日向街道〈豊後道)を歩く

2009年10月29日(木) ~2012年12月26日(水)
総歩数:340834歩 総距離:211.5km

2012年12月25日(火)

高岡~去川~雀ケ野~官行入口

                                        曇り

 これまで旧街道を歩いて日本一周に挑戦し、今年(2012年6月9日)に達成をしたが、今日と明日歩く区間だけは空白のままになっていたので、何とか今年中にここを歩いて全国の道を一本の線でつなげたいと思って、今回挑戦することにした。
 2009年11月20日に高岡まで歩いた際はすでに狩猟期間に入っていて、去川から岩屋野へ至る山道は危険だし、道がわかりにくいので一人で歩くのは無理だと地元の方にいわれたため、狩猟期間が終わった後に道をご存知の方に案内をしていただくことにしていた。ところが予定した時になると、何故か体調不良に襲われてしまい、せっかく案内をお願いしていたのに、キャンセルをしてしまった。今回もそうで、一年に一回、12月にこの峠を歩くイベントがあるという情報を今年になって耳にしたため、今度こそと満を持していたところ、出発の前日になって突然のめまいと吐き気に襲われてダウンしてしまった。眼が回って座ることさえできない状態だったので、電話で参加できない旨を伝えると、イベント自体が雨の予報のために中止になったということだった。このようなことが続くと、この場所に何かあるのかな?という気持ちになってしまう。まさに私のとって鬼門の場所になってしまっていたのだ。
 ただどうしても今年中にここを歩きたいという思いは変わらなかったので、症状が落ち着いたところで、再挑戦を行うことにした。ただ、今回も狩猟期間に入っており、案内をお願いしないで一人で歩くため、ちょっと残念だが国道を歩くことにした。

 小倉を始発で出発、12時52分に前回のバス停に到着し、歩き始める。
 その先で街道に合流、左折した右手に「本永寺」がある。ここにある地蔵尊は江戸時代、この地の豪商で目明しだった横山勘兵衛が盗賊の笠原弥右衛門を捕まえて斬首の刑にしたが、その霊を供養するため、この地蔵尊を建立したという。この地蔵尊は高岡で起きた安政の大火の際にも焼け残ったそうで、昭和になってこの地に安置されたという。
本永寺
 その先右手に高岡小学校があるが、ここは「御仮屋」があったところと説明されている。鹿児島藩では領内を100以上の区画に割って、「麓」という武士集落をつくり、地方の軍事、行政を管轄する外城制度を作っていた。その中心になっていたのが地頭仮屋で、藩主が参勤交代などで郷を通行するときは、その宿所として使用されていたという。
高岡小学校
 そのすぐ先、右手に「河上家武家門」が復元されている。 高岡郷の武家門は、長屋門、観音開門、引戸門の3種類に区分されている。河上家の武家門は観音開門の代表的なもので、弓術の指南家、禄高280石ほどの高禄武家のものといわれている。棟札に正徳元年(1711)と記されていることからこの時期に建築されたとみられており、現在は市立武道館「練士館道場」の門となっている。
河上家武家門
 その先の突当りを右折、すぐ先で道は二股に分かれているので、これを左へ進むと墓地がある。ここは1600年(慶長5年)に建てられた龍福寺の跡で、薩摩藩の第16代藩主島津義久が、自分の名前「龍伯」の一字「龍」をとってつけた名前で,薩摩に「龍光寺」,大隅に「龍昌寺」,日向(高岡郷)にこの「龍福寺」という三つの菩提寺を建てたという。墓地の出口に「金剛」の阿象、「力士」の吽象の二体の仁王像が立っているが、これは前述の横山勘兵衛が寄贈したものという。
龍福寺
 その先で359号線に合流して進み、浜子バス停の手前から359号線から右へ分岐して進むが、高岡バイパスの下を通った先、右手に石仏、石碑があり、しめ縄が飾られていた。
石碑があり、しめ縄
 山際の道を進んでいき、突き当りを左折する。旧道はこのまま直進していたようだが、現在では道は全く失われている。
10号線に合流、右折して進むが、尾頭のバス停の先、左手に嘉永年間(1850)の建物がある。これは高岡の商家萩原家の本家だったが、街路事業計画によって昭和60年にこの地に移転、復元したという。
商家萩原家の本家
 この先、旧道は失われているので国道を進む。新赤谷バス停の先の信号から左折して進むと、突き当りの左手に延享元年(1744)と読むことができる石碑が立っている。
延享元年
 右手下に「鵜木橋」がある。これは肥後石工岩永三五郎の技術をくんで造られたと思われているという。市指定有形文化財になっている。
鵜木橋
 再び10号線に合流して進むが、車が多く歩道がないため歩きにくい。大淀川に沿って進むが、このあたりは大淀川の反対側に旧道が通っていたそうだ。ただ現在は歩くことができないということだったので、国道を進む。
 柚木崎のバス停のところ、左手に二つの祠と天保6年(1835)のものを含む「水天王」と刻まれた石碑が並んで立っている。
二つの祠天保6年

 更に10号線を進んでいき、唐崎トンネルを出た左手に「奉寄進水神」と刻まれた弘化2年(1845)と明治8年の石碑、その横に年号を読み取ることができない石仏がある。
弘化2年
 大淀川は蛇行を繰り返していて、何度も橋を渡る。唐崎橋を渡った先で10号線から左へ分岐して進むと、大淀川を渡ったところ左手に「沿道修景指定樹木」の樹高20メートルという大きな銀杏が立っている。
大きな銀杏
 10号線に合流した左手に文化14年(1817)と寛政と読むことができる「奉納水神」と刻まれたふたつの石碑が立っている。大淀川に沿っているからなのだろう、このあたりには水神とか水天王といった文字が刻まれている石碑が多い。
文化14年
 去川の信号のあるところ、右手下に「去川の関所」跡がある。
島津義久は国境の防備を固めるため、関所を去川に設け、御定番に二見岩見久信を命じた。以来二見家は11代にいたるまでこの関所の御定番を勤めていたが、廃藩置県のため、関所も御定番も廃せられた。
当時は現在の去川小学校の門前に渡船場があって、旅人は渡し船で関所にたどり着き、ここで改めて薩摩藩の旅に着いたという。現在は遺跡として門柱の礎石が一つ残っているだけだ。
去川の関所
 ここから10号線から左へ分岐して進むと、右手に「二見家住宅」がある。二見家は去川の関所の御定番を勤めた家で、代々この地に居住していたという。建築様式は「二棟造り(分棟型)」と呼ばれる南九州の民家の特徴が取り入れてられている。二見家住宅は同家に残された古文書に「去川御仮屋」と記されていることから、公的な「役所」として位置づけられていたことがうかがわれ、藩主や上級身分の者が宿泊、休憩した建物として使用されていたという。建築の時期は「座敷棟」が安政2年(1855)、「居室棟」が明治28年という。
二見家住宅
 さらに進んでいくと、「去川の大いちょう」がある。これは樹高41m、樹齢約800年と考えられており、国指定天然記念物になっている。
去川の大いちょう
 旧道はここから山の中へ伸びているようで、実際いちょうの木の前から道があったが、一人で歩くのは無理と言われていたので、残念だがあきらめて10号線に戻る。
 とりあえずこの先の雀ケ野というバス停まで行かなければ、今日の宿がある都城まで行くことができない。バスの時間は17時40分で、それ以降は全くアクセスがなくなってしまう。都城の市街地まで25㎞ほどあるので、これはなんとしてでもバスに間に合わせなければいけないと思って先を急ぐ。
 16時30分に雀ケ野に着いたが、ここは宮崎から来るバスの終点であり、都城からのバスの終点でもある。見ると民家はなく、どうしてここにバス停があるのかよくわからないような場所だった。
バスまで1時間以上あるし、じっとしていると寒いので、都城に向かって少しづつ歩くことにする。ただ、このような山の中なので、次のバス停までどのくらい時間がかかるかわからないので、急ぎ足で進んでいくと、大体10分から15分歩いたところにバス停があることが分かった。四家鉱山入口というバス停まで来たところで時計を見ると、17時11分だ。まだバスの時間まで30分はあるので、もう一つ先のバス停まで行くことにして歩き始めた。この辺りは基本的に山の中を10号線が一本通っているだけで、所々に小さな集落があって、そこにバス停があるという状態だ。ところが歩き始めたのはいいが、なかなか次のバス停がない。周囲は段々暗くなってきた。最初はいよいよの場合はバス停ではなくても、手を広げてバスに合図をすれば乗せてくれるかもしれないと甘い考えを持っていたのだが、暗くなるとおそらく道路端で手を振っても運転手は気が付かないだろうと思いだした。これは大変だ!と思って先を急ぐと官行入口というバス停があったので、ホッとする。ここも周囲は山で、民家は全くない。時計を見ると17時34分だ。バスの時間は17時48分となっているので、もうこれ以上は先に進めない。
待っているとやがてバスがやってきた。ただ、見ていると道路の中央を疾走してくる感じで、そのまま通り過ぎてしまいそうだったので、あわてて大きく手を振ると、気が付いたらしくこちらにやってきた。このバスは結局最後まで乗降客はなく、乗客は私一人だけだった。運転手も乗客はいないと思っていたのだろうと思い、大きく手を振らなければ気が付かずに通り過ぎてしまっていたかもしれなかったと改めて思った。

 本日の歩行時間   4時間42分。
 本日の歩数&距離 30885歩、22.3㎞。

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