長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年02月29日(金)

佐賀~牛津~小田~北方~武雄

                                     曇り

 7時に家を出て前回歩いた佐賀宿に9時25分に到着。今日は曇り空であまり寒さを感じない。
歩くには好都合だ。
 歩き始めてすぐのところに「龍造寺八幡宮」がある。
ここは龍造寺家の始祖南次郎季家公が平家追討の功により、源頼朝から佐賀地方の地頭頭に任じられたことから、文治3年(1187年)に創建し、慶長12年(1607年)鍋島藩初代藩主勝茂公が佐賀城築城に際して八幡小路に遷座、造営したものだ。石造肥前鳥居は慶長9年(1604年)に造られたものという説明がなされていた。境内には樹齢400年とされる楠の巨木が立っていた。
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 このあたりの道路の側溝の蓋にも前回見たものと同様の絵が描かれている。今回改めてみてみると絵は二種類あって、一つはお供を連れ馬に乗った侍の絵であり、もう一つは二人で籠を担いだ絵だった。それぞれの絵は側溝五枚に一枚の割合で置かれていた。
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 このあたりのもう一つの特徴として長崎街道沿いの各所に「えびす像」が置かれている。写真の半跏エビス像は寛政5年(1793年)に造られたもので、市内で最も古いものの一つとされている。原型を保っており、福神の石像として、またえびす信仰を知るものとして、その価値は高いとされているそうだ。
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 資産家であった宇野善左衛門が明和元年(1764年)に自費で作ったという善左衛門橋を渡って右折して進むと、突き当たりに「伊勢神社」がある。ここは伊勢大神宮の分霊を招請した全国で唯一の神社ということだ。ここにも石造肥前鳥居が立っている。この石造肥前鳥居の特徴は笠木、島木、貫、柱が通常2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線型になっている。柱の上端の笠木、島木を支える部分には台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。この鳥居は慶長12年(1607年)の造立銘があり、造立年代の古いものの一つとして価値があると説明されていた。
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 「北面天満宮」がある。ここは鍋島町栃久で神社の諸事を司っていた竹庵西堂が藩主の命を受けて、天正3年(1575年)神霊をこの地に移したといわれている古い神社だ。以来天満宮はこの地の文教の守護神として、また火災除けの神として住民の崇拝が厚く、そのため六座町では今日まで大火はないといわれている。現在の神殿は貞亨3年(1686年)に、また拝殿は元禄15年(1702年)に改築されたものと説明されていた。
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 龍造寺高房のお墓の跡が天佑寺にあるという碑が立っていたので、街道をそれていってみたが、もうこの場所にはなくほかに移されているということだった。
「醫局監製牛黄青心圓」という古い看板がかかっている久保薬局がある。ここは城下で最も古い生薬屋である。
安政5年(1858年)の「久保家日記」によると「明日牛黄青心圓を調合したいという願いを好生館御役所に提出した」と書かれているそうだ。
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 「八戸の地蔵」がある。この地蔵は宝暦6年(1756年)長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門兼品によって鋳造された銅製の物であったが、戦時中の昭和19年に拠出されたので、昭和29年この地の有志によって石像が再建されたと説明されていた。P2290034-1
 長崎街道佐賀城下の西の入り口である、慶長年間に架設された「高橋」がある。これは本庄江を航行する船の往来を便利にするため、橋桁を高く持ち上げ、船の帆柱や竿が支障なく通行できるようにしたため、その名前が起こったと伝えられている。
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道路の側溝に置かれていた街道を示す蓋はここまで続いていたが、ここで城下が終わるのでこれ以降は置かれていなかった。
 「別れの松」がある。刑場に曳かれる罪人がここで見送りの肉親や知人と永遠の別れを告げなければならなかったため、別れの松といわれていた。早朝白衣を纏った姿で獄屋を出された罪人は、この松のところで駕籠を止めてしばらく見送りのものと別れの水盃を交わすことがゆるされていたそうだ。明治になり嘉瀬の刑場が廃止になっても「別れの松」は代々植え継がれ今も残されている。
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 佐賀県重要文化財に指定されている「香椎神社」がある。ここは安元3年(1177年)ごろ勧請され、その後天明年間(1781~1788年)に現在地に社替地になったと伝えられている古い神社だ。
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 祇園社があり、そこに久保田宿の標識が立っている。久保田宿は規模が小さかったため、一般的に長崎街道の資料では宿場としては記載されていない。
 牛津宿に入ると食堂が一軒だけあったので早速入って昼食をとる。いつものことだが食べることには・・・・・
そこを出るとすぐ近くに牛津宿郡継ぎ場跡の碑があった。
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 ここでカウントする。
12時29分 牛津宿を通る。
佐賀宿から3時間4分、14780歩、10.1km.

 牛津町の総鎮守である乙女神社に行き当たるのでここを左折して進む。牛津宿の入り口から国道207号線を外れて歩く。ここは静かな通りで車もあまり通らず歩きやすい。
 しばらく歩くと国道34号線に出、これを進むと右側に「カンカン石」がある。この石は先覚者の紀行文や記録に見られるもので、磁鉄鉱を含む讃岐石であるため、小石で打てばカンカンという鉦を打つような音がするのでカンカン石と呼ばれたと説明されていた。
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 中山道を歩いたときにも同様な石のあったことを思い出した。横川の近くで中山道では茶釜石と呼ばれていた。
 北町役場の前を通り進むと地図と現地が異なっている。宅地化がされており地形が変わっていたのだ。そのため少し迷ったが、大きく間違うことなく進むことができた。田んぼの中の道を歩いていき、突き当りを左折して進むと小田宿だ。標識がたっている。
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 ここでカウントする。
14時22分、小田宿を通る。
牛津宿から1時間53分、11813歩、8.4km.

 歩いていると立派な大きな家が立っていた。丁度前の家の人が庭に出ておられていたので聞いてみると、庄屋さんのお宅だと教えてくれた。
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 「楠樹の観音様」がある。奈良時代の天平9年(737年)僧行基が海辺にあった大楠に馬頭観音を彫り、人馬の安全と健康を守るため祈願したと伝えられている。以来「楠樹の観音様」として信仰されたが、江戸時代の嘉永4年(1851年)観音堂が火事になり、楠樹に延焼した。幸い観音像は難を免れたが、その後焼けあとから風化が進み、現在では空洞となって尊像を見ることはできないと説明されていた。楠の樹齢は1200年とされている大きな樹だ。
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 「横辺田代代官所跡」がある。ここは遺構は残っていないが樹齢300年、樹高14m、幹回り3mという大きな椋が立っていた。
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 「福母地蔵板碑」がある。これは応安6年(1373年)に造られたもので、南北朝から室町時代に北九州各地で数多くの地蔵板碑が作られたが、この地の地蔵はその中でも古いものに属し、佐賀県下では最も古いものということだ。南北朝という乱世のもとで数多くの悲惨な犠牲になった人々の霊を弔うために作られたものである。
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 焼米宿がある。ここは船運に恵まれた船津で旅籠や船宿など十数件の店がある庶民の宿場であったと記されているが、ここも久保田宿と同様に長崎街道の資料には宿場としては記載されていない。
 「追分六地蔵」がある。この追分は塩田道と伊万里・平戸道との分岐点にあたり、伊能忠敬の「測量日記」には文化9年(1812年)9月17日の記事に分岐点に丁石があったことが記されている。追分観音堂があり、境内には元禄12年(1569年)の銘がある石造六地蔵塔や十三仏などがある。
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 「十三塚」がある。これは十三仏信仰の遺蹟として室町時代に建立されたもので、中世において現在の北方町一帯を支配していた橘渋江氏の終焉の地とされている。竜造寺氏との戦いに敗れた橘渋江氏一族百余名が、ここ十三塚で亡くなったことが「水江事略」という古書に記されているそうだ。また江戸時代の記録によると、諫早一揆の際、亡くなった村長5名を祀ったという供養地蔵尊が現在でも残っている。
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 「稲主神社」がある。京都御所守護の要職にあった源頼茂公は、鎌倉幕府第三代将軍源実朝が殺害されたので、肥前国北方郷追分の里に木ノ元氏と名前を変えて隠れ住んでいた。あるとき盗難があり、木ノ元氏が疑われたので、自らの潔白を証明するため、幼児7人の腹を割き、最後は自らも切腹して果てた。その後郷内に頻繁に災厄が起こったので、稲主神社を建立し木ノ元氏の冥福を祈ったという。
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 北方宿は本陣跡が残っている。
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 ここでカウントする。
16時36分 北方宿本陣跡を通る。
小田宿から2時間14分、
13521歩、9.8km。

 追分石のところから左に直角に曲がって進み、長崎自動車道の下を通る。突き当たりに火除け地蔵があり、ここを右折して進む。このあたりも新しく道ができておりちょっと迷いかけたが、事なきを得る。朝日小学校のところで左折して享保橋を渡って進むと、前方に特徴のある武雄の山が見えてくる。ここまで来たところでポツポツと雨が降ってきたが、幸いひどくならないうちに歩き終えることができた。雨の中を歩くのはいやなものなので助かった。えんま坂を越えるが、この道は広くて新しい。ただ車はほとんど通っていない。この道路の横に「阿弥陀仏六地蔵」が立っている。感じとしてどこか他の場所から移設したようだ。
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武雄の市街地に入っていく。
 「夜泣き地蔵」と並んで八並の石塔が立っている。建久4年(1193年)、源頼朝が富士の裾野で催した「巻狩り」に、曽我兄弟は父の仇工藤祐経が参加しいる事を知り、夜の闇にまぎれて忍び込み、無事仇を討つ。しかし陣中で兄は殺され、弟は捕らわれてやがて鎌倉の牢で病死した。十郎の許婚だった大磯の虎御前は黒髪を切り落とし、兄弟の冥福を祈るため善光寺の尼さんになっていたが、佐賀の小城の里に西国一と言われる岩蔵寺が建つということを聞いて、九州に下ってきた。その道中で中国と四国に石塔を立てて二人の冥福を祈り、三番目に建てたのがこの八並の石塔といわれている。その後、虎御前は岩蔵寺で写経と読経の毎日を過ごし、余命を全うしたといわれているそうだ。
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武雄の本陣まであと少しだったが、あらかじめ調べていた武雄駅のJRの時間まで残りわずかだったので、ここから駅に直行する。この線の特急は本数が少なく乗り過ごすとしばらく待たなければならないのだ。

17時59分武雄駅発のJRで帰途に着く。

本日の歩行時間      8時間18分。
本日の歩数          47576歩。
本日の総歩行距離   33.9km.

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