長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年03月05日(水)

武雄~塚崎~嬉野~彼杵~千綿

                                    晴れ

 6時20分に家を出て7時5分小倉発の新幹線に乗る。
駅を出ると間もなくトンネルに入るのだが、これを抜けると周囲が白くなった。筑豊地方は雪が積もっている。まるで川端康成の「雪国」の書き出しのようだ。駒子のような女性に会えるのかな?博多近くまで来ると雪は消えたが、博多から鳥栖までの間はまた薄く雪が積もっている。昨夜のうちに降ったようだ。
武雄温泉駅に着き、前回歩いた八並の石塔まで行って8時54分に出発する。

 「諏訪神社」がある。
甲州街道を歩いたときにあった諏訪神社を本社としている神社だ。
ここは13世紀末に、第5代後藤清明の次男共明がその領地八並を与えられ分家、八並に館を定めたとき、守護神として祭ったところだ。
P3050002-1
 このあたりの道には長崎街道の宿場を描いたタイルが張ってある。佐賀から始まって牛津、小田、北方と順を追って長崎まで作られている。これも一つの趣向だ。
P3050003-1
塚崎宿は武雄温泉街の中にある。武雄は1300年ほど前に「おつぼ山」に外敵に備えるための山城が築かれるなど、古代から交通の要所として知られていたところだ。
 ここには言い伝えがある。一つは米守という役人が、桜山の上を飛んでいた白鷺の一羽が湯気の立つ岩の間の流れに足を浸しているのを見た。それを伝え聞いた人たちが温泉場として利用するようになった。
 もう一つは神功皇后が朝鮮半島出兵から帰って養生されていた折、夢で「ここから西の方三日の行程のところに温泉がある。これにつかれば回復が早いでしょう」という神のお告げがあったので有明海を渡り武雄に上陸した。桜山へ行かれ、岩の割れ目を槍の柄で突かれると熱い湯が湧き出したことから「柄崎温泉」と呼ぶようになったというものだそうだ。
 街中を直進していくと、突き当たったところに札の辻の碑が立っている。
P3050006-1
 ここから街道とは逆方向の右へ行くと「本陣跡」がある。ここも碑だけが立っているが、この碑はプレートに書かれている文字が消えてしまって何を書いているのか分からない。
 このすぐ横に大きな門が立っている。国の重要文化財となっている「武雄温泉新館及び楼門」である。これは東京駅を作った辰野金吾の設計による作品で大正5年に完成している。辰野による佐賀県内唯一の建造物ということだ。
P3050010-1
 ここでカウントする。
9時11分、塚崎宿本陣を通る。
北方宿より1時間22分、8735歩、5.8km。

 街道に戻り、札の辻(高札場)の前を通って最初の角を右折すると「善念寺」がある。このあたりを昔は「牛の鼻町」と呼んだ。平安時代の末、若木町に館を構えていた源為朝は、領主助明に頼まれて有田の白川に出没する大蛇を退治した。大蛇のうろこが牛の背に積まれ大宰府に行くためこの道を通ったが、新町の入口まで来ると牛が鼻をついて動かなくなったという。以後このあたりを牛の鼻町と称し、明治になってから新町と呼ばれたということだ。善念寺の石柱には今も「牛鼻山」と刻まれている。
P3050012-1
 しばらく歩いてJRの踏切を渡って進むが、この踏切、本当に渡ってもいい踏切なのだろうか?ちょっと疑問だ。
線路を越えるとすぐそこまで道がきているのだが、ロープで道を遮断している。ただその割にはなんなく渡ることができる。
P3050016-1
中山道の横川駅の近くの踏切を思い出す。ただ旧道はここを渡っているし、先のどこで合流しているのか分からないため、そのまま進むことにする。やがて道は上り坂になり、右手に淵尾ダムが広がっている。淵の尾峠を越えていくが、ここは車の通行量も少なく歩きやすい。静かな山道だ。
 「貴船神社」がある。かなり歴史を感じさせるが縁起が書かれていないので分からなかった。ただ境内には樹齢200年という楠が立っていた。また鳥居には元享元年の文字が刻まれているようだった。元享の年号を調べてみると1321年となっている。もし間違いがなければ相当に古い鳥居だ。
P3050019-1
 やがて土地を造成したところを過ぎるが、建物が全く建っておらず、立ち入り禁止の看板だけが下がっていた。なんとなくバブルの後遺症の臭いがする場所だった。
 ここを過ぎると道は山の中に入っていく。途中茶畑があちこちに存在する。ここは嬉野茶の産地なのだ。きれいに刈られたお茶が整然と並んでいる。今は3月なので茶摘の季節ももうまもなくだ。
P3050025-1
 道は舗装もされていない完全な山道になり、杉林の中に入っていく。杉並木は旧街道の特徴の一つだが、ここの杉は少し若いようだ。昔からある杉ではなく、途中で植林されたものが多いのではないかと思った。
P3050026-1
 山を下って進むと、右手に観光秘宝館という大きな仏像が立っているいかにも賑々しい建物があり、その先の小田志川に架かる長谷橋を渡る。渡ってすぐ右折し最初の三叉路を左折して進むと民家が立っており、道がその家を囲むようにして左右に分かれている。近くにいた人に聞くと、これを左に進むという。道なりに進むと開けたところに出て前を道が通っている。
 手持ちの地図には目印がないため電柱の番号が記されている。「NOヒ773」となっており、これを右折するようになっているが、そこに立っている電柱の番号を見ると「ヒ876」だ。道を間違えたかと思って近くにある電柱の番号を見たが「773」というものはない。どうやら電柱が変わり番号も変わったのだろうと推測した。ここから右折して進むと道は再び山の中に入っていく。ここはかなり深い山の中だ。ただ道は一本道なので間違うことはなかった。
 山を下っていくと広い道ができていて、前方に「老人ホームうれしの」が見える。この道に出たところで左折して下っていくと、突き当たりに新しい追分石の碑が立っており、ここを右折して進むと「明元寺」がある。ここの門は嬉野宿本陣の門で「上使屋の門」という標識がかけられていた。上使屋とは宿場を通過する大名、長崎奉行、他藩の高級武士を宿泊させ接待する蓮池藩直営の建物で、出入りのためそこを通過する門を上使屋の門と呼んでいたと説明されていた。
P3050028-1
 「番号石」がある。これは江戸時代の嬉野の特徴を物語るもので、佐賀本藩と蓮池支藩の境界線上に約二千個の番号石(藩境石)が置かれていたということだ。番号石というものを初めてみたが、石に数字が刻まれており、これ以降も街道筋にいくつも置かれていた。
P3050033-1
 「東溝口の碑」が立っているが遺構は残っていない。
P3050035-1
 豊玉姫神社跡碑の横に上使屋跡碑が立っていた。ここを嬉野宿本陣跡としてカウントする。
13時17分嬉野宿本陣跡を通る。
塚崎宿から4時間6分、21524歩、14.3km。
西構口も碑が立っていたがここも遺構は残っていない。

 しばらく旧道を歩き大野原口のバス停のところから34号線に合流する。このあたりは山側に天保郷村図道が通っているようだが、途中まで旧道は失われているようになっていたので、嘉永絵図道の方を歩く。平野橋のバス停から再び旧道に入り、やがて平野川の渡しを通るところに来ると「長崎街道平野橋渡跡入口」という標識が立っているのでそれに従って左斜めに進んでいく。
P3050045-1
 この平野川は幅わずか五、六間の小川だったが、一旦増水すると渡河に非常な困難を伴なったそうで、その都度地元不動山地区の農民が応援に借り出されたといわれている。
P3050047-1
 ここから坂を上り34号線にでてこれを横切ると狭い階段がある。これを上っていくと茶畑だ。棚田のように段々になっていてかなり広い茶畑が続いている。
P3050050-1
 このあたりの地図は等高線が詰まっているのでかなりの坂を覚悟していたが、やはり急坂だった。足首に不安を抱えている身としてはちょっと気にかかる。ただ高くなるに従って視界が広がり眺めがいい。天気もいいので気持ちがいい。
P3050054-1
 「俵坂番所跡碑と領境石」が並んで立っている。
江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼んでいたので、ここは正式には俵坂口留番所であったそうだ。ここは佐賀、大村両藩の藩境の要地で、特にキリシタンの取締りが厳しく侍1名、足軽9名が監視していたが、明治4年の廃藩置県で廃止されたと説明されていた。また領境石には「従是北佐賀領」と刻まれていた。
P3050057-1
 ここを過ぎると長崎県、昔の大村領だ。道の左手、少し高くなったところに「大村領の領境石」が立っている。
P3050058-1
 右手に釈迦堂があり、この前を通って右手に旧道が少し残っており、駕籠立場跡があると資料にあるが、民家の庭の中に入っていくような感じだったので行くことをやめた。
 菅無田のところは、資料によると旧道は通行困難と記されており、実際良く分からなかったので34号線を歩く。
ただ鳥越一里塚の手前から旧道に入らないと、以降34号線とはかなりはなれた場所を旧道が通っているようなので、旧道の入り口を見落とさないように気をつけて歩く。
 国道の距離を示す「79.5km」の表示版が道の左側に立っており、その少し先に「←長崎街道」というプレートが立っている。このプレートがこのあたりは色々な場所に置かれていた。プラスチックの簡単なものなのだが、これがあったので歩く上でとても助かった。このプレートであればコストもあまりかかるとは思えないし、数多くあればあるほど歩きやすい。大掛かりな石碑等よりもはるかに実用的だと思った。この場所はガードレールの切れ間がないのでこれを跨いで藪道に入り左側の方向へ歩いていく。
P3050061-1
 国道から下りたところは全くの藪道だが、ありがたいことにきれいに刈られており歩くことに困難さはない。「鳥越一里塚跡」の新しい石碑が立っているところを下っていくとやがて舗装された道にでる。
P3050065-1

 大楠跡がある。江戸時代、この地に長崎街道一といわれた大楠が立っていた。多くの旅人がそのことを書き残しているが、その中でもオランダ商館の医師シーボルトは江戸に上るとき、実際にこの木を測り「周囲16.88m、直径5.347m、中は空洞になっていて畳8畳敷きの広さがあり15人が座れる」と記録しているそうだ。この大楠は昔弘法大師が田の畦に杖を突き刺したところ、そこから芽を出し大木になったということだが、明治二十年代後半に樟脳の原料にするため切り倒されてしまった。その跡に一本の苗を植えたところ、その横からもう一本の芽が出てきて今の木になったという説明がなされていた。弘法大師のこの手の伝説は全国いたるところでよく聞く類のものだ。
P3050067-1
 愛宕神社の一の鳥居がポツンと立っている前を通り、長崎自動車道の下を通ると、前方に大村湾が見えてきた。これまで山の中ばかりを歩いてきたのでちょっと感動した。
 「川原千部塔」が立っている。千部塔や万部塔というものが色々な場所に立っているが、これは法華経7万字を信者が集まって1000遍唱えこんだ宝(塔)ということだ。
P3050072-1
彼杵神社があり、そこに本陣跡の碑が立っていたので、ここでカウントする。
16時14分、彼杵宿本陣跡を通る。
嬉野宿から2時間57分、17039歩、12.4km。

 先に進み左折して進むと「本町万部塔」が立っている。千部塔よりも碑が大きい。
P3050080-1
 一本松一里塚碑が立っているが遺構は残っていない。
 右手に大村湾を見ながら進んでいく。天気がいいので海がきれいだ。左手にJRの線路と34号線が平行して走っている。

 17時26分、JR千綿駅に着く。
この駅の前は海だ。線路のすぐ横に波が押し寄せている。丁度大村湾の向こうに夕日が沈みかけている。きれいだ。
P3050091-1
17時50分千綿駅からJRに乗り大村へ向かう。このあたりは泊まることができる宿がないのだ。これまで長崎街道は日帰りの旅を続けてきたが今日からは長崎まで一気に歩くため2泊3日の旅となる。

本日の歩行時間     8時間32分。
本日の歩数        46600歩。
本日の総歩行距離    32.7km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん