奥州街道を歩く(宇都宮~仙台)

2007年10月11日(木) ~2007年10月21日(日)
総歩数:421759歩 総距離:265.2km

2007年10月13日(土)

鍋掛~越堀~芦野~白坂~白河

                                    薄曇

 昨日タクシーに乗った鍋掛の信号まで今朝もタクシーで行き、7時25分歩き始める。
今日も曇り空。ヒンヤリとした朝だ。昨日、北海道では初雪が降ったとニュースで言っていたが、暑い期間が長かったので一気に寒くなりそうな感じだ。
 鍋掛の信号の横にコンビニがあるので、ここで昼食を購入する。ここから先何もないという一昨日のアドバイスに従ったのだが、結果からいうと芦野宿までは食堂やちょっとしたスーパーがあったし、自販機も数は多くなかったもののあった。芦野宿から白河までは余りなかったので、ここは要注意かもしれない。
 信号のところにラーメン屋があったが、まだ朝早いということもあってか閉まっていた。「正観寺」があり、ここに大きな枝垂桜が立っている。樹齢約250年、樹高15m、目通り周囲2.8m、枝張り東西17mで地上2mのところで幹は三本に分かれている大きな桜だ。
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 本陣跡を探したがわからない。散歩をしていた二組の人に聞いてみたがどちらもわからないということだったので、資料をみて県道72号線から少しの間分かれる道のところでカウントする。
 7時39分鍋掛宿を通る。
 大田原宿から4時間、19478歩(約12.2km)。

 那珂川に架かる昭明橋を渡り突き当りを左折する。このあたりが越堀宿の跡なのだろうが、全く遺構は残っていなかった。ここは奥州から江戸方面へ向かう旅人が川留めになったときなどのために設けられた宿場だったそうだ。ここでチョンボをやってしまった。こうして日記を書いていて気がついたのだがカウントをやっていないのだ。
これは失敗。もっとも川を挟んで両岸に大田原宿と越堀宿が相対しているので大体の数字はわかるのだが。。
 「浄泉寺」がある。その境内に「明治天皇御駐輦之碑」と黒羽藩の領界石があり「従此川中東黒羽領」と書かれている。黒羽藩主大関増業は自藩と他藩との境界を明らかにするため、文化10年~11年にかけて何カ所かに領界石を建てたが、これはそのうちの一つだ。
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 のぐちストアーというスーパーがありそこを過ぎると道は山の中に入っていく。車が途端に少なくなり歩きやすくなる。ところどころに集落が散在している72号線を歩くが,小さな坂がいくつもある。最初の坂が富士見峠と呼ばれているが、昔はここから遠く富士山が見えたのだろうか?
 「寺子一里塚」がある。日本橋から42里目。ここは公園としてきれいに整備されている。この一里塚は当初ここから50mほど白河寄りにあったのだが、小学校の建設と道路の拡幅で平成7年にここに復元されたと説明されていた。富士見峠の頂上付近にあったという馬頭観世音碑もここに移されている。
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 寺子にもちょっとしたスーパーがあったので、ここでもパン等は買うことができるだろうし、自販機もあった。
 「会三寺」に地蔵堂があり八十数体の木像の地蔵像が安置されていた。ガラス戸が閉まっていて、ガラス越しに写真を撮ったのでうまく撮れなかったが、一応掲載しておきます。昔、麻疹の流行によって多くの幼児が死亡したことを哀れんで地蔵を納めたものだという。
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 余笹川に架かる寺子橋のたもとに寺子地蔵尊と馬頭観世音があった。黒川に架かる黒川橋を渡る。この辺りの川はどこも水がきれいだ。
 「夫婦石」がある。昔一組の男女が敵に追われてこの石の割れ目に身を隠した。追っ手が近くまで来たとき、二匹の白蛇が現れ、これを見た追っ手は逃げてしまった。二人はこのお石様のお陰で助かり、この地に住み着いて仲良く暮らしたということから、この石を夫婦石と呼ぶようになったという。
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 少し先に夫婦石一里塚がある。日本橋から43里目で両塚が残っている。
右手に芦野氏が築いたという館山城址があり、左手に芦野氏が館山城が築かれるまで住んでいたといわれる芦野氏居館跡があるようだったが、今日も足が痛く街道を反れてまで行く気がしなかった。
 奈良川を渡って突き当たりを左折するところが芦野宿の入口で、ここに「河原町地蔵尊」がある。享保12年(1727年)に造られたこの地蔵尊は芦野宿の南端にあたる。
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 宿の北端には新町地蔵尊があって、芦野宿の入口と出口を守っている形になっているようだ。
「明治天皇行在所記念碑」が立っていたのでカウントする。
芦野宿を10時36分に通る。鍋掛宿から2時間57分、15002歩(約9.2km)。芦野宿はこじんまりとした町で石灯籠を立て、それに旧屋号を掲げている家が多い。旧宿場町を意識した試みなのだろう。ここには丁字屋という昔から続いている鰻屋があった。またパン等を置いている店もある。
宿場の出口には享保2年(1717年)作の新町地蔵尊が立っているが、その先奈良川に架かる高橋を渡ったところにも遊行庵という食事が出来る店があった。特に丁字屋の鰻は食べてみたかったが、昼食にはまだ早かったことと、昼食は食べるところがないと聞いていたので準備しており、少しでもカバンの荷物を軽くしたいと思っている身には、それを犠牲にしてまで食べる気持ちにはならなかった。ちょっと残念。
 ここを過ぎると後は白河に入るまで食べるところはなかった。と、飢餓状態に弱い私はどうしても食べるということに強い関心が向いてしまうのだ。
「べこ石」がある。「べこ」とは昔この地方でも牛のことを「べこ」と称しており、この石が臥牛に似ていることから「べこ石」と呼ばれている。この石は芦野宿の学者戸村右内忠恕が撰文建立したもので、自然石に炎帝神農の姿と3500の文字がびっしり刻まれていた。
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 石に刻まれたものとして少し先、板屋の坂を登ると左手に諭農の碑がある。これはべこ石と同時代のもので病虫害の駆除、予防から飢饉のための備荒法、飢人の看護法までが刻まれている。昔はこうして石に刻んでいたことが良くわかる。
板屋の一里塚がある。日本橋から44番目の一里塚で、斜面の上に標識が立っている。ここから先も延々と自然一杯の中を一人で黙々と歩く。
いつものように誰も歩いていない。気持ちがいい道だ。
 「泉田の一里塚」がある。日本橋から45里目で関東、下野国最北端の一里塚だ。
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 左手に馬頭観世音碑と「瓢石」と刻まれた石碑、そしてその横に瓢箪の形をした石像が並んで立っている。
 棚倉藩の家臣飯沼勝五郎は兄を滝口上野に殺され、父を討たれた初花と夫婦になって仇を探し求めているうちにいざりになり、ここで療養に専念、手慰みに瓢箪を彫ったとされている。
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 ここからしばらく行ったところで、旧道の入口に気がつかず県道をそのまま進んでしまった。「明治天皇御小休止所碑」があるはずだが、いつまで行ってもないなと思っていると、横から合流する道があったので気がついた。引き返そうかと思ったが、足が痛いのでやめた。また失敗だ。
 「境の明神」がある。下野国と陸奥国のそれぞれの境界に明神が建っていた。
 下野側は玉津島神社と呼ばれ、天喜元年(1053年)に紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請として創建された。起源は峠神として生まれ栄えたが明治39年の火災で類焼して昔日の面影を失ってしまったと説明されていた。
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 陸奥側は「住吉明神」を祀っており、文禄4年(1595年)に当時白河を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営し、現存するのは弘化元年(1844年)に建てられた小祠であると説明されていた。
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 この両社、栃木県側と福島県側でそれぞれ説明が異なっており、上記は栃木県側の説明だが、福島県側の説明では下野側が住吉明神で陸奥側が玉津島神社となっている。なぜなのか素人の私には理解できかねます。
 「衣がえの清水」がある。ここは古くは弘法太師がこの清水で衣を濯ぎ、芭蕉も門人曾良と元禄2年(1689年)に白河入りし、境の明神に参拝後この清水に立ち寄り休息をとったということだ。今もきれいな清水が湧いており、横にコップまで置いてあったが、さすが飲む気がしなかった。
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 白坂宿も本陣跡がわからないので、旅籠屋「かめや」の跡があったのでここでカウントする。
白坂宿を通る。14時28分、芦野宿から3時間52分、18513歩(約11.6km)。

 「金売り吉次兄弟の墓」がある。標識に街道から300mとなっている。往復600mか。普通であればなんということのない距離だが、とにかく足が痛い。宇都宮で休養を取って今日が三日目。痛みが再びひどくなってきている。しかし折角のことなので行ってみよう!と意を決して行ってみた(と、それほど大げさな距離でもないが・・・)。
 林の中に三基の石塔があり中央が吉次、左が吉内、右が吉六となっていて「金売吉次三兄弟の墓」とされていた。承安4年(1174年)吉次兄弟が砂金を交易して奥州平泉と京を往来する途中、この地で強盗に襲われて殺害されたのを村人が哀れんでここに墓を作って葬ったそうで、源義経もここに立ち寄り霊を供養したと説明されている。このあたりは吉次に関するものが多い。
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 やがて白河の町に近づいていくと、会津藩兵304名の墓である戊辰戦役碑があり、そのすぐ前に長州藩士3名と大垣藩士3名の墓がある。
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 稲荷山に突きあたったところで右折し、稲荷山をグルッと廻るようにして歩いていくと、左手に「山木屋」というお菓子屋があり、そこを右折していくと白河市街地に入っていく。
 ここでも本陣跡がわからない。ある店に入って聞くと本陣跡はわからないが「明治天皇白河行在所跡」碑があると教えて頂いたので行ってみた。格子戸があり、中に入っていくと「脇本陣柳屋蔵屋敷跡」となっており、天皇の碑もあった。
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 ここでカウントする。
白河宿。16時56分に通る。白坂宿から2時間28分、13991歩(約8.4km)。あたりはもう薄暗くなってきている。今日の宿はここから近くにあった。

今日でとりあえず最低限の目標であった白河宿まで来ることができた。ヤレヤレという気持ちだ。
当初奥州街道は白河までと思っていたが、調べてみると江戸幕府直轄の奥州道中が白河までで、奥州街道はこれから先、青森の三厩まで続くということがわかり、これは一気に歩くことは無理と断念。今回は最低限白河までとし、うまくいけば福島、最も遠くまで行くことができても仙台までとしていたのだ。
今回は足のマメと、途中からは中山道でやってしまった捻挫の後遺症まで出て、これらに悩まされるという、初めての経験に苦戦を強いられながらも、とにかくここまで来ることができた。これから後はオプションだと思うと少し気が楽である。とにかく折角ここまで来ることができたので、もう少し進めるところまで進んでみようと思う。

本日の歩数    49496歩(約30.6km)
本日の歩行時間 9時間35分