さ55cm、周囲93cmの自然石で表面に「此町初寛永四年卯T年」裏面に「国井与左衛門」と刻されている。これは寛永年間(1624~1644)に奥州街道に八木沢部落が開かれたとき、それを記念して建立されたものだろうといわれている。やがて大田原宿に入る。街道に沿って表示板が立っており、本陣、問屋、高札場跡と書かれていた。大田原本陣跡をを12時38分に通る。
佐久山宿から2時間12分、10624歩(約6.9km)。

 ここで昼になったので本陣のすぐ前にある食堂に入って昼食を摂ったが、ここで食べてよかった。というのもここを過ぎると食事をする店がほとんどないのである。わずかに気がついたのは大田原神社の下にちょっとした飲食店が一軒あるだけだった。
その「大田原神社」は大同2年(807年)に創建され、明治37年に現在の場所に移ってきたそうで、境内には樹齢300年の杉の木が立っており、参道に並んでいる石灯篭の中には近江商人が寄進したものも含まれていた。本殿に到る参道は木々で囲まれ風格のある神社だった。
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 ここを下りて蛇尾川に架かる蛇尾橋を渡る。ここも流れはきれいだ。
 「中田原一里塚」がある。奥州街道の一里塚はあまり残っていないが、ここでは片方の塚のみ残っていた。ただ塚木は残っていなかった。日本橋から38番目の一里塚ということだ。
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棚倉街道との分かれ道、追分を示す元禄7年(1694年)建立の道標がある。正面には「南無阿弥陀仏」脇には「右たなくら 左しらかわ」と刻まれている。寛永6年(1629年)に起こった「紫衣事件」(朝廷が紫衣を高僧らに下賜していたが、それを幕府が制限したことから起きた騒動)で上山と棚倉に流罪になった沢庵と玉室が、この追分で別れたという。
 左手に樹齢400年という「高野槙」がある。表示板が2枚あり、昭和36年の物には樹高30mと書かれているが、平成3年のほうには樹高17mとなっている。昭和36年以降に折れたのかな?それとも中国風に白髪三千丈の世界?いずれにしてもどちらが本当?
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 何もない道を黙々と、淡々と歩く。誰とも会わない。
 綿貫集落の先に「右奥州海道」「左原方那須湯道」と刻まれた道標が立っており、その先に「明治天皇御駐輦記念」碑が立っている。
 「樋沢神社」がある。ここは後三年の役((1083~1087)で陸奥平定に向かう八幡太郎義家が、ここに神社があるのをみて馬で一気に駆け上ってきた。そのときあまりに勢いが強かったので、境内にある巨石の上に馬の前脚が乗ってしまい、蹄の跡がくっきりと刻み込まれたという。またこの石の横にある巨石が葛籠(着物を入れる箱型の籠)に似ていることから、義家が葛籠石と名づけたといわれている二つの石があった。
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 街道から階段を登ったところ、鍋掛神社への参道のところに「鍋掛一里塚」がある。日本橋から41里目で、これは道路拡幅工事に伴ってこの場所に移設されたということだ。
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 鍋掛の信号のところまで来たのでタクシーを呼び、今日の宿であるホテルアライへ行く。この近辺で宿泊できるところはこのホテルだけしかなく、ここは街道からかなり離れているようだし、足の具合は少しは回復したものの、まだかなり痛みが残っているのでタクシーを使うことにしたのだ。ちなみにタクシー代は1540円だったので、かなりの距離があることがわかる。今日も足のマメが痛かったし、ここに来て中山道の石畳を歩いたときにくじいた左足の足首の調子がよくない。日ごろは感じないのだが、こうして長期間歩き続けていると、次第に影響が出てくるらしく足首のあたりが重く、だるくなってきたのだ。それでもなんとか今日の予定の工程を歩くことができた。明日は最低限の目標である白河に入ることになる。もう一息頑張ろう。

本日の歩数    47360歩(約30.3km)
本日の歩行時間 9時間14分