山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月08日(木)

津和野~樫実峠~鬼ケ峠~徳城峠~青原~石見横田 

                     晴れ

 今日は津和野から青原へ抜ける山の中の道を役場からの紹介で、津和野ボランティアガイドの会の副会長をされている永田さんと同じくガイドをされている藤原さんにご案内していただくことになった。永田さんの息子さんが昨夜宿泊をした宿をやられていて連絡も取りやすく、昨日宿までわざわざおいでいただいて簡単な打ち合わせもさせていただいた。朝8時前に永田さんが迎えに来られ、藤原さんと途中で合流、とりあえず山を抜けたところまで車を置きに行き、そこからもう一台の車で、昨日私が歩いた興源寺まで戻ることにした。
 途中で津和野奥筋往還の石畳を見せていただいた。この道は鉄砲丁橋から東へ伸びる津和野奥筋往還で那賀郡長安村(現弥生村)や邑智郡日貫村〈現石見町)など津和野藩領の飛び地へと続いている道だ。ここの石畳は以前は埋もれていて藪になっていたそうだが、永田さん達が掘り起こして復元したそうで、毎年草刈をして手入れをしておられるということだった。こうして昔の街道を残す地道な努力をされておられることに頭が下がる思いだ。
津和野奥筋往還 
 8時45分に興源寺から出発する。津和野川に沿って進み、三軒屋の集落の中を進む。このあたりは昔,三軒の家が立っていたことからこの名前がついたという。
 左手に「ねむり地蔵」がある。このお地蔵様は慶応3年(1865)に上寺田村にあった興徳寺にあったが、明治の中期に廃寺になったため現在地へ移転したという。寝つきの悪い人や赤子の夜泣きを直してくれるといわれ、現在でも参拝する人々が多いという。ねむり地蔵 
 左手に「稲成神社」があるが、ここは津和野では一番古い神社で安永5年(1776)に創建されたという。稲荷ではなく、稲成という字が使われているのも珍しい。
稲成神社 
 その先でこれまで歩いてきた旧国道から左へ分岐して進み、その先の民家のところで二股に分かれているところから右へ分岐して進む。ここを左へ進むと笹ケ谷鉱山跡へ進むということだった。この銅山は鎌倉時代から昭和初期まで採掘されていたと永田さんに教えていただいた。
その先でこれまで 
 山際の道を進んでいくと、右手に備中橋があるところに出るが、ここには昔刑場があったということだ。
 その先で道は二股に分かれており、ここを直進する。
道は二股 
 寺田の集落に入り、左斜めへ旧道は伸びているので、これを進む。舗装された道を進んでいくが、左手の山際、少し高いところに昔の道の痕跡をところどころに見ることが出来るが、現在では歩くことはできないので、舗装された道を進む。
寺田の集落 
 岩瀬戸川に架かる橋を渡って進むが、静かで気持のいい道だ。今日は道をよくご存知の方が一緒なので道に迷ったり、間違ったりしないので気が楽だ。 道端に狸の死骸があった。車にでもはねられたのだろうか。
岩瀬戸川 
 もう一つ小川を渡って進み、その先で道は二股に分かれているので、ここは右へ進む。
もう一つ小川 
 ここの左手にお地蔵様があるが、これは結婚の時にお嫁さんの家へこのお地蔵様を持っていったのだが、出されたお酒が少なかったのに腹を立てて、お地蔵様をここまで持って帰ってきたが、重いのでここに置いて帰ったという言い伝えがあると永田さんに教えていただいた。
左手にお地蔵 
 樫実峠の頂上にくると、左手に「馬頭観音」が祀られている。お花が活けられており、お賽銭が供えられていた。山の中だが参拝する人がおられるのだろう。
馬頭観音 
 ここもきれいに舗装された道だが、少し上に旧道の痕跡が残っている。その先で右手から道が合流しており、これを左へ進む。
右手から道 
 その先右側が深い谷になっており、永田さんがその急な崖を下っていかれた。かなり急で高い崖だったが、その下に旧道が残っているので、それを歩くのだ。ただ、旧道の入り口は道が失われていてわからないということだった。
 藤原さんと二人で後に続いて崖を下り、沢を渡っていくと、荒れてはいるが旧道が残っていた。このような道は案内をしていただかなければわからない道だ。藤原さんと 
 道の横に石仏が枯葉に包まれてポツンと置かれていた。この道は今では誰も通らないだろう。
道の横に石仏 
 旧道を進んでいくと、平岩川に架かる岩川橋の袂にでる。左手に「大元神社」がある。 このあたりを商人集落というそうだが、現在では家が二軒あるだけだった。  
大元神社 
 その先で舗装道に合流するが、右手に岩本庄屋があった跡があり、石垣が残っていた。
 赤岩川に架かる赤岩橋の横から左へ山道に入るので、ここで一休みすることにし、お二人の写真を取らせていただく。山の中だが、お茶の栽培が行われていたのでそれをバックにして撮る。
お二人の写真 
 道が二股に分かれており、ここは右へ進む。いよいよ完全な山の中の道になる。
道が二股に 
 ただまだこのあたりは道が残っていて歩く上で支障はなかった。
 道の横は昔、田んぼだったそうで、今は植林後、放棄されていたりしてかなり荒れているが、それでも地面が平になっており、田んぼだった雰囲気が残っている。
道の横は昔 
 永田さんによると、こうして街道の横に田んぼを作ることで、ここを通る殿様に稲ができていると喜んでいただきたいという思いがあったという。この峠を経世羅(キョウセラ)峠というそうだが、次第に道がなくなってきて、遂に全くの藪になってしまった。永田さんは10年ほど前にここを通られたそうだが、その時に比べると全く変わってしまっているといわれていた。ただ、道はしっかりと記憶されておられるようで、永田さんに従って歩いていく。ここは一人で歩くのはまず無理な道だ。
 途中でお墓か石仏か分からないが、倒れていた。昔ここに葬られたのか、祀られていたのだろうが、今では苔むしていて、地面に横たわっていた。
でお墓か石仏 
 一旦林道に出てこれを進む。この林道は高圧線を設置するときに作られたものということだ。このあたりが廿田峠だ。
 その先で下り始めて再び旧道に入ると、そこに駕籠かきの交代する「送り場」があった。ここは益田からきた駕籠が津和野に入る前にここで駕籠かきを交代した場所ということで、今でも道よりも少し広くなっており、笹が刈られていた。
送り場 
 ここから先の旧道は全く歩くことができないということなので、林道に戻って歩くことにする。
 山を下っていくと、宿谷の集落の入り口に吉松仁右衛門父子を祀った「三霊堂」がある。
三霊堂 
 宿谷にいた万右衛門の田が質流れになってしまったため、宿谷の庄屋だった大庭茂右衛門と柳村の蔵方という庄屋に次ぐ村方役人で信望が厚い吉松仁右衛門が買い取ろうと競り合い、仁右衛門が田地を買い取った。大庭茂右衛門がこれを逆恨みし、仁右衛門の上納紙を不合格にした。このあたりは紙の産地で仁右衛門も紙を作っていたのだ。翌年もその次も仁右衛門の紙は不合格になったため、不審に思った仁右衛門はひそかに自分の白髪を紙にすきこんでいた。不合格になった自分の紙を調べてみると、すきこんだはずの髪の毛がない。紙が庄屋の大庭茂右衛門によってすりかえられていたのだ。このことを仁右衛門は役人に訴えたが、役人は仁右衛門を貶めるために庄屋と組んでいたため、逆にお上への上納紙に百姓の汚らわしい白髪をすきこんだということで、仁右衛門、治右衛門、重左衛門の親子三人は捕らえられ、城下引き回しの上、打ち首になってしまった。仁右衛門親子は首を斬られるとき、津和野の町を七度〈説明書では三度となっていた)丸焼きにしてやるといい、獄門にさらされた首は何度向きを変えても津和野の方を向いたという。永享2年(1745)のことである。その後役人は罰せられ、大庭家も打ち続く不幸で絶家になってしまい、その後も奇怪なことが起こるので尼寺禅光院のほとりに空墓を立てて祀ったのがこれだという。実際に津和野では七度の大火があり、最もひどい時は1600軒が焼失したということだ。
 ここから舗装された道に出てこれを横断、すぐ前の細い坂道を上って進み、再び舗装された道を歩く。ここから舗装 
 左手階段の上に「三霊社」がある。ここに吉松仁右衛門、治右衛門、重左衛門が祀られている。
三霊社 
 城下を引き回されているときに、ある家人が、そっと仁右衛門になにか欲しいことはないかと問うと、酒が飲みたいといったので、役人に隠れて酒を飲ませた。そのためその家だけはその後のいかなる大火の時にも焼けることはなかったという。今でもお酒が途切れることなく供えられているという。またここのお堂では手を叩いて参拝をするということを永田さんに教えていただいた。
ここで宿で作っていただいた弁当を3人で食べる。このあたりも食べる店などないのだ。
 食べ終って舗装された道を進んでいくと、左手に日原町指定文化財(史跡)徳城往還の看板が立っているところがあり、そのすぐ横から山道に入っていく。地元ではここを辻堂と呼んでいるということだ。
徳城往還の看板 
 ここの入り口に古い木橋が架かっており、これが相当に古くて穴が開いていたりしたので、一人ずつ渡ることにする。
古い木橋 
 ここから徳城峠の山道になっていくのだが、永田さんもこの道が現在どのようになっているのか分かっていないということで、また、経世羅峠のような藪になっているかもしれないと思った。
 ところが道はきれいに整備されていてとても歩きやすい。日原町〈現在は津和野町と合併している)の方が整備をされているようだ。木漏れ日の中を歩くのはとても快適だ。
整備されていてとても 
 ただ、3月10日に降った大雪の影響だろう、倒木がかなりあって、そこは行く手を塞がれている。そういったところでは永田さんは持参された鎌で枝を払って、歩くことが出来るようにされていた。見ていると鎌も手入れができているようで、よく切れる。山歩きに精通されていることがよくわかる。藤原さんはよく整備されたこの道に感心して、津和野の街道もこのように整備をしなければといわれて盛んに写真を撮られていた。
大雪の影響 
 「徳城茶屋跡」の標柱が立っている。説明板があったが、倒れていて字も薄くなっていたため読めなかった。ここで蓬莱糖という名物のお菓子を売っていたということだ。
徳城茶屋跡 
 やがて峠を抜けて、朝、車を置いた場所に出てきた。無事津和野から旧道を通り、山を抜けて青原に出ることができたのだ。お二人には本当にお世話になりました。案内をしていただかなければ、旧道は歩くことができなかったと思うので、感謝の気持で一杯だ。ありがとうございました。14時45分、ここでお二人とお別れをして先へ進む。ここから先はJRの線路で旧道は失われているため、9号線を進むことにする。9号線に合流してすぐに小瀬洞門を通る。
 「供養地蔵」がある。この場所は道が急カーブをしており、崖は高く、下は深い淵になっていたので人馬が命を失うことが多かったことから、その霊を弔うために供養地蔵を立てたと説明されている。
供養地蔵 
 9号線は高津川に沿っており、両側は山が迫っている。ただ川の水はきれいだし、今日は天気がいいので気持がいい。
高津川 
 昨日はあんなに寒かったのだが、今日は快適な気候で歩きやすかった。まもなく益田市に入る。
高津川に架かる神田大橋を渡って進み、その先から9号線と分岐して311号線が伸びているのでこれを進むと右手に石見横田の駅がある。時刻は16時10分だ。時刻を調べると16時21分の電車がある。今日は益田まで行く予定にしていたのだが、思っていたより山越えに時間がかかったため、ここで終わることにする。

 本日の歩行時間   7時間25分。
 本日の歩数&距離  28296歩、20.8km。

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