日向街道〈豊後道)を歩く

2009年10月29日(木) ~2012年12月26日(水)
総歩数:340834歩 総距離:211.5km

2009年11月19日(木)

南日向~美々津~都濃~高鍋

                                    曇り

 日向市駅からJRで南日向駅へ行き、8時10分に出発する。朝の通勤時間帯なのだが、本数が少ない。
ただ日向市駅は新しくてモダンな駅舎だ。
日向市駅 
 歩き出してすぐ右手に「平岩地蔵尊」があるので立ち寄って見た。高い階段の上にあるこの地蔵尊は木喰上人作の「疱瘡神像」があり、天明8年(1788)銘の「勝軍地蔵尊坐像」と寛政3年(1791)に書かれた双鉤墳墨体(筆端を全て剣先のように鋭く尖らせた書き方)による「利剣六字名号」が収められている。木喰上人は天明8年から寛政9年(1800)まで国分寺(西都市)の住職となって滞在し、その間に各地に仏像や神像を刻んで安置していると説明されている。お堂は閉まっていたが、隙間から写真を撮ることができた。
平岩地蔵尊 
 ここは高台にあるので眺めがいい。階段を上る途中に「さぁ頑張って わが体力の試し坂」と書かれた標柱が立っていた。
高台にあるので 
 南日向天使幼稚園を右に見ながら進むと、その先で道は二股に分かれているのでこれを左へ進む。
 すぐ先に「八坂神社」が右手にある。境内に「金ケ浜遺跡」という標柱が立っており、「縄文~奈良・平安時代の遺跡が発掘されており、海岸部の遺跡としては県内有数の規模」と記されている。
金ケ浜遺跡 
 その先で道は二股に分かれており、「←原・飯谷 籾木・鵜毛→」の矢印があるので、ここを左へ進む。
 その先、二股に分かれているが左へ直進、その先で右折して進む。道は山の中へ入っていく。
道は山の中 
 その先も脇道があるが、直進する。坂を下り始めたところに二股に分かれているところがあり、ここから左手の坂を上って行く。
 その先も道なりに進んでいくと、ポツンと一軒の家がある。随分寂しいところに家があるなと思いながら進んでいくと、ここから次第に住宅があるようになる。次ぎに家があるところに突き当たるので、これを右折して進む。
 10号線に合流して右折して進み、耳川に架かる美々津大橋を渡る。大きな橋だが、歩道がなくちょっと怖い。
美々津大橋 
 橋を渡ってすぐに左折すると、美々津の街中へ入っていく。
美々津は日本書紀に描かれる「神武東遷」の地で、神武天皇が東征の際、この地から御船出をされたという伝説が残っているなど、古くから海の交易の拠点として発展をしてきたという。町の背後にある遺跡からは畿内、瀬戸内様式の弥生土器が出土していることからもそのことがうかがわれるそうだ。美々津が港町として成立するのは元禄の頃(1688~1703)からで、秋月氏の領有する高鍋藩在町として集落を拡大、更に明治から大正にかけて最盛期を迎え、「美々津千軒」と呼ばれたが、大正12年の日豊線開通を機に廻船業は衰退していったという。
 現在でも江戸・明治時代の町並みが色濃く残っており、北九州の老人会がバスで観光に来ていた。
美々津 
  「日本海軍発祥之地」碑が立っている。神武天皇御親率の水軍が初めて編成され、進発した美々津の地をかっての日本海軍が「日本海軍発祥之地」と定めて、当時の内閣総理大臣海軍大将米内光政の揮毫で碑を建立した。太平洋戦争終結後、米軍によって碑文は破壊されたが、昭和44年に復元されたという。
日本海軍発祥之地
 「立磐神社」がある。ここは神武天皇が東遷の際、航海の安全を祈念して底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を祀ったことから、景行天皇の御世に創建されたという。天正6年(1578)の大友氏、島津氏の戦いで焼失してしまったが、元和9年(1623)に再興されたという。
立磐神社 
 境内には「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡らして岩そのものを御神体として崇拝している。
神武天皇御腰掛の岩 
 美々津の町を歩いていくと右手に「愛宕神社」がある。
 その先、左手に「美々津道路元標」が立っており、「距宮崎元標拾参里参拾四丁拾参間参尺」「距大分縣管轄境拾五里参拾四丁弐拾四間」「都濃へ弐里弐拾丁拾七間弐尺」「富高へ弐里弐拾九丁参拾参間」と刻まれている。
美々津道路元標 
 一旦10号線に合流、左折して進み、石並川に架かる石並橋を渡る。
 橋を渡ってすぐ、10号線から分岐して右へ坂を上る道があるので、これを上る。
 その先は広い農地になっていてその中を農道が通っているが、目印が何もなく分かり難い。
農道が通 
 コンビニのあるところで10号線に合流し、暫く10号線を歩く。10号線は車が多く、騒音がうるさいし、特に見るものもないので淡々と歩いていく。
 バス停があったので見てみると、宮崎交通は一日に一本、町営の福祉バスが一日に3本だった。
その先、10号線が右にカーブしているところを直進し、都濃の街中へ入っていく。
都濃の街中 
 右手に「都濃神社」がある。ここは初代神武天皇が御即位6年前に大和平定に向かわれる途次に創建された日向一之宮である。天正6年(1578)の大友、島津の戦いで焼失したが、元禄5年(1692)に藩主秋月種政によって社殿が再興され、明治4年に宮崎県で最初の国幣社に列格されている。平成19年に平成の大造営で社殿が竣工しているので建物は新しい。広い境内は一の宮公園となっている。
都濃神社 
 都濃の街中を一直線に進み、その先で10号線に再び合流する。
 その先名貫川に架かる名貫橋を渡り、次ぎの三叉路で左折、旧道に入る。本来旧道は名貫橋を渡る手前から伸びていたようだが、今ではなくなっているので、この三叉路を左折したところから旧道に入り、山の中の道を進む。
 10号線に一旦合流して進み、「宮崎病院」というバス停のところから左斜めへ進み、川南町街中へ入っていく。ここには「トロントロン商店街」とか「トロントロンバス停」がある。変わった名前だなと思って、後で調べてみると、周辺は古くから「出水原」とよばれ、かつて湧き水が多く、小さな滝もあり一日中のどかな水音が「トロントロン」とあたりに響いていたのを地名としたという。また、江戸時代の参勤交代の折の「水飲み場」としてや西南の役に敗れた西郷軍の敗戦の痛手をいやすかのような水音の響きが由来という説もあるという。確かにこのあたりは川が多い。
 平田川に架かる重門橋、中須川に架かる中須橋を渡って進み、10号線に合流する。左手に農業大学校があるが、広いキャンパスだ。
 高鍋町鬼ケ久保の信号で10号線と分かれて直進、鬼ケ久保のバス停のすぐ先で左折する。ここも分かりにくかった。
 その先に「持田古墳群」がある。これは5世紀から6世紀頃にかけて築造されたといわれており、前方後円墳10基、円墳75基が国の史跡として指定されている。その中に「計塚」があるが、これは全長110mの前方後円墳で持田古墳群の中では最も大きな古墳と説明されている。
持田古墳群 
 19号線に合流、小丸大橋を渡り、高鍋自動車学校前というバス停の先で左へカーブする19号線と分かれて直進する。
 左手に「称専寺」がある手前に「庚申塔」が集められている。この石塔は昔は松原町、上町、中町にあったが、度々の火災等のため、位置も変わり、いつのころか称専寺の境内に移されたということだ。色々な形のものがあり、自然石は江戸後期のものが多いという。
庚申塔 
 中央通の信号のところまできたとき、17時になった。当初の予定ではもう少し先まで行くことにしていたのだが、思った以上に時間がかかったので、ここで今日は終わることにする。ここから先はしばらく山の中へ入っていくようなのでアクセスもホテルもないのだ。丁度近くにホテルがあったので予約をし、今日予定していたホテルに電話を入れてキャンセルをする。こういうとき、ホテルだと夕食がないのでキャンセルしやすいので助かる。

 本日の歩行時間  8時間50分。
 本日の歩数、距離 52309歩、37.3km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん