長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年03月06日(木)

千綿~松原~大村~諫早

                                    晴れ

 JR大村駅を7時1分に出て千綿駅に着き、昨日歩いた場所まで戻る。
大村側から見るとJR千綿駅の少し先、武雄側から来ると千綿駅の手前に小さな橋があり、ここを左折して行くと34号線に出、これを横切って坂道を上っていく。
 右手に千綿中学校があり、そこから下り坂になっていく。中学校を通り過ぎてすぐのところに右折する道があった。なんとなく旧道の雰囲気を残している道だ。直進する先にはまだ新しい感じの道が通っている。ちょっと迷ったが、旧道と思える道を歩き始めるとすぐに二階建ての家があり、そこの二階でオバサンが布団を干していたので「長崎街道はこちらですかぁ~?」と聞くと「そうですよ~」という返事だったので、そのまま進んで道を下っていく。
 下り終えると大村湾に突き当たるのだが、あきらかに地図とは異なるところに出た。困ったなと思っていると小学生が何人かまとまって歩いてきている。朝の登校時間帯なのだ。地図に「江の串」というバス停が記載されていたので、その場所を聞くと左側に行けばあるという。その言葉に従って進んでいくとバス停があったが、その近くで明らかに旧道と思えるような道が左側から34号線に合流している。ここに出るのかと理解して同時に考えた。今日は昨日より出発が一時間半ばかり早い。それにまだ歩き始めたばかりで疲労もない。よし!ここから逆に道を辿ってみよう。そのまま旧道を上って行くと、先ほどの中学校のすぐ下、新しいと思った道を直角に横切ったところにでた。しかも迷った場所からほんの5、6m下がったところに長崎街道の表示板まで立っていた。「あと何歩か下って確かめておけば間違わなかったのに・・」と思ったがもう遅い!一応道を確認したので今来た道を引き返し、先ほどの34号線まで戻る。この間約20分ほどを無駄にしてしまった。
 この道の途中に平原一里塚跡碑」が立っていたが、遺構は何も残っていなかった。
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 江の串のバス停のところから34号線を右に横切って旧道を進み、江の串橋のところから再び34号線を今度は左に横切って旧道を歩く。畑の中、ちょっと小高くなっているところを34号線に平行して旧道が通っているが、ここは完全なあぜ道だ。34号線の向こう側にJRの線路、そしてその先は海が広がっている。
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 才貫田のところで地図を見ると、旧道は左のほうへ延びているのだが、その先は道がないようなので一旦34号線に下り、才貫田のバス停のところからしばらく34号線を歩く。
 餅の浜踏切でJR線路を横切り海側にでる。松原漁港を右に見ながら進むと墓地があり、そこに3基の自然石でできた墓がある。相撲取りの墓と説明されており、墓石には「大荒鷲岩」「秀の川」などの四股名が刻まれている。年代を見てみると慶応3年、明和7年と刻まれており江戸時代後期のもののようだが、どのような力士なのかは分かっていないということだ。
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 松原宿に入ると「旧松屋旅館」がある。ここは江戸時代休憩所として使われ、更に明治、大正、昭和の40年まで旅館として使われていたということだ。丁度お雛様の時期ということで、3月6日から4月6日まで雛祭りが行われており、土日に開館しているということが書かれていた。二階の戸が開いており、下から雛段の一部を見ることができた。
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 松原宿は本陣や脇本陣はなかったそうで、庄屋の跡が松原小学校になっているということだったので、ここでカウントする。
9時21分松原宿を通る。
彼杵宿から3時間18分、16882歩、9.9km.

 大村純忠の重臣として活躍した長崎甚左衛門の弟で、玖島城の築城奉行だった「長崎惣兵衛の墓」が立っており、大正時代に下久原からここに移転したと説明されていた。
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 少し先から34号線に合流するが、ここからしばらくは一直線の道路だ。北海道を歩いたとき札幌と旭川を結ぶ日本一長い直線道路、国道12号線のことを思い出す。

 原口一里塚の碑が立っていたが、これも碑だけで遺構は何も残っていない。
 しばらく34号線に沿って歩いていくと、右側少し入ったところに「首塚」がある。天文18年(1549年)日本にキリスト教が伝わり、各地に布教が行われた。大村では藩主大村純忠が日本初のキリシタン大名になり、領内の布教を支援したため、領内はキリスト教一色になった。しかしその後キリスト教は禁止され、大村藩でも同様に禁止されたため、領内に信者はいなくなったといわれていた。ところが郡村を中心にして、キリシタンがいることが明暦3年(1657年)に明るみに出たため、長崎奉行が大村藩を捜索し、603人が捕まるという大事件になった。このうち131人が放虎原で処刑され、信者の首は見せしめとして獄門所に約一ヶ月間さらされた。当時はキリシタンの妖術で首と胴がつながって復活すると思われており、このことを恐れて別々の場所へ埋められ、首塚、胴塚として伝えられていると説明されていた。
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 「胴塚」も首塚から少し先の街道から入ったところにあった。ただ像は見えているのだがそこに行く道が分からず、とりあえず駐車場のようなところがあったので進んでいくと民家の庭だった。オバサンが洗濯物を干していたので断りを言うと気持ちよく通る事を許してくれた。街道を歩いていることを話すとすごいですねぇと盛んに感心していた。
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 更にもう少し先に「獄門所跡」があり、ここにはマリア像が立っていた。
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 それにしても宗教に命を懸けるということは自分には考えられないことだ。もともと信心などとは縁遠いが、もし仮に何かを信じていても、命をとるといわれれば簡単に改宗してしまうだろうなと思った。そう思いながらなぜか脈絡もなくオウム真理教のことを思い出した。
 いずれにしても本来ならば人を救い安らぎを得るためにあるはずの宗教が、歴史を振り返ってみるとなぜか血を流すということを繰り返してきている。大いなる矛盾を感じる。
 「観音寺跡」がある。ここはもとは彦山大権現の神宮寺で円満寺神宮寺といっていたが、16代領主大村純伊の時建て替えて観音寺と名を改めた。しかし天正2年(1574年)キリシタンの焼き討ちにあい焼失してしまった。江戸時代に入りキリシタンによって破壊された社寺の復興が行われる中、寛永10年(1633年)この地に3代藩主大村純信が庵室を建て、寛永14年(1637年)彦流山観音寺を再興したと説明されていた。今は空き地になっているがキリシタンとの激しい戦いの跡が偲ばれた。
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 長崎街道大村宿水主町口の碑が立っている。
 ここは大村藩の出入口で、水主(カコ)町口と呼ばれていて石垣が築かれていたそうだ。水主とは船乗りのことで、彼らが住んでいたので水主町と呼ばれているという説明がなされていた。
 大村宿に入る。ここは今はアーケード街になっている。食堂があったので早速入り昼食を食べる。
食べ終わって出るとすぐ先に大村宿本陣跡の碑が立っていた。
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 ここでカウントする。
12時24分、大村宿本陣跡を通る。
松原宿から2時間56分、13197歩、8.6km.

 左手に「野田神社」を見ながら進む。
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 このあたりは大掛かりな道路工事が行われており、地図とは大分雰囲気が異なっている。新しくできている道路に沿って歩いていく。右手に国立中央病院がある。地図にも掲載されているので間違いはない。新しい道路は真っ直ぐに伸びているので病院を右手に見ながら進むが、どうも地図とは異なる。地図では途中から左折するようになっているのだが道はかなり先まで直進しており、突き当りにはコンクリート工場のようなものが見える。おかしいと思って再度国立病院の手前まで戻り、近くにあったお店に入って道を尋ねる。おばさんが出てきて「このあたりはすっかり変わってしまったからねぇ」と言いながら旧道を教えてくれた。交差点の先、左側に坂を上る道があり、それが旧道だというのでその道を歩く。坂を上ると一転今度は急な下り坂だ。そのまま道なりに進むと、直進する道と右折する道に分かれる。直進する道はショベルカーがうなりを上げて道路整備をしており新しく道を造成しているような感じを受けた。ここでも迷い工事をしている人に道を聞いたがわからないという返事。少し右折した道を歩いたがなんとなく地図とは違うようなので元に戻った。丁度そこに前の家の人が出てきたので道を聞くと直進して坂を上っていく道だと教えてくれたのでそのまま進む。
 山道を上りその後下ったがここも分かりにくかった。それでもなんとか迷いながら歩いていくといよいよ道は「鈴田峠」に入っていく。ここの上りもかなり急な坂できつかった、これまでの長崎街道は平坦なところが多かったので余計きつく感じたのかもしれない。この鈴田峠は大村藩、佐賀藩、諫早藩の藩境になっていたところで、長崎街道の中で最も昔の姿を残していることから「歴史の道100選」に選ばれたということだ。だ~れもいない山の中、杉林の中を一人黙々と歩く。気持ちがいい。
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 「風観岳支石墓群」がある。
大きな石の形が習字に使う硯に似ていることから、このあたりの地名を硯石と呼ぶそうで、この石のことを別名「弁慶の足形石」とも呼ぶそうだ。このあたり一帯は縄文時代後期の支石墓が点在する墓地の跡だったということだ。支石墓は九州西北部に集中分布していて、朝鮮半島南部の墓制に似ていることから、稲作を日本に伝えた渡来人の墓地と見られているそうだ。
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 ここから先しばらく行ったところに「大渡野番所跡」があった。まだ石垣の一部が残っていたが、こんな山の中に番所があって、そこに勤める役人はどのような生活をしていたのだろうか、毎日通っていたのだろうかなどと考えながら歩いた。
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 やがて下っていったところに破籠井のバス停があった。ここからは平坦な道に戻る。

 「岩茶屋跡」がある。
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 ここでカウントする。
16時12分、永昌宿を通る。
大村宿から3時間48分、19013歩、11.1km。

この後追分石跡や永昌問屋場跡と地図に書かれた場所まで来たが、遺構も標識も何もなかった。
今日の泊まりは諫早駅の近く。この場所の近くなのだがまだ時間が早いので、もう一踏ん張りしてJRの一つ先の駅である西諫早駅まで足を伸ばすことにする。
 長崎県立農業大学の横を進み、佐代姫橋を渡ると総合農業試験場がある。その少し先に「お馬ノ水の碑」が立っており、横に祠がある。街道を通行していて馬に水を飲ませた場所だという。
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16時58分、茶屋橋のところまで来たので今日はここまでとしJR西諫早駅まで行き一つ前の駅諫早まで戻る。

本日の歩行時間   9時間36分。
本日の歩数      47679歩。
本日の総歩行距離  32.5km。

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