長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年01月19日(土)

小倉~黒崎

晴れ

今日から長崎街道に挑戦する。今回は地元ということもあってしばらくは日帰りの旅。何かあっても自宅まですぐに帰ることができるし、スケジュールも気の向いたときにいつでも歩くことができ、宿も探さなくていいなど気分的にとても楽である。そうした中、会社の連中の中で初日だけでも一緒に歩きたいという人間が出てきた。また彼らから話を聞いた仕事関係の方、飲み屋で一緒になる方も面白そうだと言って参加の旨を伝えてきて、結局14名で歩くことになった。思いがけないことだったが、折角なので皆で楽しく歩きましょうということにした。19日に歩くことにしたが、こうなると天気が気になる。これだけの人数になるとそう簡単に延期というわけにはいかないので少雨決行とし、ひたすら雨が降らないことを祈った。そして当日、天気は良好。胸をなでおろす。日帰りなので特別の準備もなく、ウエストポーチの中にデジカメと携帯電話、GPSとメモ紙を用意しただけの軽装で家をでる。荷物がないと本当に楽だ。
今日の予定は最初の宿場(長崎から来た場合は最後)黒崎宿まで15kmほどの距離。ゆっくり歩いても4時間ほどと考え、正午に出発とした。11時半に長崎街道の起点である常盤橋に到着。出発の30分前なのでまだだれも来ていない。橋の横に江戸時代の橋脚の一部が展示されているのでその写真を撮り、説明文を読んでいると、橋の向こうから一人の男性が歩いてきた。以前から仕事でお世話になっているYさんだ。引退以来始めてお会いしたのだが相変わらずお元気そう。今日は一緒に歩く予定にしていたが、ちょっと用事があるので途中まで歩くつもり。歩くのはあまり早くないのでどこか途中で追いつかれると思うから先に出発しますといわれた。それでとりあえず写真を撮らせていただき別れる。途中まで会社の人間が電話連絡をしていたようだが、結局今日はその後会えないまま終わってしまった。P1190003-1
常盤橋は小倉城主細川忠興が慶長7年(1607年)に紫川と呼ばれるこの川に橋を架けたのが始まりで、元禄5年(1692年)に架け替えたときに常盤橋と名づけられた。表示されている橋脚は昭和初期に引き上げられたもので、文政5年(1822年)の銘が入っており、直径約60cm、高さは約5.7mの巨大なものだったそうだ。民間に払い下げられたときにいくつかに切断され、現在は市内数箇所に保存されていると説明されていた。
P1190001-1
この常盤橋は伊能忠敬の九州測量の始発点であり、小倉五街道(長崎街道、唐津街道、中津街道、秋月街道、門司往還)の起点でもある。橋の袂には平成13年に建立された、伊能忠敬測量開始200年を記念した顕彰碑があった。
P1190004-1
やがて皆が集まり見送りの人を含めて記念撮影。
何事もなく歩き終えることを祈る。
P1190008-1
12時03分出発。
室町の商店街を突き抜けていくと右手にJR西小倉駅がある。ここでは「大門」の遺蹟を発掘し、上からそれを見ることができるように、道路をガラス張りにした展示がなされている。小倉城は慶長7年(1602年)細川忠興によって築城され、城下町は東西2km、南北1.3km、周囲8kmにも及ぶ日本でも有数の広さを誇っていた。城下には48の門が築かれ、堅固に城を守っていたが、その中の一つがこの大門だったと説明されている。「大門」は現在でも地名として使われている。
P1190010-1
都市高速道路の下を通って旧電車道に出たところに、到津口門跡の看板が立っている。それによるとここは長崎街道の出入り口で、門司往還を歩いたときにあった門司口とともに昼夜を問わず開門しており、常時20人が勤めていたということだ。
門の外には土手と堀が連なり、内側には三角形の約千坪の「勢溜」と呼ばれる広場があって、今でも存在している万徳寺や西応寺といった寺が立ち並んでいた。これらは敵が攻めてきたときの砦となるものであったという。
また幕末の絵図ではこの場所は「到津口」となっているが、明治の地図では「筑前口」と記されているとも説明されていた。
P1190014-1
左手に小倉裁判所を見ながら進み、善龍寺の角から右折してJR日豊本線の踏切を越え、清水小学校の前を通って進む。
歩き始めて40分ほど経過したころ、遅刻をしたY君が追いついてきた。ここまで走ってきたという。昨日は出張から遅くに帰り着いたようで寝過ごしたようだ。彼はハーフマラソンに出場した経験があるそうで、20kmであれば走ることができますといっていた。大会では制限時間内で走ることができたそうだが、順位はブービーだったそうだ。何事もそうだが、大勢のなかでブービーを取るということはなかなかできることではない。これも一つの才能か?
1500年以上前からあるといわれる「湧き清水の泉」がある。ここは昔から長崎街道を歩く人たちの憩いの場所となっていたそうで、水かけ地蔵尊が祭られていた。この清水は神功皇后の伝説によって皇后水と呼ばれ、天平12年(1400年)板櫃川の合戦に因み、聖武天皇の守護仏を安置したことにより観音霊水と呼ばれ、更には弘法大師の巡国の際、改めて旅人の憩いの水とされたことから、弘法の水とも言われているということだ。この地は今でも清水(キヨミズ)という名称がつけられている。
P1190018-1
 このすぐ先に「大満寺」がある。ここは天正年間(1580年頃)に企救郡古川村(現小倉南区徳吉)に創建されたお寺で、その後火事にあったりして移転をし、この地には昭和28年に移転している。
 ここのご本尊は「塩買観音」と呼ばれている。ある年雪が連日降り積もり寒くて外に出られない日、寺で塩がなくなった。困っていると商人が塩を担いできたので、不思議に思って尋ねてみると、自分は曽根からきたのだが、昨日僧が来て「小倉城下の大満寺の僧だが、明日塩がいるので届けてほしい」と言ってお金を置いていったという。寺の人や信者はきっとご本尊様が行ってくれたのだろうということになり、以後「塩買観音」と呼ばれるようになったそうだ。このご本尊は十一面観音で行基の作といわれ、かっては住職一代一度のご開帳という秘仏だったが、現在では本堂に安置されていると説明書きがあったので、お寺の方にお願いをして拝ませていただいた。ご本尊は黒ずんでおり、十一面はなくなっていたりしてかなり痛んでいるそうで、大切に安置されており、写真撮影も許可されなかった。
この話から、昔はこの地方でも雪がかなり降っていたことがわかる。私が子供の頃もそれなりに冬は雪が積もっていたことを記憶しているが、昨今では雪が積もるということは非常に少なくなってきている。最近の温暖化を改めて再確認した次第だ。
P1240002-1
 「九州鉄道茶屋町橋梁」がある。これは明治24年に開通した九州鉄道大蔵線の施設で、壁体は煉瓦を積んだ弧型アーチである。九州鉄道株式会社は門司~黒崎間の鉄道敷設にあたったが、明治35年戸畑線(現鹿児島本線)の開通、明治40年の九州鉄道の国有化等々時代の流れで変転を繰り返し明治44年廃線となった。
P1190023-1 
 私が生まれ育った家はこのすぐ近くで、この橋梁で遊んだことを覚えている。この前を通っている道を以前は「キュウセンロ」と呼んでいたが、これは「旧線路」という呼び名だったということを随分後になって理解した。もっとも最近では「キュウセンロ」といってもわからない人が大半を占めるようになってきている。
 1時間40分ほど歩いたころ、荒生田というところにスーパーがありトイレもあるのでここで休憩を取る。ここでもう一人の遅刻者O君が待っていた。彼は前夜今日に備えて10時に寝て朝4時には一度目覚めたそうだ。ところがそれから二度寝をしてしまい、集合時間に来ないことで連絡を入れた電話の音でようやく目覚めたとのこと。それで彼の家からここまできて待っていたそうだ。それにしてもよく寝たものだ。寝る子は育つ!
P1190025-1
 ここから少し行ったところに「荒生田一里塚碑」が立っている。まだ新しい碑だ。
P1190026-1
 このあたりは現在河川を含めた大掛かりな道路工事が進んでいる。北九州市は人口が減少傾向にあり、100万人を割ってしまっている。そうした中で道路の拡幅を含むこうした工事は本当に必要なのだろうかと思う。立ち退き交渉など長い時間をかけて行うため、途中での計画変更は確かに難しい面はあるとは思うのだが、現在の財政難の時代ちょっと疑問が残る。
 更にすぐ近くに「従是西筑前国」という大きな碑が立っている。境界石だ。古くより北九州はほぼ中央から東西に筑前国と豊前国に別れていた。江戸時代には福岡藩と小倉藩により数多くの境界石が建てられており、現在でも13基が残っている。この三条の国境石もその一つで、天保5年(1834年)に建て替えられたこの境界石は福岡藩最大のものだ。市内の境界石はそのほとんどが移転や消失しているが、この境界石だけは当時のままの場所に残っている。
P1190027-1
このすぐ横に北九州市長官舎が立っている。
 右手に「高見神社」を見ながら進む。高見神社は神功皇后の創始といわれる古い神社で、昭和8年平成陛下のお誕生と八幡製鉄所発足を機にこの地に移転した神社だ。このあたりの通りは昔の街道の雰囲気を残している。
P1190031-1
 更に進むと中央町というところに出る。右手にスペースワールドが見える。昔の人がこの景色を見るとどんなに驚くだろうと思うとなんとなく楽しい。
P1190033-1
 JR八幡駅近くまで来て、左折する角に「旧百三十銀行八幡支店」がある。大正4年(1915年)に竣工した赤レンガの建物で、現在は北九州市立のギャラリーとして利用されている。
このあたりは道路整備が進んでおり昔の面影は残っていない。P1190034-1
 市立図書館の庭に「国境石」が二つ置いてある。13基残っているものの一部だ。どちらも一部が欠けているが、一方には(従是)東豊前国小(倉領)、またもう一方には(従是)西筑前国と解読することができる。カッコ内は欠けている言葉だ。
豊前国の碑は以前は先ほどの八幡東区三条にあったとされているが、筑前国の碑はどこにあったか明確ではないそうだ。いずれも旧八幡市役所の内庭にあったものを昭和39年にこの場所に移設したということだ。
P1190037-1
P1190036-1

 「前田の一里塚跡碑」がある。この一里塚には松が植えられていたということだが、現在は残っておらず公園になっていた。長崎街道の一里塚は門司大里を起点として赤坂・長浜、金田・原町・荒生田を経て、この前田の一里塚に至るという説明がなされていた。
P1190039-1
 「黒崎宿東構口」がある。構口とは番所のことで、天和元年(1615年)黒崎城を廃し、城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けたのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには、必ず東と西にある講口で検査を受けた。東の構口田町には4人、西の構口熊手3人の役人がつめていたそうだ。
P1190042-1
 ここに「海蔵庵」がある。延喜年中に聖武天皇が九州御巡拝の折、海蔵庵観音寺として建立した。天和3年(1683年)田町に火災や病人が多数出たため、山寺にあった観音寺を廃し、海蔵庵と改称してここ田町に移転をした。昔より火災守護、安産、商売繁盛のお寺として信仰を集めている。境内には毘沙門天像、阿弥陀如来像、不動明王、六地蔵、大師像が数多く祀られている。
P1190044-1P1190045-1


 15時42分、黒崎宿本陣跡を通る。
P1190047-1
常盤橋から3時間39分、19210歩(13km)。

 黒崎宿は筑前六宿(黒埼・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田)の最初の宿場だが、ここには今は痕跡は全く残っていない。
 JR鹿児島本線の踏切を渡ると、右手すぐのところに「櫻屋跡碑」がある。ここは旅籠屋櫻屋の跡で鹿児島藩、熊本藩のご用達や佐賀藩の定宿をつとめ、幕末には平戸藩のご用達にもなったところだ。櫻屋と呼ぶ前は薩摩屋と称していたそうで、幕末の当主は勤皇の志が厚く、西郷隆盛や坂本竜馬などが宿泊したということだ。現在はマンションが建っている。
P1190048-1
 黒崎商店街アーケードの入口に「黒崎宿人馬継所址の碑」が立っている。これは人馬を常備し、人や荷物を運ぶために設置されたもので、街道を歩くに際してなくてはならない当時の運輸機関だった。黒崎宿の料金は他の宿場の料金よりかなり高かったようで、それだけ人の往来が多かったということなのだろう。この碑の横になぜか自転車が置かれている。以前見たときも同じ自転車が置かれていた。当時の籠や馬と現在の自転車の対比ということか。
P1190049-1
このあたりのアーケードの中はかなりシャッターが閉まっていて閑散としている。
 一旦アーケードを抜けたところに「長崎街道黒崎宿案内板」があったのでちょっと一息入れ、もう少し先にある曲里の松並木まで歩くことにする。ここから再びアーケード街に入っていくが、ここはJR黒崎駅の近くということもあってこれまでと違い人通りがかなりある。アーケードを抜け乱橋という小さな橋を渡って左折すると、前方に曲里の松並木が見えてくる。江戸幕府が五街道をはじめとした全国の街道に松や杉を植えさせた名残がここに残っている。
今日の歩きはここまでで終わることとする。16時13分無事全員歩き通すことができたので記念撮影をして解散する。
P1190052-1

本日の歩行時間   4時間10分。
本日の歩数 22904歩。
本日の総歩行距離  14.5km。

 解散後一緒に歩いた会社の連中と我が家で打ち上げをかねた鍋パーティをする。常盤橋で見送ってくれた女子社員が先に来て準備をしていてくれたのだ。全員が無事歩き終えての飲み会なので気持ちよく飲むことができた。
P1190054-1
今回初めて皆で歩くということを経験したが、これはこれでそれなりに楽しいものであり貴重な経験だった。気になっていた足も歩いた後のクールダウンや筋肉強化のリハビリ、お灸を毎日欠かさずにやっている効果がでているのか、門司往還のときに比べると随分回復しているようで今日は大分楽だ。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん