日向街道〈豊後道)を歩く

2009年10月29日(木) ~2012年12月26日(水)
総歩数:340834歩 総距離:211.5km

2009年11月05日(木)

三重町~三国峠~樫峰~宇目

                      晴れ

 今回の二泊三日の旅はGPSが故障していることに気がつかないままに歩いてしまった。帰ってきてPCに繋いでみて初めて記録が残っていないことに気が付いた。前回歩いた時の最後のところで記録が消えていることに気が付いたが、そのときは単純に電池がなくなったのだろう、と軽く考えていた。そのため、今回は歩く前にしっかり充電をして臨んだのだが、故障とは思わなかった。梓峠で大奮戦したのに、その結果が残っておらず、非常に残念です。現在販売元に依頼してデータの回復ができないか修理をお願いしていますが、とりあえず街道の分かる部分を自分で作成して掲載しています。
 9時15分に三重町駅に到着し、駅から直進、3本目の十字路を右折して旧道に合流する。途中若山牧水宿泊の地の看板が立っている。それによると明治35年延岡中学生だった牧水は熊本での大演習参観の帰途、ここにあった岩登屋に着いたが、にぎやかな三重町に驚いていると書かれている。三重町は昔は交通の要所だったところだ。
 3本目の十字路を左折、その先にある市場一区の信号を直進する。三重総合高校を右手に見ながら、秋葉川に架かる御霊橋を渡って進むと、左手に「御霊神社」がある。ここの開基は祖母嶽大明神の神霊を信奉する源平時代の雄、緒方三郎惟栄らに由来、大友時代に一時期荒廃したが、その後隆昌に向かい、天保10年(1839)に社殿を改修したという。
御霊神社  
 その先左手に「年神社」がある。ここには文化4年(1807)と刻まれた石仏他が立っていた。また、種田山頭火が昭和5年に三国峠を越えて三重町に来遊したときの句として「暮れてなほ耕す人の影の濃く」という歌碑が立っていた。
年神社 
 三重川に架かる新鬼塚橋を渡って進むと、左手に「淨運寺」がある。ここには三重町指定有形文化財の「一石五輪塔」があり、宝暦2年(1752)と刻まれた常夜燈が立っている。
淨運寺 
 お寺をでると、すぐに道は分岐しており、左側の道を進む。
 三重川にかかる内山橋を渡って進むが、バス停があったので時刻表をみると一日に5本しか運行していなかった。
 右手に「蓮城寺」(内山観音)がある。ここには「千体薬師堂」がある。1008体からなる薬師如来の立像が整然と並んでいる。薬師如来は人間の心を清浄にし、病難、苦難を救済する仏で、千体とはあらゆる病気、苦難から全ての人を救うということを示している。千体の薬師如来像を安置する堂宇は国内ではここが唯一と説明されている。像の高さはいずれも65cmの同大同形で、同一人の作と思われているが、作者は不明とのこと。記録によると貞享2年(1685)、元禄16年(1703)、明治16年(1883)に修理をしており、製作年代は室町時代と推測されているということだ。
千体薬師堂 
 なかなか壮観なのだが、薄暗い中にあるので、うまく写真が撮れなかったのが残念だ。
 本堂はすぐ横にあり、ここには本尊千手観音が安置されており、33年に一度御開帳があるという。これは平安時代の作といわれ、町有形文化財に指定されている。境内には室町、鎌倉時代の作と思われる「五重塔」や「石造宝塔」などが立っており、歴史を感じさせるお寺だ。
本堂はすぐ横 
 お寺の前は「金亀ヶ淵」といわれており、この淵は昔南都久我大臣の真名娘玉津姫が炭焼小五郎(後の真名野長者)を尋ねて来て黒痣の顔を洗ったところ、黒痣が消え去り、絶世の美女となった。後に小五郎と姫が夫婦の契りを結んだ際、この淵に金の亀が浮かび出て、鳥達が並んで遊んだといわれ、小五郎夫婦は大いに喜んで、「金亀ヶ淵」と名づけた。今も淵のお水を頂いて観音様にご祈念すれば痣が消えるといわれている。
金亀ヶ淵 
 ここから先、坂を上って行く。きれいに舗装されてはいるが山の中の道だ。
 326号線の高架下を通り、その先で一旦合流する。そのすぐ先で右折、松谷のバス停がある。
 その先で道は二股に分かれているが、これを直進して進むと右手に松谷公民館がある。
 その先、道は舗装されてはいるが人も車も通らない道を進んでいくと、トンネルがあるので、これを通って進む。
 道が三本に分かれているところにくるが、これは真ん中の道を進む。
道が三本 
 大分高いところまで来ている。道は旧国道、車が一台通れる幅で舗装されてはいるが、今はあまり使われていないようで、だれも通らない。結局今日は軽自動車が一台通り過ぎていっただけだった。
大分高いところまで 
 三叉路があり、「三国峠→」「←三重」の標識が出ており、ここを直進する。
 こんな山の中に犬がいた。ちゃんと首輪をしているので飼い犬なのだろうが、こんなところでどうしたのだろう?だれか人が連れてきているのかなと思ったが、人の気配は全くない。ただこの犬はえらく人懐こくて、しばらく後を着いてきた。
犬 
 再び三叉路があり、「←日本一大水車」「←小半鍾乳洞」等の標識が立っているが直進する。
再び三叉路 
 やがて「三国峠」に到着する。標高660mで名称は臼杵、岡、佐伯三藩の境界から来ているということだ。この地は戦国時代の「豊薩合戦」や「西南戦争」の激戦地でもあったところだ。
三国峠 
 峠を過ぎるとこれまでの上り道から平坦な道になる。これを歩いていると、いきなり道の横手から茶色の大きな鳥が飛び出していった。よくわからなかったが、雉ではなかったか。瞬間だったので写真を撮る暇もなかった。
 「樫峰」の集落があり、バス停があった。 山の中の静かな集落だ。民家は十軒ほどだろうか。
樫峰 
 番匠川が流れており、この上流約2km先に番匠川の源流が確認されたという案内板が立っている。
 その番匠川に架かる樫峰橋を渡って進む。
 ここからまた山の中の道だ。脇道がないので、道は間違ってはいないと思うものの、だれもいない中、一人黙々と歩いて坂を下っていると、ほんとに道を間違っていないかどうか不安になってくる。もし間違っていて、再びこの坂を上るのはいやだという思いが強くなってくる。
やがて326号線が下に見えてくる。やれやれ間違っていなかったようだとホッとする。
二股に分かれているところを直進、左手に326号線があり、その先は高い橋になっている。ここの谷をグルッと回るようにして旧道は橋の下を通って下っていく。
 上津小野の集落に入ると左手に「上津小野石憧」がある。凝灰岩でできたこの石憧は室町時代後期の作と推定されており、逆修の字がかすかにみえることから「逆修供養塔」として建立されたことが分かると説明されている。
上津小野石憧 
 326号線に合流した先で左斜めへ伸びる旧道を進み、高架下を通って進む。
 これから先、蛇行している田代川を何回も渡って進み、上小野市から左へ分岐している39号線に沿って進む。
豊後から日向へ至る道は小野駅(小野市)から赤松峠と宗太郎峠を越えて北川の支流の小川に沿って長井駅(日向長井)へ至る道と、黒土峠と梓峠を越えて北川に沿って長井駅(日向長井)に至る二つがあったと想定されているそうだが、今回は後者の黒土峠と梓峠を越える道を通ることにしている。
 左手に「長徳寺」がある。ここには室町時代末期の作と推定される「宝篋印塔」がある。
長徳寺 
 宝篋印塔という名称は鎌倉時代から使われているが、これは塔中に宝篋印陀羅尼経を納めることから出た名前で、造塔の目的は現世利益のためで、陀羅尼をこめた小塔を多数造立し、仏事、罪障消滅、息災延寿、追善供養さらには墓塔にまで利用されるようになったということだ。町指定文化財になっている。
宝篋印塔 
 広い道路で歩道もたっぷりある道を歩いていく。車は少なくて楽だが、見るべきものはなにもない。
ただひたすら黙々と歩くのみだ。
 市園川に架かる柿木橋を渡る。今日の宿はここから直進して4kmほど先の重岡駅の近くに一軒だけある旅館を予定しているのだが、暗くなるにはもう少し時間が取れそうだ。明日は大きな難関が控えているので、少しでも先に進んでおきたいと思って、市園川に沿って進んでいく。
 B&G海洋センターが左手にある前を進んでいき、17時30分、突き当たりのところで今日は終わることにする。
 ここでタクシーを呼んで、きてもらうことにする。タクシーがあることは途中にあった宇目振興局に立ち寄って確認し、電話番号を控えていたのだ。
 このあたりでは旅館は一軒しかない。断られたらどうしようと思っていたのだが、昨日予約できたので安心していた。日没までまだ僅かだが時間があったので、運転手さんにお願いして、明日歩く予定の「水ガ谷」の入口までいってもらい、確認を取って宿へ行く。ところが宿に着くと鍵が閉まっているし、玄関の明かりも消えている。おや?と思って呼びかけるが反応がない。まさか!・・・。運転手さんも一緒になって窓ガラスを叩いたりして呼んでくれ、ようやく通じた。ところが今年80歳という女将さんは私の予約を昨日と勘違いをして今日はまだ準備ができていないという。周囲はコンビニをはじめ、店が一軒もないところだ。これは困ったと思ったが、それから風呂を沸かしてくれ、食事も準備してくれたのでホッとする。宿のすぐ近くにJRの駅があるが、ここは一日に4本しか止まらないという駅だ。

本日の歩行時間   8時間15分。
本日の歩数&距離 50494歩、32km。 

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