長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年02月19日(火)

原田~田代~轟木~中原~神埼~境原~佐賀

                                    晴れ

 7時30分に家を出て原田宿に9時10分に到着する。朝の空気は冷たいがいい天気だ。
 前回歩いたところから先は旧道が残っていないようなので現在の道を歩く。JRの線路を越えて山側を歩くと、卵の自動販売機が置いてあり、ここを左に曲がっていくと、右手に養鶏場があって沢山の鶏が飼われている。どこの養鶏場も同じなのだが、棚にびっしり鶏が並んでいて満足に身動きさえできない。ちょっと鶏がかわいそう。
 ここから赤レンガの橋げたの下をくぐって再びJR線路を越えて国道3号線に出、この道に沿って南下する。
 左手に筑紫野温泉アマンディがあり、その前に国境石が立っている。大きな碑で「従是東筑前国」と刻まれている。写真を撮ったが、逆光になっていてうまく写っていない。写す人間の技術の問題?
P2190001-1
 この建物の入口のところに「長崎街道」という碑が立っており、そこから石畳の道が伸びているので、そのまま歩いていった。ところがものの200~300mほどでこの道は行き止まりになっていた。それなら入口のところに「通り抜けできません」という表示でもあればいいのに・・・と思ってしまう。道を間違えて今来た道を引き返すことが本当にイヤだ、という気持ちが私の心に沁みこんでいるのだ。
P2190003-1
 JRけやき台駅を右に見ながら3号線を進むと踏切があり、そこを越えて山側に入っていく。大きな「猿田彦と庚申尊大の石碑」が立っていたが、説明書がなかったので縁起はわからなかった。
P2190004-1
 このあたりの道は旧道の面影を色濃く残している。やがてJRの線路を越えて3号線に戻り、少し歩くと再びまた線路を越えて山側に行くなど、このあたりの道は何度もJRの線路と交差を繰り返す。今町にも庚申尊大の石碑が立っている。今町は北の木山口~南の田代宿間の町並で、街道沿いに軒を連ねるように家並みが続いていたという説明書きが立っていた。
 田代宿に入るところに「追分石」がある。ここは田代宿の東口にあたるところで、この石には「右・ひこ山へ 左・こくら・はかたへ」の文字が刻まれている。江戸時代ここは日田・英彦山道の分岐点で、田代宿の東北の出入り口だった。
 「右・ひこ山へ」の道は日田・英彦山道と呼ばれ、追分石から東へ姫方村、幡先村などを経て、秋月街道と薩摩街道が交差する筑後国松崎宿(現小郡市松崎)へと通じていた。追分石は自然石が使われており、記録によれば、享和2年(1802年)にはこの地にあったとされているという説明書が立っていた。
P2190010-1
 田代宿に入ると道路の右側に八坂神社があり、左側には「西清寺」がある。西清寺には天正年間(1573~1591年)に勝尾城主の筑紫広門が、側室の病気が治ることを祈願して植えられたとされる大きな銀杏の木がある。高さ32m、樹の大きさ5.4mある雌木で、多いときには約1.2トンの銀杏がとれると昭和60年に書かれた説明書があった。1トン以上の銀杏と聞いただけであの独特の匂いがしてくるようだったが、現在の木の高さは32mはないように見えた。切られたのか折れたのかしたのだろうか?
P2190015-1
 ここも写真がまずい。完全な逆光になっている。逆光の場合、どうやって撮影すればいいのかな?もう少し腕を磨かなければ。
 「代官所跡」がある。
江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領だったので、対馬藩は田代領を治めるため、元和年間(1615~1624年)に代官所を設置したという記録が西清寺に残っているそうだ。享保9年(1724年)や嘉永5年(1851年)に改築されたときの指図も現存しているそうで、これらは平成11年鳥栖市重要文化財に指定されている。今は遺構は残っておらず、消防団の倉庫が立っているだけだ。
P2190016-1
 田代宿上使屋や高札場、問屋場の跡に標識が立っているが、ここも遺構はなにも残っていない。
本陣跡も同様に標識が立っているだけだった。
P2190022-1
 ここでカウントする。
11時24分、田代宿本陣跡を通る。
原田宿から2時間14分、12855歩、8.6km.

 田代宿西口にも「追分石」がある。ここには「右・さか 左・くるめ道」と彫られている。
P2190023-1
瓜生野にも八坂神社がある。瓜生野町は田代宿と轟木宿の中間にあたり、農具等を売る町並みが続いていたということだ。ここの八坂神社の縁起によれば、正安元年(1299年)山城八坂神社の分霊を勧請となっていると説明されていた。
 「姿見の池」がある。長崎市の中島天満宮に残っている聖廟記によると、延喜元年(901年)菅原道真が大宰府に流されたとき従った三澄左近将監時遠は、年老いて瓜生野付近に隠居したが、時遠に子がいなかったため、道真に請い五子長寿麿を養子としてもらったという。道真はわが子に会うため、しばしば瓜生野を訪れたが、そのとき腰をおろしたのが「腰掛の石」そして長寿麿に与えるため水に映した自分の顔を描いたのが「姿見の池」と伝えられていると説明されていた。昔はきれいな水だったのだろうが、今は・・・・。
P2190029-1
 轟木宿に入る。ここは肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、轟木川を対馬宗藩との境界とし、番所が設けられて厳しい検問が行われていたそうだ。宿場町は上町、中町、下町、新町の四町に分かれており、番所は上町に、幕府の布告、人馬の公定賃金などを書く制札は中町との角に、人足、馬を用立てる人馬置床は下町に設けられ、新町には細工師、大工などが住む職人町となっていたと説明されていた。
 日子神社があったのでそこの縁起を見ようと看板のところに行くと、一人の女性がこれを読まれている。なんとなく地元の方ではないようだったので、歩かれているのですか?と聞くと、俳句をやっておられて吟行されているということだった。歩いていることを話すと、私も一度挑戦してみたかったけど、もう年を取ってしまったので無理ですと笑いながら話されていた。
 轟木宿人馬置床の標識があった。
P2190034-1
 ここでカウントする。
12時13分、轟木宿を通る。
田代宿から49分、4675歩、3.4km。

轟木宿を過ぎたところで昼食を取る。今日はこれで飢える心配はなくなって一安心だ。
 安良を通る。ここは朝日山麓に広がる古くからの集落である。朝日山は建武元年(1334年)朝日一族によって山城が築かれ、以来約250年間城主は変わっても山城として機能していた。古代においてもここに烽火が置かれるなどいつの時代にも幹道が通り、戦略的拠点として位置づけられていたと説明されている。階段を登ったところに三体の石仏が祀られ、広場には巨木が二本立っていた。
P2190036-1
鳥栖市一本松の信号を越えていくと六地蔵が祭られていた。
 またこのあたりは街道沿いに標識がかなりの頻度で立っており、歩いていく上で非常に助かった。これらに助けられたこともあって、今日は道を間違うことがほとんなかった。
P2190038-1
 「五反三歩池」がある。これは溜池を作る際、五反三歩の田んぼをつぶして作ったことにその名が由来するかんがい用水池のことで、鍋島藩の治山治水に多くの功績を持つ成富兵庫茂安が最初に作った池といわれている。その形が似ていることから名づけられたという、尺八と呼ばれる排水調整樋管が最初に設けられた溜池ともいわれている。満水面積は二町六反で近辺の水田約200町歩をうるおしている。築造年代は不明だが寛永3年(1628年)前後といわれていると説明されていた。
P2190040-1
 34号線から離れて旧道をしばらく歩くと中原宿に入る。右手に祇園社を見ながら進む。このあたりでは鳥居に竹を結びつけていることが多い。なにか意味があるのだろうがわからなかった。
P2190041-1
 岡崎屋という旅籠跡が残っている。
P2190042-1
 ここでカウントを行う。
14時12分 中原宿を通る。
轟木宿から1時間59分、
9506歩、6.6km。

 静かな旧道を歩いていると、横から「長崎街道なぁ~」というこの地方特有のイントネーションの大きな声が聞こえてきた。そちらのほうを見ると作業服を着た男性が笑いながらこちらをみている。「は~い」と答えると「がんばってなぁ~」と言ってくれた。ちょっとしたことなのだが、こうして思いがけず声を掛けてくれるとうれしいものだ。
 やがて34号線に合流してしばらく歩き、久留米分岐の信号から34号線と分かれて再び旧道に入る。
 追分石が立っている。これには「日本三所背振山弁財天道三十町」と刻まれている。
P2190045-1
 田手川に突き当たったところから左に曲がると「大神宮」が立っている。縁起が書かれたものが立っていたが、字が薄れて読みにくい。かろうじて約1300年前天智天皇が創建し、明治42年に近辺の六社を合祀したということを読むことができた。神主さんと思える方が丁度この日の勤めを終えて帰りかけていた。なんとなく帰りを急ぐような雰囲気があったので話しを聞くことはできなかった。
P2190047-1
 「ひのはしら一里塚」がある。ここは長崎街道で唯一築山が残っている一里塚だ。ここは頂部に祀られた「いぼ地蔵」信仰により、当時の規模、景観がそのまま残されたものと考えられているということが説明されている。
P2190050-1
 神埼宿に入ると「櫛田神社」がある。略記によると、大昔この地には荒神があって人を害したが、1900年前に景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸福になったので、神幸郡と名づけられた。鎌倉時代弘安4年(1281年)の蒙古来襲の際、本宮の神剣を山笠で有名な博多櫛田神社に奉還して、異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがあったので、魔よけ開運の神と崇敬されるようになったと書かれていた。
P2190055-1
 ここには県重要文化財に指定されている「石造肥前鳥居」がある。
P2190058-1
 またここには「琴の楠」がある。景行天皇が琴を埋めると芽が出て楠になったといわれるこの木は、推定樹齢700年という櫛田宮の神木で、根回り9.1m、樹高16.6m、枝張り21m、地上2mのところで二方に分岐しているが、幹の中は空洞になっている。清浄なる人が息を止めて7回り半回れば琴の音が聞こえると説明されている。回ってみようかと思ったが結果は明白なのでやめておく。(どちらに明白なのかはご想像におまかせします)
P2190053-1
神埼宿は遺構が全く残っていなかったのでここでカウントする。
16時20分 神埼宿を通る。
中原宿から2時間8分、13205歩、9.5km。

 「神埼宿西木戸口」は最近建てられたようで真新しい門があり、ちょっとした公園のようになっていた。
P2190060-1
 ここで神埼宿は終わる。すぐ横に城原川が流れており、神埼橋を渡って先に進む。時刻は16時半を少し過ぎており、次第に夕暮れの様相を呈してきているが、今日の目標である佐賀宿までまだかなりの距離が残っている。なんとか暗くなるまでにたどり着きたいと思い先を急ぐ。
 しばらく歩いていくと道路の左側、歩いている反対側に六地蔵が見えた。佐賀の乱の戦死者供養のため村民が建てたものだということだが、先を急ぐ気持ちが強くなっている私は信号を越えてまで行く気にならず、こちら側から見ただけで先に進む。
やがて境原宿を通るが、ここは間の宿だったようで遺構が残っていない。そのため原の町の信号のところでカウントする。
17時37分 境原宿を通る。
神埼宿から1時間17分、8809歩、6.5km。

 道の右側、少し入ったところに「郡境石」が立っていて、「従是 東神埼郡 西佐嘉郡」と刻まれている。
P2190062-1
 18時近くになっていよいよ日没間近だ。西の空に太陽が今にも沈みそうになっている。きれいな夕焼けなのだが、ゆっくり鑑賞する心の余裕などない。なんとか残照のあるうちに佐賀まで歩きたい。その一心でひたすら急ぐ。
P2190063-1

 「戸次塚」がある。元亀元年(1570年)大分の大友宗麟が佐賀城を攻めた。このとき大友方の大将大友八郎親秀は佐賀の龍造寺軍に川上で討たれた。さらに東部高尾近くで頑張っていた大友方の戸次式部大輔も討たれ、多くの将士とともに戦死した。龍造寺方ではこれらの戦死者を集めて葬ったそうで、この石はその碑といわれており、戸次塚と呼ばれていると説明されていた。敵方であっても戦死した者に対しては、こうして手厚く葬る風潮があったことを偲ばせる塚である。
P2190064-1
 「構口番所跡の碑」が立っている。
 更に進むと思案橋という長崎を思わせる名前の橋があり、これを渡って進む。あと少しのところまできているのでなんとか道を間違わずに歩きたいのだが、周囲は完全に暗くなってきて地図が読めない。お店があると、その前に行き、店の明かりで地図を確認しながら進む。お店の人が怪訝そうな顔をしてこちらをみているのがわかる。何度かそういうことを繰り返した後、何気なく道路わきをみると側溝の蓋にお供を連れて馬に乗っている人の絵が描かれている。それ以外にも籠の絵など何種類かの絵が描かれた側溝の蓋が並んでいることに気がついた。長崎街道の道に沿ってこの蓋が置かれているのだ。これだと大きいので良くわかる。地図を見なくてもこの蓋をたどっていけば道を間違わずに歩くことができるのだ。これは非常に助かった。
P2190067-1
 やがて柳町というところを通る。ここには旧古賀家をはじめとする旧家が立っており、時節柄お雛様を公開しているようだ。ただもう時間が遅いため門は閉まっていた。ちょっと残念だった。
 晒橋という橋といえないような小橋を渡っていくと、アーケード街に入っていく。ここに道しるべ恵比寿が置かれており、「こくらみち なかさきへ」と刻まれた追分石が横に立っていた。
P2190072-1
 ここから右折して歩くが、通りに赤じゅうたんが敷かれている。ただ人はだれも通っていない。まだそんなに遅い時間でもないのにちょっとさびしい。
P2190073-1
一度左折しまた右折するのだが、その角にも長崎街道恵比寿が置かれていた。白山名店街を通るが、ここは少しは人通りがあった。このあたりが佐賀宿のようだが、ここも遺構が残っていないのでアーケードを抜けたところでカウントする。
18時55分 佐賀宿を通る。
境原宿から1時間18分、7769歩、5.5km。

ここからJR佐賀駅まで15分ほどの距離。佐賀駅を19時23分発の特急で帰途に着く。
これで何とか今日の目標を達成することができた。今日は距離がかなりありそうだとわかっていたので、とにかく道を間違えないように気をつけて歩いたため、私としては珍しく道を間違うことはなかった。また休憩も昼食を食べるため30分ほど休んだだけで、それ以外は全く休みを取ることなく歩き続けたのでかなりくたびれた一日だった。

本日の歩行時間       9時間45分
本日の歩数          56819歩。
本日の総歩行距離     40.3km。

 

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん