長崎街道を歩く

2008年01月19日(土) ~2008年03月07日(金)
総歩数:359001歩 総距離:243.9km

2008年01月28日(月)

黒崎~木屋瀬~飯塚

                             曇りのち雨
 今日の天気予報はテレビでは昼ごろから雨の予報。YAHOOの予報で今日歩くところをみると曇りで雨にはなっていない。いずれにしてもたいした降りにはなりそうにないし、もしひどくなればJRが近くを通っているのでそこから引き返せばいいと思い歩くことにした。
 8時40分に前回歩いた曲里松並木に到着、歩き始める。
この松並木は現在約300mほどが残っているが、昭和20年頃まではここから木屋瀬まで数多くの松並木が残っており、江戸時代後期の狂歌師大田蜀山人がその著書「小春紀行」の中で「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りてまた坂を下りゆけば、左に黒崎の内海(洞海湾)見ゆ」とこのあたりを描写している。
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 途中に大きな石に刻まれた「長崎街道曲里の松並木」の碑が建っていた。
 「幸神の一里塚」がある。五街道の一里塚の起点は日本橋となっているが、長崎街道の起点は門司往還の際歩いた豊前大里に始まっている。
長崎街道開通以前の古道が尾倉・平野・川頭・鳴水を経て、この塚のところで合流していたそうだ。
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 「古街道碑」が立っているところを右に見て行くと、国道200号線に合流する。
右手に八幡工業高校を見ながら進むと、都市高速の引野ICの下を通り、ここから旧道に入る。
「涼天満宮」がある。ここは菅原道真公をお祭りしている神社だが、境内にあった大松の下で旅人が休息したので、この松は「夢想の松」「涼みの松」と呼ばれ、いつの間にか神社も「涼天満宮」と呼ばれるようになった。いまでは松は枯れてしまっているが、ここには次のような言い伝えが残されている。
江戸時代正徳年間(1711~1716年)のある日、長崎の熊部新冶郎という人が、所用で京都に向かうときここで休息し、松の枝にお金の入った荷物を掛けたことを忘れて立ち去ってしまった。翌年新冶郎が帰郷の時再び立ち寄ってみると、荷物はそのまま残っていた。新冶郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したことからこの松の木を「金懸けの松」と呼ばれるようになったと説明されていた。
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 少し先に「やから様」と呼ばれるお社がある。壇ノ浦で破れた平氏一門の乳飲み子をかかえた女御と乳母の3人がここまで逃げのびてきた。これを追ってきた源氏の侍数人が付近を探し始めた。女達は竹やぶに息を殺して隠れていたが、乳飲み子が泣き出してしまい追っ手に見つかったので、もはやこれまでと自害してしまった。この土地の人々がこのことを悲しんでここに祠を建てたということだ。
「やから」という言葉はこの地方で夜泣きやむずかることをいうそうだ。
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 このあたりから国道200号線に再度合流し、しばらくいくとスーパーが右手にあり、ここからまた旧道に入っていき、その後また国道211号線に合流するなど、旧道と国道が入り組んでいる。小嶺ICを右手に見ながら進み、小嶺台2丁目の信号から右折して再び旧道に入って進んでいくと「立場茶屋銀杏屋」がある。
ここは参勤交代の諸大名をはじめ長崎奉行、巡見使などが休憩したところだ。主屋は天保7年(1836年)の火災で焼失後に建設されたもので、庭にある銀杏の大木には、いまもこの時の火災の跡が残っている。銀杏屋は長崎街道に残る「上段の間」を持つ唯一の立場茶屋であると説明されていた。
ここも月曜日ということで閉まっていた。月曜日はどこも休んでいるところが多い。
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 この先に石坂の急坂がある。江戸時代長崎街道の木屋瀬と黒崎の間にあるこの坂は難所だったそうで、下石坂の道は現在階段になっているが急坂は残っている。かってはここから先、小嶺IC付近から山を登り頂上から「アケ坂」という急坂を下り、更に「中の谷」の谷底から上石坂の急坂を登るという難所だったため、大名でさえ駕籠を下りて歩いたといわれていたそうだ。
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 池田小入口の信号のところに「香徳寺」がある。この寺の開祖存道上人は文禄の役(1592年)で肥前名護屋へ赴く途中の徳川家康に十念(南無阿弥陀仏を十回唱えること)を授けたといわれているそうで、存道上人と徳川家康の因縁を描いた「戒服騎馬の図」が伝えられていると説明されていた。昭和10年にこの地へ移転したというこのお寺の掲示板に「延命を祈るうちにも減るいのち」という言葉が書かれたものが掲示されていた。
なるほど、なるほど。。。
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 「茶屋の原の一里塚」がある。八幡西区内には幸神・小嶺・茶屋の原・六本松(旧木屋瀬村はずれ)に一里塚があったが、小嶺と茶屋の原との間は一里に満たず、六合道を呼ばれていたそうだ。これはアケ坂、石坂など険しい坂道を配慮したものといわれているそうだ。松と椎の木が植えられていたそうだが今は何も残っていない。このあたりの旧道も昔の雰囲気を残しているが、通りは閑散としている。
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 「木屋瀬宿」に入る。江戸あかりの民芸館という昔を偲ばせる建物があるが、今日は月曜日ということで休みだ。
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 街道から少し入ったところに「永源寺」がある。ここには木像聖観音立像がある。この像は鎌倉時代の作と推定されており,胎内に収められている木札の墨書銘や光背の陰刻銘によって、木像が元禄11年(1698年)と享和3年(1803年)に修理されていることがわかっているそうだ。この寺は大永3年(1522年)にこの地に移ったそうで、ここの裏門は木屋瀬宿本陣の門で明治3年(1870年)本陣廃止にともない永源寺の正門として移設され、更に大正12年(1923年)にここに移されたと説明されている。
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 木屋瀬宿は昔の宿場の雰囲気が色濃く残っている。赤い煉瓦塀で囲まれた郡内の村役人と藩の役人の集会所である郡屋(家)の跡がある。
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 「問屋場跡(野口家」)がある。人馬継ぎや飛脚・荷物を取り扱うところだ。仕事上、問屋場の前は広場になっており、道路幅も他が5mほどであったのにたいし、7.5mと広く、また水害に備えて宿内で一番高い位置にあった。最後の問屋は野口家で明治4年(1871年)木屋瀬郵便取扱所開設のとき野口家が初代の郵便取扱人となっている。
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 みちの郷土資料館や木屋瀬記念館があるが、いずれも月曜日ということで休館日。中を見ることができなかった。
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木屋瀬宿本陣跡を通る。
11時28分。
黒崎宿から2時間59分、
18880歩。12.7km。
 「村庄屋跡(松尾家)」がある。木屋瀬には村庄屋、宿庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は村全体を統括していた。松尾家は屋号を灰屋と称し問屋役・人馬支配役・村庄屋などを務めた。この建物は江戸時代末期の建築で木屋瀬を代表する町家の一つであると説明されている。
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 「西構口跡」がある。構口(カマエグチ)は宿場の出入り口にあたり、道路と直角に石垣を組み、その上に練壁を築いたもので扉は設けられていない。構口は参勤交代が制度化された寛永12年(1632年)以降宿場が整備されていく過程で設けられたもので、上り方面を東口、下り方面を西口としていた。木屋瀬は東口は残っていないが、西口はまだ一部残されている。
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 西構口のすぐ外側に元文3年(1738年)の銘が刻まれた追分道標がある。「従是 右赤間道 左飯塚道」と刻まれた新しい碑だが、実物は郷土資料館に移されているということだ。
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 やがて道は遠賀川沿いの道にでる。右側に遠賀川を見ながら進むのだが、この道は歩道がなく交通量は多い。すぐ横を車がすごい勢いで通り過ぎていく。さすがに怖い。仕方がないので途中から川原に下りて歩く。それにしても歩道がない道を歩くのはいつものことだが怖いものだ。この道は歩行者が通ることは全く想定されていないようだし、現実に誰も歩いている人はいなかった。
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 堤防の道から下りて感田方面へいくところで道に迷ってしまった。困ったなと思いながら歩いていくが、誰も人がいないので道を聞くこともできない。地図は筑豊電鉄感田駅の前を通るようになっていたので、「チンチン」という電車の音を頼りに歩いていくと人に出会った。長崎街道の道を聞くと、自分はこの近くの人間ではないのでわからないという。それじゃ、感田駅は?と聞くと教えてくれたのでその道に進むと左手に「旧長崎街道感田村」という看板を掲げた建物があったのでようやく確認することができた。
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 この建物のすぐ横に「柴田丹兵衛墓」がある。享保18年(1733年)参勤交代の帰路木屋瀬宿まできた肥前島原藩の一行は、大雨による増水のため川を渡ることができなかった。滞留すればそれだけ経費がかさむので、家臣だった柴田丹兵衛が渡る事ができる浅瀬を見つけようとして瀬踏みをしているうちに川に流され、遺体が感田に流れ着いたので土地の人たちがそれを悼んで墓を立てたという説明がなされていた。
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 ここからすぐ先に筑豊電鉄感田駅があり、踏切を渡って遠賀川に沿って進み日の出大橋を渡ると直方市街地に入る。このあたりまできて雨が降り始めてきた。テレビの予報は当り、YAHOOの予報は外れたことになる。
12時40分になっていたので近くにあった食堂に入って昼食にする。ほぼ予定通りの時間に直方まで来ることができた。最低でもここまでは歩きたかったので一応の目標は達成だ。
黒崎宿から4時間11分。
これ以降は雨がひどくなればその時点で引き返すことにする。
 街道の少し先に「円徳寺」がある。円徳寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、現在の本堂は明治42年、炭鉱王・貝嶋太助氏が、京都の東本願寺御影堂を手掛けたことで知られる宮大工・九世伊藤平左エ門氏を招いて建てたということだ。
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 ここから戻って古町商店街に入っていく。直方の商店街はかなり長いアーケードがあるが、月曜日の昼間とはいえ人通りが少ない。というかほとんど人がいない。炭鉱が全盛の頃はここも繁盛していただろうと時の移り変わりを思う。アーケードの途中に西日本シティ銀行の支店があるが、店舗統合で閉店の張り紙が出ていた。この建物のところに直方西構口の表示板が建っていたが、遺構は何も残っていなかった。
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 ここから右折していくと「多賀神社」がある。ここの鳥居は宝永年間に作られたと刻まれている。この神社の創建は定かではないが相当に古く、神社に所蔵されている古縁起によると、「古事記」に記されている日本を誕生させたという伊邪那岐大神・伊邪那美大神を祀っており、黒田直方藩5万石の産土神として栄えた神社だ。
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 多賀神社の先JRの線路の向こう側に直方市石炭記念館の看板が見える。かって炭鉱で栄えた時代の頃のことが展示されているのだろう。
 第一岩鼻踏切を渡ってJR線路を越え、少し行くと第二岩鼻踏切がありその横に「庚申塔」が立っている。
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 踏切を再度渡って行くと左手にJR勝野駅が見え、街道から少し入ったところに「勝野庚申塔」があり新しい長崎街道の碑が立っていた。
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 「南良津唐戸」がある。昔から遠賀川は雨期になると洪水を繰り返し住民を苦しめていたので、黒田藩は寛永6年(1629年)に堤防を築く工事を始めた。この南良津唐戸の川上に面した中央の石柱は回転する仕組みができていて、洪水の際には流れ下るちり、あくたなどをうまく下流に流すことができたそうだ。
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 小竹町に入る。ここも長崎街道の碑が何箇所か建てられていて御小休処まであった。昔の雰囲気を残している街並みだ。
「郡境石」がある。
新しい碑の後ろに昔の碑が残されている。それには「従是鞍手郡」と刻まれていた。
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 「伊藤伝右衛門の屋敷」がある。この建物は筑豊の著名な炭坑経営者であった伊藤伝右衛門の本邸として明治30年代後半に建造。大正初期、昭和初期に数度の増改築が行われている。
 高い塀に囲まれており、昭和2年に焼失した福岡市天神町にあった別邸(通称銅御殿)から移築された長屋門が目を引く。邸宅は南棟(正面)、北棟(庭側)、両者を結ぶ角之間・中之間棟、玄関・食堂棟、繋棟の家屋5棟と土蔵3棟からなり、池を配した広大な回遊式庭園を持つ近代和風住宅だ。
 また、柳原燁子(白蓮)が伝右衛門の妻として約10年間を過ごしたゆかりある地でもある。
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 ここまで来ると飯塚宿ももうすぐ。JR新飯塚駅まで徒歩30分ほど・・・のはずだったが、この後道に迷ってしまい結局一時間以上かかってしまった。直方に着くころから降りだした雨は強くはないものの間断なく降り続いている。すぐ横を通る車が巻き上げる水しぶきを浴びながら歩いているので、持っている資料もこのあたりに来ると濡れてグチャグチャになっており見にくい。城石歯科の前を左折して国道200号線に再度合流し、歩道橋を渡って金澤外科のところから右斜めに入って東川津の信号のところまで間違わずに来た。この先に地図ではシャトー水江という建物が建っており、それを右手に見て進むようになっているのだが、前方にシャトウー第2水江というビルが建っている。ここでシャトウー水江という別のビルがある(第2があるのだったら第1かあるいはそれに類するビルがあるはずだ!)と思って、それを探して第2ビルを左に見て進んでしまったのだ。これが間違いだった。しばらく歩いたが、どうもおかしいのでガソリンスタンドの人に聞くと間違っていることがわかった。
 ここから引き返して元に戻り、もう一度歩きなおしたが、今度は水江交差点のところで又わからなくなってしまった。地図が雨で濡れてよく見えないのだ。ここでもしばらくウロウロしてようやく道がわかり進むことができたが、えらく時間をロスしてしまった。やがて右手にオランダ屋敷跡の碑が立っている場所に来た。
ここまで来るともう大丈夫だ。
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 更に進むと「飯塚宿北構口の碑」がある。
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 ここは飯塚の中心地である商店街のため、碑は残っているものの昔を偲ばせる建物や雰囲気は何も残っていない。
 ここからアーケード街に入っていくと、左手に「問屋場跡の碑」が立っている。ここも同様で碑のみが立っている。
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17時42分に飯塚宿に到着する。

木屋瀬宿から6時間14分、34518歩、21.6km。
資料ではすぐ先に中茶屋跡があるようになっているので探したがそれらしきものがない。
中茶屋コミュニティセンターという看板があったのでそこに入って聞いてみると、中茶屋の標識はないということだったのでここで今日の歩きを終わることにする。ここからJR新飯塚まで余り離れていないようだったが、道はわからないし雨も降り続いている。周囲は暗くなっているのでタクシーに乗ったがわずか一区間の距離だった。
駅に着くと18時12分の電車があったのでそれに乗って折尾まで行き、そこから乗り換えて八幡駅に着いたのが丁度19時だった。本格的な日帰りの旅は今日が初めてだったが、荷物が少ないのでとても楽だった。歩行距離はかなり出ているのだが、それほどの疲労は感じない。ただ当日はそう感じなかった足首は、さすがに翌日以降影響がでてきているが、それでも以前に比べると随分回復してきている。奥州街道を歩く予定にしている春までには何とか完全回復させたいものだ。

本日の歩行時間        9時間2分。
本日の歩数           51508歩。
本日の総歩行距離      34.7km。

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記録

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かっちゃん
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かっちゃん