長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年03月07日(金)

諫早~矢上~日見~長崎

晴れ

諫早駅を7時15分に出て一つ先の西諫早駅で下り、昨日歩いた茶屋橋に7時35分に到着する。今日もいい天気だ。
長崎金属工業団地の中を通る。ここは旧道がなくなっているので団地の中の道を歩く。
団地を抜けていくと、長崎自動車道があり、これを横断して歩いていくと左手に建設新聞社という会社があり、右手に「長崎街道赤松坂」という石碑が立っている。ここから右折して山道を下っていく。
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この坂は赤松の巨木があったことからこの名がついたということだ。坂道の保護のため、ぐり石が敷き詰められ、緑陰の中にあって一面の苔が生えていたので「苔の道」とも呼ばれていた。またこの松には太閤手植えの伝説があり、久山、貝津の境界を示すものとして「峠松」の名もあったと説明されている。
「上の茶屋跡」に井戸が残っている。この水で旅人は喉を潤していたのだろう。
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 そのすぐ先に大乗経典六十六部塔がある。六十六部とは全国六十六カ国の国分寺や一ノ宮に法華経を納めるため、諸国を巡る僧のことで、大乗妙典とは妙法蓮華経すなわち法華経の別名のことである。この塔は俗名源左衛門という修道僧が納経を行い、そのしるしとして建立された塔とされている。その横には仏像が安置されている祠が立っていた。
ここを過ぎるとかなり急な坂を上っていく。
 「峠の茶屋跡碑と郡境石」が並んで立っている。石には「彼杵郡喜々津」「高来郡久山」と刻まれている。
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 ここには数軒の集落があった。山の中の集落だ。ここで道を間違ってしまった。直進する道と右側に下る道があり、この道を下ってしまったのだ。耕作をしていない棚田を見ながら九十九折の坂道を下っていく。なかなかいい風景だなぁなどとのんきに思いながら下っていくと、高速道路に突き当たった。地図では高速道路をそのまま横断するようになっているのだが、横断できるような場所がない。ここでようやく道を間違えたと気がついた。地図をもう一度じっくり見直してみると、右折した所を直進しなければいけなかったということに気付いた。元の道に戻るため折角降りてきた坂道を今度は上る羽目になってしまった。間違った道を戻ることは本当にいやなものだし、ここの場合かなりの坂道を上らなければならない。疲れが倍増する。元の場所まで戻るのにすごいエネルギーを費やしてしまった感じだ。
 ようやく本来の旧道に戻り、歩いていくと「清水の祠」がある。この付近は清水の谷といい、湧き水が流れ、どんな旱魃にも枯れることがないと伝えられているそうだ。石祠は文政元年(1818年)の建立で施主は白岩左右衛門と刻まれている。
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 ここは井樋尾峠というところで「長崎街道御籠立場」という碑が立っている。殿様がここで休憩をされたところだという。
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 下っていき、赤瀬家という家の前を通っていくと「御境石」があり、「従是東佐嘉領」と刻まれている。安政5年(1859年)幕府の命により、大村領東泊を天領に繰り入れ、代替地として古賀村を大村領とした。この御境石は、このとき長崎往還の佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境に立てられたことが文献に記されていると説明されていた。ここの道は地図で見ると、赤瀬家の手前を左折するようになっており、通り過ぎた後で見ると細い道がついていた。ただこの道を通ると御境石の前は通らないことになる。P3070168-1
 長崎自動車道を横切って進む。横切る道があるから今度は間違っていない。大丈夫だと一人つぶやく。
 「古賀の藤棚」がある。郷土人形として有名な古賀人形の小川家は中里町のこの地にあり、家の前に大きな藤棚がある。小川家の先祖が農業のかたわら土器と共に人形を作ったのが始まりということだ。
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 寛永3年(1626年)に開基されたという「福瑞寺」がある。ここの庭に「キリシタン墓碑」があるが、これはこの寺開基以前のものといわれている。ちょっと分かりにくい場所にあったが、ちょうどお寺の方がおられたので教えていただきわかった。型は花十字のカマボコ型で、かっては寺の水盤に利用されていたという。旧古賀村一帯はキリシタン墓地があったといわれており、この墓碑はそのなごりといわれていると説明されていた。
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 慶正庵橋を渡る。地図ではこの後、八郎川に沿った道を行くようになっているが、そうすると河川敷を歩くしかない。堤防に沿った道なので新しいし、先まで行くことができるかちょっと疑問が残る道だ。ちょうどそのとき、女性がそこを歩いてきたので道を聞くと、旧道はここではなく、上の道を歩くと教えてくれたのでその道を歩く。結局少し先の長正寺橋のところで、河川敷の延長線上にあると思われる道と合流した。旧道はここから一旦橋を渡り、すぐにまたこちら側に戻るようになっていたが、現在ではこちら側に戻る橋がないので長正寺橋を渡らずに直進する。
 ここにも「従是南佐嘉領」という領境石が立っておりその横に役行者神社があったが縁起は書かれていなかった。
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 清藤橋を渡って左斜めに伸びている道を進んでいくが、ここも高速道路と団地が新しくできたようで道が変わっており、分かりにくかった。幸い犬を連れて散歩している男性がおられたので、その方にお聞きして間違わずに歩くことができた。このように道を聞く人に出会うと非常に助かるが、こういうケースは少なく、誰も人がいないので迷ってウロウロすることが多い。
 八郎橋で八郎川を渡って進むと矢上宿に入る。
 「矢上神社」がある。ここは長崎では最も古い神社で、矢上という地名の起こりとなっている。古くは大王社と称された厄除災難除の神様として名高い。また神仏習合の神社で、境内には神池の中の島にある四面佛塔をはじめ地蔵尊や馬頭観音がある。P3070181-1
 ここから少し先に「矢上八幡神社」があり、その参道に大きな楠が両側に立っている。この木は幹周りが12.6mもある県内で2番目に大きな楠で、市の天然記念物に指定されている。この神社は寛文7年(1667年)建立の歴史のある神社だが、この木はそれ以前からあったと説明されていた。
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 「諫早領役屋敷」がある。
これは長崎開港につれ佐賀藩主、諫早藩主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理などが頻発したため、ここに設けられたということだ。
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 矢上宿も本陣跡等がないためここでカウントを行う。
11時27分、矢上宿を通る。
諫早宿から4時間38分、24970歩、15.9km.

このすぐ先に矢上番所跡碑が立っており、その横に番所橋が架かっていた。
 「日見腹切坂」がある。
 熊本細川藩の家臣が、日見の豪士つづれ組の高名を聞き、剣術の試合を挑んだが、不覚にも敗れてしまった。このことを無念に思った武士は、「武士の面目相立ち申さず」といって、この坂あたりで切腹してしまった。村人は哀れに思い、この武士を丁重に葬ったことから、ここを腹切坂と呼ぶようになった。三基の石碑が立っているが、これは日見宿場にあったものをバイバス工事のため現在地へ移したということだ。
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 34号線沿いにある酒屋の裏の急坂を下ったところに、日見の宿跡の碑が立っている。
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 ここでカウントする。
12時6分、日見宿を通る。
矢上宿から39分、3012歩、2.2km。

この碑の近くで昼食を取り出発する。終点までもう少しだ。
日見継ぎ場跡の看板が立っているが、今は田川歯科となっている。ここを右に見ながら直進し、突き当たりを右に曲がって進む。道は坂道になってくる。いよいよ長崎街道最大の難関といわれた日見峠に差し掛かってくる。
ところがここも道が分かりにくい。坂下公民館のところあたりを直進する旧道があるようだがわからず、日見新道というクネクネと曲がった道を歩く。更に地図にはない高速道路が上を通っている。
 おじさんがいたので道を聞き、歩き始めるが、すぐにまた道が3本に分かれていてどれを進めばいいのかわからない。地図を見ても道は2本しか掲載されていないので、1本は新しい道なのだろう。迷っていると先ほどのおじさんが下のほうにいたので、再度声をかけて聞いてみた。そうすると真っ直ぐ進めばいいという返事。ところが真っ直ぐの方向に2本の道が平行に走っていてどちらに進めばいいのかわからない。それでおじさんにこの2本の道のどちらですかと聞き、ようやく右側の道を行けばいいとわかった。
 うるさい奴だと思われただろうが、このおじさん、とても親切に教えてくれた。感謝。
 道を上り34号線を横切り、高速道路の下にあるトンネルを通って先に進む。ここもクネクネと曲がりくねった道を上っていくと、「芒塚句碑」が三基立っている。これは芭蕉の門人であった向井去来の句碑で、天明4年(1784年)に去来の門人達が建立したものだ。正面の句碑には去来が長崎を離れるにあたって、見送りに来た人達に詠んだもので、「君が手もまじるなるべし花薄 去来」と刻まれている。
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 ここから日見峠へと入っていく。
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 ここは長崎街道で最も急峻な坂道として知られ「西の箱根」といわれた峠だ。浜口鉄工所と看板のかかった建物を左に見ながら進み、左手に観音堂、右手に太管工業の跡(地図には太管工業と書かれていたが、今は建物だけが残っていて看板等はなく営業をしていないようだった)まで来る。ここから道が二手に分かれており、一方は太管工業の横から下に下る階段があり、もう一方は直進する舗装された道だった。ここでも迷い、近くにいた工事をしている人に聞くと、「自分はこの近くの人間ではないので良く分からないが階段を下るのではないですか」という。
 それで階段を下り始めたとき、下からこの近所の方らしきおばさんが上ってきたので再度聞くと、「旧道は舗装されている道を直進するのですよ」といわれた。地元の方のようなので、その言葉を信じて上に戻り、舗装された道を直進する。ここも木々に囲まれた気持ちのいい道だったが、再び分かれ道がありどちらに進めばいいのかわからない。
 困っていると車で通りかかった男性の方がいたので、手を上げて車を止めていただき聞くと、「旧道はもっと下のほうを通っている。これから右に降りていけば34号線に出るのでそれを更に突っ切っていくと旧道に出ることができる」と教えていただいた。言われたとおりに急な坂道を下っていくと34号線があり、「御手水」という信号があった。これを横切って更に進むと、旧道と思える道に合流したのでこれを歩いていく。
 やがて前方に本河内高部貯水池が見えてきたので、ようやく道が間違っていないことに確信を持つことができた。この時点ではやはり太管工業の横の階段を下りるのが旧道だったのだろうと思ったのだが、この後、別の資料を見てみると、私が歩いた道が旧道となっている資料があった。結局どちらが本当の旧道なのか現時点でも分かっていません。
 34号線に沿って歩いていくと横に下るところがあり、そこを降りていくと「蛍茶屋跡」があった。
 ここは文化文政のころ(1804~1829年)、甲斐田市左衛門によって茶屋が始められたところで、蛍の名所だったことから蛍茶屋と呼ばれたそうだ。
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 一の瀬橋を渡って進むと蛍茶屋という市電の停留所がある。ここが終点のようだ。ここで又道を間違えてしまった。ここからそのまま直進してしまったのだ。どうにも地図読みがへたくそだ。我ながらうんざりしてしまう。
「古橋」を目指していたのだが、通った橋の名前を見ると「中川橋」となっている。またやってしまったな!と思って右横を見るといかにも古橋という感じの橋が架かっている。そこまで行ってみるとやはり「古橋」だった。
この橋は承応3年(1654年)に架けられたもので、旧名を中河橋といい、長崎街道の玄関橋であった。この橋は布石(アーチ型の補強用石)に独特の技術が施されており、当時の高い技術力を示しているとされている。
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 橋付近の石畳は元亀2年(1571年)の長崎開港より3年前の清朝時代の江南風舗装のエキゾチックなもので、「坂の長崎いしだたみ」の最古の風情であると説明されていた。
 そこからまた逆に歩いてどこで間違ったのか調べてみた。そうすると蛍茶屋の電停のところにでた。電停の横に長崎電鉄蛍茶屋営業所がありそのすぐ先にある杉谷タバコ店との間の小さな階段が旧道への入り口だったのだ。
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 ここから再び戻って旧道を歩く。
ここはシーボルト通りとなっており、かなりの賑わいのある商店街だった。桜町小学校のところにサントドミンゴ教会、末次平蔵宅跡の碑が並んで立っていた。
 「東京、長崎間郵便線路開通起点之跡碑」が立っていた。郵便線路はそれまでの飛脚に代わる信書の運送方法で、明治4年に東京ー長崎間が開通し、明治5年ほぼ全国に開通した。この郵便線路は東京ー長崎の場合、東京から東海道、山陽道、西海道の各宿駅をリレーされたもので、それまでの飛脚便の190時間を一挙に95時間に短縮されたという。
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 いよいよ終点だ。ここは今は長崎県庁が立っており、長崎奉行西役所跡、海軍伝習所跡、イエスズ会本部跡の看板が立っているのみで遺構は全く残っていなかった。
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15時15分 長崎に到着する。
日見宿から3時間9分、14864歩、9km。

これで長崎街道を踏破することができた。今回は途中まで日帰りの旅だったので楽ではあったが、それでもこうして無事長崎まで歩き終えることができるとなんともいえぬ達成感がある。
 終点から出島はすぐそこだったのでいってみる。橋を渡ったところが出島オランダ商館跡だった。
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 やはりなんとなく異国情緒を感じるところだ。
一応見学して長崎駅へ向かおうと思って歩いていると、電車通りがあったので電車に乗ろうと思い立った。
電停は大波止、ここから二つ先の電停が長崎駅前なのですぐ近くだったが、それでも乗ってみた。しばらく待って電車が来たがこれが超満員。いつもこんなに混んでいるのだろうか。それともしばらく来なかったので混んでいるのかはわからなかった。電車賃は100円。安い!

16時30分長崎駅発の特急で帰途に着き、小倉駅には18時40分に着いた。
いつも思うことだが交通機関の早いこと。8日間で歩いた距離をわずか2時間10分だ。便利な世の中になったものだと今回もつくづく感じた。

本日の歩行時間     7時間40分、
本日の歩数        39848歩(長崎の終点まで)
本日の総歩行距離    25.2km。

今回GPS機器に歩いたキロ数が出ることがわかったので、それを参考にしてHPに記載していました。しかしどうも多めに表示されるように感じたのでGPS管理用ソフトのMapSourceにデータを落して調べてみると、やはり実際よりもかなり多く出ていることが分かりました。そのため遡って距離情報を修正しています。「総歩行距離」は間違って歩いた部分も含んだ距離、また宿場間の距離は間違った部分をできる限り削除して間違わずに歩いた場合の距離を計算しています。

長崎街道合計
総歩行時間      65時間3分
総歩数        359001歩
総歩行距離     243.9km。
宿場間距離合計  234.8km.。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん