奥州街道を歩く(宇都宮~仙台)

2007年10月11日(木) ~2007年10月21日(日)
総歩数:421759歩 総距離:265.2km

2007年10月16日(火)

須賀川~笹川~日出山~小原田~郡山~福原~日和田~高倉~本宮~南杉田~JRで二本松

                                     曇り

 7時10分に出発する。釈迦堂川を渡り、昨日歩いた道を通って須賀川駅前を右折する。昔の道はこの辺りは消滅して今はないようだ。上人坦地下道でJR東北本線を越えると旧道にでる。
 白石坂のところに「森宿海道下の石碑・石塔群」とすぐ横に「森宿一里塚」がある。ここには馬頭観世音碑など数十基の石碑、石塔群がまとまっている。街道のことを昔は海道と書くこともあったようだ。この石碑・石塔群は最初からここにあったものだろうか、それとも後に集めたものなのだろうか、説明書きがなかったのでわからなかった。
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 右手に「筑後塚供養塔群」がある。多式阿弥陀三尊、本迎浮彫供養塔など4基の板碑からなっている。筑後塚の名前は中世末須賀川城が二階堂氏の家臣守谷筑後守の内通によって伊達政宗に攻め落とされたが、戦いの後、政宗は主君を裏切った筑後守を許さずこの地で成敗したことからきていると説明されていた。
 ここを見ていると通りかかった軽トラックが停まりオジサンが降りてきて話しかけてきた。この方はこの地で生まれ育った方でこの塚のことも詳しく、ここは以前は別の場所にあったのだが学校を建てるということでここに移転したことやすぐ近くにきれいな清水が沸いていたのだが、工事が終わると湧かなくなった等々親切に色々と話をしてくれた。ただ、言葉がわからない部分が多くはっきり理解できたのは半分ほどか?九州の人間にとって東北弁は難解だ。
頭に被ったタオルがなんとも微笑ましいオジサンだった。
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 笹川宿には明治天皇笹川御小休所跡碑があった。
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 ここを本陣跡としてカウントする。
8時47分、笹川宿本陣跡を通る。
須賀川宿から1時間47分、9760歩(約9.3km)。
 耳語(ささやき)橋を渡り、日出山宿に入る。この間は距離も短かい。庄屋があったという家の前でカウントする。
このあたりでは本陣とは呼ばず、庄屋あるいはお館さんという呼びかたが多いようだ。
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9時35分、日出山宿本陣跡を通る。
笹川宿から48分、3711歩(約2.4km)。

 日出山宿を出ると30分ほどで小原田宿に入る。ここの庄屋家は昔のままの藁葺きの家が残っていた。色々なところを見たが藁葺きの家が残っているのを見るのは初めてだ。大切に保存されているのだろうが保存するにもかなりのコストがかかると思うので大変だろう。
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10時04分、小原田宿本陣跡を通る。
日出山宿から29分、2546歩(約1.2km)。

小原田宿を過ぎると次第に郡山の中心街へと入っていく。こんな繁華なところでは本陣跡は残ってはいないのではないかと思ったが、それでも何人かの人に聞いてみた。予想通りだれもわからないという返事だった。
左手49号線の向こうにお寺が見えたのでここにも行って聞いてみたが、住職がいないのでわからないとのこと。旧道に戻りかけたところに芭蕉通りがあったので歩いてみた。ここは芭蕉が安積山の安積沼に咲くハナカツミを探すためにこの通りにあった宿に一泊したことからこの名前がついたようだ。現在は飲み屋が立ち並ぶ細い路地だった。
 49号線の向こう側に安積国造神社があったので再び歩道橋を渡って行ってみた。この神社は郡山の総鎮守で成務天皇5年(135年)の創建。後に坂上田村麻呂が戦勝祈念をしたところで、寛政3年(1791年)神官である安藤家に生まれた安積良斎は昌平坂学問所の教授を勤め、門人の中には吉田松陰や高杉晋作らが名を連ねているという由緒ある神社だ。
 ここで本陣跡を聞くとビューホテルアネックスの前に碑があるということだったので、旧道に戻ってみるとホテルの旧道沿いにそれはあった。
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11時14分、郡山宿本陣跡を通る。
小原田宿から1時間10分、3981歩(約2.4km)。

 郡山宿を過ぎてしばらく行くと左手に「日吉神社」がある。ここに16基の石造塔婆がありこれは県指定の重要文化財になっている。これらはこの付近にあったものをここに集めたのだと説明されていた。この中には文保2年(1318年)のものや正安3年(1301年)のものも含まれているようだ。また境内には伊達政宗が窪田城で佐竹軍と相対した際、手兵30名を引き連れて政宗を救い、戦死した伊東肥前重信の碑がある。伊達家では参勤交代の途上には必ずここに参拝したといわれている。
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 福原宿に入ると土蔵の残る庄屋家が残っている。
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 12時51分、福原宿本陣跡を通る。
郡山宿から1時間37分、5939歩(約3.1km)。
 ここから普賢坂、向山、そして高倉と松並木が続くがいずれも昔は多数の松が植わっていたのだろうが、現在ではあまり残っておらず、特に前の二カ所は並木というほどではなかった。
 日和田宿は色々な人に聞いて日和田郵便局の近くだろうということはわかったが遺構は何も残っていなかったので、郵便局の前でカウントする。
13時31分、日和田宿を通る。
福原宿から40分、4105歩(約2.7km)。

 「西方寺蛇骨地蔵堂」がある。ここは享保3年(1718年)二本松藩主丹羽秀延の時代に再建されたもので「菖浦姫と佐世姫」伝説がある。安積領主安積左衛門の娘菖蒲姫が家臣から横恋慕されあげくに父と母を殺され姫は安積沼に投げ込まれたが大蛇になって下手人一族を滅ぼし、更には村人まで襲ったため村人はこれをなだめようとして16歳の娘を生贄として差し出した。32人の娘を差し出し、33番目の生贄の娘に代わって佐世姫が生贄となった。佐代姫は法華経、提婆達多品を唱えその功徳で菖蒲姫は成仏した。菖蒲姫の願いを受けて佐世姫は蛇の骨で地蔵尊を彫ったということだ。裏手に人身御供にされた32人の娘と佐世姫を祀ったといわれる三十三観音が並んでいる。屋根を改装中らしくシートが掛けられていた。
すぐ横に樹齢250年の西方寺の傘松があった。これは市の天然記念物に指定されている。
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 高倉宿に入る手前に高倉の松並木がある。ここにはかなりの松が立っていた。
高倉宿も庄屋跡の場所を聞きここでカウントしたが昔の面影は全く残っていなかった。
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14時40分、高倉宿本陣跡を通る。
日和田宿から1時間9分、6243歩(約4.1km)。
 高倉宿を過ぎてしばらく歩き下の原から旧道に入る。舗装された道は途中で途切れ、道が急に狭くなってくる。更に道が二つに分かれていて判断に苦しむ。とりあえず左側の道を進んで車道に合流したがなんとなくおかしい。地図と違うのだ。ちょうどお年寄りの方が通りかかったので聞いてみると、私が歩いてきたところとは違う道を教えてくれた。そこでその道を逆にたどるように歩くと先ほど判断に迷ったところに出た。ここを左に進むのではなく、直進すればよかったということがこれでわかった。

 本宮宿へ入る前に「積達騒動鎮定之遺蹟碑」がある。寛延2年(1749年)不作続きから百姓一揆が勃発。18000人の群集がここに集結した。この騒動に際し藩と交渉して流血することなく農民の願いを実現させるために活躍をした冬室彦兵衛を顕彰したものだ。
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 「本宮観音堂と太郎丸観音堂供養塔」がある。観世音由来記によると古観音堂(日輪寺の南西の丘)にあったものを慶長15年(1610年)観音堂とともに太郎丸に移され、その後二つに折れて地中に埋もれていたものを明治27年観音堂修理のときここに建てたもので鎌倉時代の頃の三尊来迎塔婆と説明されていた。
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 本宮宿には「明治天皇本宮行在所跡碑」とその横にクロマツが立っている。
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 ここでカウントする。
16時12分、本宮本陣跡を通る。
高倉宿から1時間32分、8783歩(約5.1km)。

本宮を過ぎ、大玉村に来ると道は山の中へ入っていく。今日は曇っているし17時近くなってくるとあたりはかなり暗くなってくる。車は通るものの人は誰もいない山の中である。これはちょっとまずいなと思って先を急ぐ。
山を下ったところに薬師堂への階段があったが暗くて登っていくことができなかった。道路に設置された電光の温度計は9℃を表示していた。かなり冷えてきている。ようやく人家のあるところまで出てきた。南杉田宿だ。
数組の方に庄屋跡を尋ね、あの人の家ではないか教えてもらったが周囲はすでに暗くなっており、探すことができなかった。そのため、このあたりだろうという目星をつけてカウントする。
17時22分、南杉田宿を通る。本宮宿から1時間10分、7069歩(約5.0km)。今日の当初の予定ではこの後二本松まで歩くつもりだったが、もう周囲は真っ暗で無理なため杉田駅からJRで二本松まで移動する。乗車時間はわずか3分。今日の宿は二本松駅からすぐ近くだった。
手持ちの資料では二本松までの距離が29.6kmとなっていた。しかし実際歩いてみると10時間以上かかり、歩数も5万歩をかなり越えている。どう考えてみてもこの間の距離はもっとあるように思われる。それとも道が違うのだろうか?

距離は地図をトレースして計測してみると33.5kmあったようだ。
これで納得する。

本日の歩数    53228歩(約33.5km)
本日の歩行時間 10時間20分