日向街道〈豊後道)を歩く

2009年10月29日(木) ~2012年12月26日(水)
総歩数:340834歩 総距離:211.5km

2009年10月29日(木)

大分~犬飼~菅尾

                     晴れ

 7時35分に昨日歩き終えた中央町入口の信号からスタートする。
 パルコを左に見ながら進み、右手に大分金池会館のあるところ、「宮崎 熊本→」という標識が立っている先の信号から右折して、一旦10号線に合流する。左折して右へカーブする10号線と分岐して21号線を進む。
左手に「万寿寺」がある。ここは平安時代初期、百合稚麻呂というこの地域の有力者が娘の万寿姫の菩提を弔うために現在の大分市元町の地に創建したのが始まりとされる。その後衰退したが、徳治元年(1306)に大友貞親が再興。しかし度々兵火や火災で焼失し、寛永年間(1624-1644)竹中重興が現在地に再興したということだ。境内墓地には滝廉太郎の墓がある。
万寿寺 
 大分川に架かる滝尾橋を渡って一直線に進み、その先の七歩川に架かる若宮田橋を渡る。
 加納の信号がある。このあたりは調査でもよく分からなかった場所で、Yahooの地図に日向街道と書かれていたので、それに従って歩くことにしていた。ところが地図では21号線まであとわずかというところで道が途切れており、よく分からない。そのためとりあえず行ってみようと思って加納の信号から右折、すぐ先の二股を左斜めへ進んでいく。このあたりは道があるので、それに沿って進んでいったが、丁度地元の方がおられたので、その先を進むことが出来るかどうかお聞きすると、行き止まりになっているとのこと。仕方がないので元に戻って21号線を歩く。歩きながら右手から旧道が合流するような場所はないか注意をしていたが、21号線は坂を上っており、右手の旧道とはかなりの高低差がある崖で、木が生い茂っており、合流するような場所はなかった。
ガード下を通り、そのすぐ先の明野南の信号で右折して進み、大谷公園の信号を直進する。明野西小学校の手前で左折、直線道路を進んでいく。このあたりは新しい住宅街のようだ。 
 明野中学に突き当たって旧道は失われているので、ここを左折、中学の敷地をグルッと回るように進んで次の信号で左折して進む。この中学校の校庭はかなり広かった。
右手に高尾山自然公園が広がっている。610号線に合流して進み、高尾山入口の信号から分岐して左斜めへ進む。分岐したところにお墓が立っていた。
高尾山入口の信号 
左手に「横尾大分道路開通記念碑」と「日清露戦役記念碑」が並んで立っており、その先に一里塚というバス停がある。このあたりに昔一里塚があったのだろう。
横尾大分道路開通記念碑 
 9時33分にここを通り、その先にある一里塚という信号を左折、すぐ先の信号で右折して進む。
 中尾川にかかる岡原橋、挟間川に架かる挟間橋を渡り、九州自動車道のガード下を通って進む。
 毛井三叉路の信号の少し先から左折、清水川に架かる志手橋を渡り、すぐに左折、川沿いを進んで、二股に分かれているところを右へ進む。
右手少し入ったところに「毛井八幡宮」があり、入口の常夜燈にはそれぞれ天保11年と14年と刻まれていた。
 毛井八幡宮 
左手に「大乗妙典塔」と刻まれた塔があり、その前に石仏が三体並んでいた。「大乗妙典」は衆生の民を迷いから解放し、悟りの世界に導いてくれるという経典のことで、具体的には法華経である妙法蓮華経をさしているそうだ。この経典を読んだり奉納したときの供養、または記念として建てられるのが「大乗妙典の供養塔」ということなので、この塔、及び石仏もそういったものなのだろう。
大乗妙典塔 
 その先突き当たりを右へカーブして進み、197号線を横断する。その先、突き当たりを右折、更にその先を左折して進む。
右手に文化6年(1809)と刻まれた石仏がある。このあたりはこうした石仏が多い。
石仏文化6年 
 その先突き当たりを左折すると前方に東芝の工場が見える。すぐ先の三叉路を右折する。
北鼻川に架かる戸崎橋を渡るが、「マムシ注意!!松小PTA」と書かれた看板が立っている。ここもマムシが多いのだろう。マムシ注意!!松小PTA 
その先で道は二股に分かれており、旧道は右へ行くのだが、左手に「金比羅神社」が見えたので行ったみた。
大きなむくの木があり、天正14年(1586)、島津氏が大友氏を攻めた際、ここ松岡一帯も兵火に遭い、地蔵尊がそれを鎮めるために一働きしたといわれ、この木も兵火をくぐり抜け、近くは度重なる大野川水害の時も地蔵尊をお守りしたと説明されていた。
金比羅神社 
 右にカーブした後、最初の角を左折、突き当たりを左折、すぐ先で右折して進む。右手に松岡保育園が見える。
 その先で車道に合流、右へ進む。成松のバス停があるが、変化に乏しい道が続く。
右手に「大原神社」があり、安政3年(1856)と刻まれた鳥居が立っている。常夜燈には文政の文字がかすかに見える。
大原神社 
 その先で左折するが、横に舟本公民館がある。
 小さな十字路を右折、川沿いに出て左折、大野川に架かる舟本大橋を渡り、右折して川土手に沿って進む。昔は渡しがあったのだろうが、今はないので迂回して橋を渡る。
大野川に併行して小川が流れており、そこにガードレールのついた橋が架かっているので左折してこれを渡って進む。この場所は迂回した延長線上にあたる場所だ。
ここから一直線に道が伸びている。車は時々走るが、人は誰も通っていない。
 しばらく黙々と歩いていると右手に大南公民館があったので立ち寄ってみた。丁度臼杵館長がおられたので、このあたりのことに関して色々と教えていただいた。このあたりは戸次本町といい、古代より大野川沿いの交通の要衝として重視されていた場所で、城下町と対置される在郷の中心として形成された日向街道筋の在町だったということだ。11月7、8日に「大野川合戦まつり」があるということで、そのパンフレット等もいただいた。大野川合戦は天正14年(1586)に戸次川原で長宗我部、十河、仙石、大友の連合軍と島津軍が戦い、大友方が大敗した戦いのことだ。
気持ちよく応対していただいた館長に感謝しながら先へ進むと右手に「妙正寺」がある。ここは文政10年(1827)旧臼杵藩の名工高橋団内23歳の時の作といわれており、名僧小栗香頂、書画家小栗布岳を輩出したところだ。 「小栗香頂生誕之地」という碑が立っている。
妙正寺 
12時17分に「帆足本家」に着く。ここは臼杵藩の大庄屋で豊後南画の大家田能竹田や儒学者頼山陽など多くの文人墨客との親交が深かったという。江戸時代末期から戦前にかけて建てられた歴史的建造物は現在も酒造蔵として活用されている。
帆足本家 
中村交叉点の信号で10号線に合流、その先右手に「戸次川古戦場跡」の碑が立っている。先ほど頂いたパンフレットに載っていた大野川合戦の跡だ。
 戸次川古戦場跡 
大野川水管橋の下を通り、その先の信号から街道は10号線を外れて進む。そのすぐ横、街道から左斜めに少し荒れた坂を上って行き、突き当たりを左へ行くと戸次川原の合戦で戦死した「長宗我部信親の墓」がある。
長宗我部信親の墓 
 ここは意外に時間がかかって、往復で20分ほど要してしまった。今日はできれば三重町まで行きたいと思っていたのでちょっと焦る。
  左手に「成大寺 鶴賀城」の看板が立っていたので行ってみる。成大寺の開基は不明だが、寛弘8年(1011)に佛工定朝が慮舎那佛を刻し安置している。天平2年(1347)より利光氏の香華院として末院六カ寺を有する大寺院だったが、天正14年(1586)の鶴賀城の戦いで全焼した。慶安元年(1647)に再興されたが、昭和27年に寺籍を無くし、現在は利光区の管理となっていると説明されている。鶴賀城主利光宗魚と成大寺住職信庵阿奢利正忠の墓が並んで立っていた。
成大寺 鶴賀城 
10号線に出てすぐ先で左折、坂を上って行くと大塔の集落があり、その中を通っていく。
大塔の集落 
 集落のはずれで道は二股に分かれているが、左へ進む。
 その先筒井の信号で10号線に合流する。
 ここから先、旧道は影ノ木、野津を通っていたようだが、調べてもどうしても分からず、やむを得ず10号線を歩く。
左手が崖、 このあたりは左手が崖、右手は川で歩道がなくて歩きにくい。
660メートルの上尾トンネルを通る。このトンネルは歩道が広くて歩きやすかった。ただトンネル内の騒音はものすごく響く。こんなところに暫くいると難聴になってしまいそうだ。
右手に犬飼大橋を見ながら進む。
野津川に架かる吉四六大橋を渡って少し行くと右手にお店があったので、道をお聞きするとその店の横から右折している道がそうだと教えていただいた。この店の反対側、10号線を横断する形で道があり、そこが野津から来ている旧道だといわれたが、その道が影ノ木まで繋がってはいないようだということだった。
吉四六大橋 
坂を下っていくと、沈み橋があり、渡って左折、更にその先の突き当たりを左折して進むと636号線にでる。
沈み橋 
 ここから坂を上って峠を越える。とにかく昨日からアップダウンが多い。
 坂を上ると台地になっており、一直線に道が伸びている。舗装された道だが、誰も通っていない。時刻は既に16時を回っている。今日中に三重町まで行くのは無理なようだ。
 326号線を横断する形で旧道が伸びており、それを進んでいくと集落がある。
右手に「長念寺」がある。
長念寺 
 三重川に架かる浜川橋を渡る。
左手に「深野神社」の鳥居があり、嘉永5年(1852)と刻まれている。
深野神社 
 326号線に合流、左へ進む。
 右手に深野集会所を見ながら進むと左手に「道の駅みえ」がある。
 そのすぐ横に「菅尾磨崖仏」の案内板が立っており、そのすぐ先から右手へ上る道がある。これが旧道なのだが、時刻は17時25分だ。ここから三重町の駅までまだかなり時間がかかりそうだし、道は山の中へ入っていくようだ。そのため残念だが今日はここまでとして、このまま菅尾の駅まで行き、一旦大分まで戻って、明日再度挑戦することにする。

 17時55分に菅尾駅に到着する。

 本日の歩行時間   10時間20分。
 本日の歩数&距離  63250歩、41km。

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