奥州街道を歩く(宇都宮~仙台)

2007年10月11日(木) ~2007年10月21日(日)
総歩数:421759歩 総距離:265.2km

2007年10月18日(木)

福島~瀬上~桑折~藤田~貝田~越河~斎川

                         雨のち曇り
 ホテルから昨日歩いた松川橋までタクシーで行き7時20分に到着。ここから歩き始める。橋を渡って左折し旧道に入る。ここは昭和45年まで電車が通っていたそうで福島市街地と長岡の間の大半は旧奥州街道の道筋上に線路が敷かれていたそうだ。
 今朝は霧がでており街は真っ白だ。この季節九州ではこんなことはない。東北に来ているのだと実感する。
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 瀬上宿の入口に立派な門構えの家があったので、ここが庄屋跡だろうと思ってカウントする。ところが地元の方に聞くと、ここは古くからの家ではなく庄屋ではない、ただ大地主でありこの地方の財閥ではあるといわれていた。この家以外に庄屋と呼ばれる家はわからなかったのでここで一応カウントする。
7時58分、瀬上宿を通る。
福島宿から1時間30分、10099歩(約6.6km)。

街道から少し入ったところに「瀬上足守藩陣屋跡」があった。ここは備中足守藩の陣屋跡で岡山から移封されたそうだ。跡は昭和49年に判明したもので斎藤さんという個人のお宅の庭の中にある。斎藤さんが賛同者を募って私費を投じて平成9年に碑を建設されたということだ。この横に樹齢300年~350年、樹高21.2m、目通り囲4.63mという「宮代の大カヤ」と呼ばれる大木がある。
 斎藤さんにおことわりをして見せていただいたが、わざわざ案内をしていただいた。庭になっていたりんごを2個ちぎって渡してくれ、玄関でご夫婦からしばらくお話を聞く。帰り際に写真を撮らせていただいたので掲載させていただきます。街道に戻って歩きながら頂いたりんごにかぶりついたが、新鮮でおいしかった。ありがとうございました。
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 しばらく行くと「義民斉藤彦内の碑」が立っている。寛永2年(1749年)の大飢饉で信達領内の農民達は桑折代官所に年貢の減免を願い出たがかなわず、16800余人の農民が一揆を起こした。その罪を引き受けて出頭し、死罪となった彦内を偲んだ碑である。昔はこのようなことが多かったのだろう。何事をするにしても命がけだ。
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 「桑折寺」がある。この山門は中世の山城で草創期の伊達氏が居城とした西山城の門を天文17年(1548年)、伊達氏が米沢に移る際、移設したと伝えられている。切妻の唐破風を前後に見せた室町時代の優れた建造物で福島県の有形文化財に指定されている。ohshu446-1
 桑折宿に入ると旧伊達郡役所と桑折代官所陣屋跡がある。享保8年(1723年)に桑折町と国見町にまたがる大規模な半田銀山が発見され、延享4年(1747年)幕府の直轄地となってここに代官所が置かれた。旧伊達郡役所のすぐ東側に代官所跡があったが今では碑が残るだけである。群役所にいた女性に本陣跡がどこか聞いてみたがわからなかった。
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 桑折本町のほうへ歩いていくと「桑折御蔵」という土蔵を改造したような造りの店があり、宿場案内をされているようだったので立ち寄ってみた。「まぁ上がって、お茶でも飲んでいきなさい」と言う言葉に甘えて上がってみた。東海道を歩いたときに立ち寄った袋井宿の「ど真ん中茶屋」の雰囲気にちょっと似ている。
6人の方がおられ、その中のお一人から説明を聞く。しばらく話をした後で「どこからきたのか」といわれるので「北九州からです」と答えると、「エッ、ひょっとして・・・・」と私の名前を言われる。今度はこちらが驚いた。どうして福島で私の名前を知っている方がいるのか?
「私は渋谷です」。
 なんと以前、奥州街道のことを調べる過程でとうほく街道交流会議の事務局長をされている島谷さんから最初にご紹介を頂いた方で、ふくしまけん街道交流会議の事務局長をされている渋谷さんだったのだ。渋谷さんとは電話やメールでお話をし、街道に関する色々な情報を教えていただいたのだが、今回歩くに際して福島県の方という認識しかなくて,どこにお住まいなのか知らなかったためご連絡をしなかった。それがこうして全くの偶然でお会いすることができたのだ。渋谷さんもこの場所に常駐しているわけではなく、今日はたまたま打ち合わせで来られたということなので、正に縁は異なもの味なもの、このような出会いがあるのかと感激した。
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 ここで約一時間程お話をし、本陣のあった場所もお聞きすることができ、また渋谷さんが尽力をされて作られたという奥州街道と羽州街道の追分まで案内をしていただいた。ここは以前家屋が建っていたのを、渋谷さんが頑張って県と交渉をされ、県の事業として立ち退いてもらったという。その跡地に記念碑が建てられていた。10年に及ぶ地道な努力が実を結ばれた結果なのだ。ここには「柳の句碑」が立っていた。この地方は俳諧が盛んで、芭蕉の奥の細道行脚以降歌人、俳人を受け入れ根付かせる土壌があったということだ。特に田村茂左衛門と佐藤佐五左衛門という二人がその風潮に大きく貢献されたとしている。句碑は約230年前に俳句の師匠だったト而翁を慕って建てられたものだという。また同じ場所に昔の道標があるが、これは神社前の側溝工事の際、1mほどの地中から出てきたそうだ。
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 昔は羽州街道沿いの大名は13藩もあり、奥州街道沿いの5藩をはるかに上回っていたが、奥州街道沿いには伊達藩や南部藩といった大藩があったので奥州街道のほうが有名になったのだそうだ。
 こうして渋谷さんから色々なことを教えていただいた。こんなことなら事前にご連絡をしてもっと時間をとるようにスケジュールをすればよかったと思った。
 桑折宿にある無能寺には明治天皇桑折御小休所碑があった。
10時28分、桑折宿本陣跡を通る。
瀬上宿から2時間30分、10140歩(約6.2km)。

 藤田宿に入るがここも本陣跡がわからない。道筋にあったお店に入って聞いたが、ご主人は自分は良くわからない。街道から少し入ったところに観月台文化センターがあるのでそこで聞いてみればと言われたので、電話をして聞いてみたが、ここも良くわからないということだった。そのため宿の中心地と思える場所でカウントする。
12時28分、藤田宿を通る。
桑折宿から2時間、7612歩(約4.5km)。
ここのご主人も親切でいい方だった。その後、私のHPに「けだおやじ」の名前で書き込みをしていただき、ラジオ福島の番組に私のことを投稿してくれたりしたそうだ。
 藤田宿を出てしばらく歩くと旧道がなくなっていると資料に書かれている。県北中学の前から斜め右に入る道を歩くが、昔の道は途中から4号線を越えて山手のほうへ行くようになっているようだ。ただ今はこの道はないようなのでそのまま進む。4号線を越えた旧道沿いには厚樫山の防塁跡があったり、義経の腰掛松があるようだが見なかった。この道は大木戸小学校を過ぎたところで再び旧道と合流する。ここを歩いているとパトカーが行ったり来たりしてこちらを盛んに見ている。不審者とでも思われているのかな?と思いながら小学校のところまで行くと、パトカーが停まっており、乗っていたおまわりさんが「歩いているのか」と聞いてくる。日本橋から仙台まで歩くつもりだというと「途中でぶっ倒れないようにしなさいよ」といわれてしまった。
このあたりはりんご畑が多く、きれいに色づいたりんごが沢山の実をつけている。左手には遠くに山が望まれていていい景色だ。
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 貝田宿を通る。ここは火災が続いて町のほとんどが焼失してしまい、昔の面影は残っていない。本陣跡もわからなかったが、貝田宿の案内版が立っていたのでここでカウントする。
14時01分、貝田宿を通る。
藤田宿から1時間33分、6891歩(約4.9km)。
 道から少し入ったところに「貝田口留番所跡」があった。貝田宿は仙台領と接していたため口留番所が置かれ、旅人の通行を厳しく取り締まったということだ。
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 貝田宿を過ぎると宮城県に入る。県境のすぐのところに「下紺の石」がある。これは古代、用明天皇の皇妃玉世姫がこの石の上でお産の紐を解いたという伝説が乳神様とともに伝わっているということだ。この石は越河番所跡のところにあったが、明治の鉄道工事の際埋まってしまい、後に発掘されて現在地へ移されたということだ。
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 JRの線路をはさんだ向こう側に「越河番所跡」の碑が立っているのがこちら側から見ることができる。
 やがて越河宿に入る。ここには「明治天皇御駐蹕碑」が立っている。
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 ここでカウントする。ここも静かな街で人通りが少ない。
 14時34分、越河宿本陣跡を通る。
貝田宿から33分、3054歩(約1.9km)。

 「馬牛沼」がある。坂上田村麻呂が蝦夷征伐でこの地に来たとき、将軍の馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、又沼の中の弧洲が馬に似ていることから馬形沼、更には馬首半身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたと説明されていた。
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 「田村神社」がある。9世紀始めに坂上田村麻呂がこの地方にはびこる悪路王や青頭、赤頭など鬼形の者達に村人が苦しめられていることを知り、田村麻呂は斎が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得てこれらを退治した。村人がその徳を慕って祀ったのが田村神社である。
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 斎川宿には「検断屋敷」がある。かなり荒れているが、所有者は管理が大変なようだと村人が言っていた。検断は、仙台藩においては町場に置かれ、伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務であり、本陣あるいは庄屋の役割を担っていたようだ。
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16時05分、斎川宿本陣跡を通る。
越河宿から1時間31分、8702歩(約5.8km)。
 
 ここまで来て白石市教育委員会の斎藤課長補佐に電話を入れる。この方には資料集めのとき色々とお世話になった方なので、白石市を通る際にはご連絡を差し上げるといっていたのだ。本当は白石市に着いて連絡をすればよかったのだが、まだ5km以上あり遅くなりそうだったので、ここで電話を入れたのだ。そうすると車で迎えに来ていただけるとのこと。わざわざ迎えに来ていただけるとは恐縮だがお言葉に甘えることにする。というのも斎川には宿泊できるところがないため今日の宿は白石市内に取っているし、ここから白石市までは適当な交通機関がないのだ。
 やがて迎えに来ていただいた車に同乗し、教育委員会まで行き、佐竹課長や学芸員の日下さんとお話をし、これから歩く街道のことについて色々と教えていただいた。
話が終わって斎藤課長補佐に宿まで車で送っていただくという親切までしていただいた。皆さんにとても良くしていただき心から感謝です。今日は色々な方との出会いがあり、楽しい一日だった。歩数は42000歩程で少なく、その分足の負担も少なくて楽だった。
 足はマメの部分の皮が厚く、堅くなってきている。マメができても歩き続けた成果かな?そのことによって結果として以前ほど痛みを感じなくなってきている。人間の身体の順応能力はすごいものがあると我が事ながらカンシンする。捻挫した足首の後遺症も宿で入念にマッサージをすることでなんとかなりそうだ。この調子だと仙台まで行くことができそうだ。

今日の歩数     42954歩(約27.2km)
今日の歩行時間  9時間4分