山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月17日(土)

温泉津~五十猛~波根

                     晴れ

 江津駅を7時6分発のJRがあるので、これに乗りたいと思っていたのだが、宿の朝食は7時から。30分早めることができないかお願いしてみたのだが、駄目ということで、次の7時58分に乗るつもりにしていた。ところが7時10分前に朝食ができたと連絡を貰ったので、大急ぎで食べて駅へ走っていくと何とかギリギリ間に合った。今日も朝からバタバタだ。7時28分に温泉津駅に着き、昨日歩いたJRのガード下まで戻って歩き始める。天気がよく今日は暖かい。
 右手に「安楽寺」がある。創建は分からなかったが、正徳元年(1711)に火災で焼失、正徳4年(1714)に再建されたが、明治16年に再度焼失したため、明治22年に再建されたという。
安楽寺 
 小浜川に架かる浜田橋を渡って236号線を進んでいく。左手に海を見ながら進んで行き、世界遺産「温泉街」「沖泊」と書かれた看板のところから右折するが、その角に「温泉津町道路元標」がある。
温泉街 
 左手の海岸でワカメを干しているのを見ていると温泉津のワカメはおいしいことで有名だと横におられたおばさんが教えてくれた。
海岸でワカメ 
 このオバサン元気のいい方で、すぐ横でお店をやっておられていたので、そこで今日の昼食用のパンを買う。朝、電車に飛び乗ったので、昼食用のパンを買うことができなかったのだ。この先、店がなかったので、ここで買うことができてよかった!
 街の中を進んでいくと、右手に「内藤家庄屋屋敷」がある。毛利藩は石見銀山統治のため、温泉津港を重要視してこれを直轄領にし、毛利水軍御三家の一つ内藤一族を安芸の国から迎えて、元亀元年(1570)にこの地の奉行に据えたという。関が原役後、毛利が石見から撤退した後も、内藤家はこの地に残って代々年寄りや庄屋と務めたということだ。現在の建物は延享4年(1747)の温泉津大火の後建てられてもので、この地に残る最も古い住宅建築ということだ。
内藤家庄屋 
 その先で右折して温泉街の中へ入って行く。今日の試合に出場するのだろう、生徒達の姿が多い。
左手に「龍御前神社」がある。ここは天文元年(1532)に勧請されたと伝えられており、海上安全、漁業、温泉医療の守護神としてこの地に鎮座しているという。
龍御前神社 
 右手に「西楽寺」がある。ここは創建はわからなかったが、大永元年(1521)に浄土真宗に改宗、天正年間(1570~1580)では本願寺第11代顕如宗主からの書状を密使下間刑部卿法眼が竹杖に仕込んで敵中突破して携えてきたことが伝わっているそうだ。慶長8年(1603)西楽寺と改称して本堂を造営、現本堂は天保2年(1831)に再建されたという。
西楽寺 
 右手に「恵琳寺」がある。ここは大永5年(1525)に建立されたもので、天正15年(1587)には細川幽斎が宿泊をしたという。どちらも風格のある立派なお寺だ。
恵琳寺 
 左手に元湯があり、その裏に温光寺・薬師堂がある。それによると観応、文和(1350~1355)の頃に伊藤家初代重佐がこの地で温泉の開発を始めたということだ。温光寺・薬師堂は重佐温泉開発発願の象徴と書かれていた。
温光寺・薬師堂 
 その先で道は二股に分かれており、左へ進むと左手に地蔵堂があり、細道を上る。坂の途中に「忠左衛門堂」がある。この神様は蛇の神様で腰から下の病気に霊験あらたかということだ。以前は生卵を供えて参拝する人が多かったという。
忠左衛門堂 
 一旦広い車道に出、やきもの館の先から右折、復元されたという大きな登り窯の横を通って坂を上る。温泉津焼は江戸中期の宝永年間(1704~1708)に瓦製造を始めたのが始まりで、昭和30年代まで日用雑器を主として生産を行っていたという。「やきものの里」はそういった温泉津焼の歴史、文化を保存するために昭和63年に開館したという。
やきもの館 
 突き当たりを右折、右手に市営住宅があるところの先から左へ曲がりこむようにして道は続いており、その先で車道に合流する。その先「清水大師入口」という標識が立っているところから二股に分かれているので右斜めへ進み、その先で車道を横断して進む。
清水大師入口 
 その先で道は二股に分かれており、右に進むと銀山街道になるが、ここは左へ進む。分岐点に「右 銀山大森」「左 いづ`も大社」と刻まれた道標が立っている。
道は二股 
 ここから先、道は舗装されてはいるが、誰も通らない道で右手は深い谷になっている。かなり急な崖になっており、覗き込むとズ~ンときて足がすくむような感じだ。
ここから先 
 山を下ると本郷の集落があり、湯里川に架かる堤口橋を渡る。右手に石仏を祀るお堂がある。
 板屋谷川に架かる銀山迫橋を渡って進む。ここから再び山の中の道を進む。
 山を下ると神畑の集落がある。その先、馬路踏切の手前に「石見銀山街道 鞆ケ浦道」の標識が左手に立っているところから、左手に坂を上る細い道があり、これを上って行くが、
神畑の集落 
 踏切の先に八体の賽の神が祀られていた。これは以前峠の頂上に祭られていたそうだが、JR山陰線の工事によって移転されたということだ。
八体の賽の神 
 あまり高くはない峠を越えると前方は海だ。ここは鞆ケ浦と呼ばれてここから石見銀山の銀を積み出した港だ。
鞆ケ浦 
 この地には琴姫伝説というのがあって、源平の戦いで平家が壇ノ浦で敗れた春のこと。ただ一人小舟に身を託して逃げ延びた美しい姫が琴を抱いて気を失っていた。村人達の手厚い介抱で元気を取り戻した姫は毎日琴を弾いて村人達の心を和ませていたが、ある日突然この世を去ってしまった。村人達は姫を手厚く葬ったところ、次の日からあたかも琴を奏でるように美しい音色で浜が鳴り始めたという。姫の魂がこの浜に留まって村人達を励ましてくれているのだろうと思い、この浜を琴ケ浜と呼ぶようになったという。琴姫の碑が立っている。
琴姫伝説 
 海岸沿いを進んで行き、右斜めへ伸びる坂道を上る。かなり急な坂道を上るが、後ろを振り返ると眺めがいい。
海岸沿いを 
 舗装された道を進んでいくが、どこかで右へ分岐する道があるはずと思って注意をしながら進んだが、旧道の入口が分からないまま、山を下ってしまった。仕方がないので潮橋を渡ったところで旧道と合流する。ここから旧道を逆に満行寺、善興寺のほうへ戻ってみようかと思ったが、やめて先へ進むことにする。資料をみると旧道は山道となっていたので、入口を見落としたのだろうと思う。
 右手に「端島恵比須神社」があり、その先で道は二股に分かれているので、ここを左へ進む。
端島恵比須神社 
 「宅野港1km」という標識が立っているところから右折、すぐ先で左折してJRの線路沿いに進み、定野踏切でJRの線路を横断、すぐに左折して線路沿いに進む。定野川に架かる芹田橋を渡り、トンネルを抜けて最初の角を右折して坂を上って行く。
 左手に「一畑薬師」と刻まれた石碑と地蔵堂が並んでいる。
左手に「一畑薬師 
 このあたりは一畑薬師の石碑が多いが、これは一畑寺(いちばたじ)の通称で、出雲神話の国引きで名高い島根半島の中心部、標高200メートルの一畑山上にある。創開は、平安時代の寛平6年(894)、一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与市が引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりという。与市の母親の目が開いたり、戦国の世に小さな幼児が助かったことから、「目のやくし」「子どもの無事成長の仏さま」はじめ、諸願に霊験あらたかなお薬師様として篤く信仰されているということだ。
 その先から土道になっており、山を越える。ただ道は整備されていて歩きやすい道だ。途中に石畳の跡が残っている。
その先から土道になっており 
 山の頂上に「井戸平左衛門顕彰碑」が立っている。享保の飢饉の際、年貢の対象にならない甘藷の種芋を薩摩から取り寄せて栽培したり、米蔵を開放するなどの飢餓対策を行ったことで有名で、在任期間わずか2年で亡くなったが、平左衛門を称えた碑は石見、出雲、隠岐、伯耆に490以上存在するという。いかに住民に慕われていたかということだろう。
井戸平左衛門顕彰碑 
 長迫橋という跨線橋を渡ってすぐ先を右折、集落を抜けたところから右へ下る道があるので、これを進む。
右へ下る道
 その先でJRの線路に突き当たるが、ここには踏切がないが、そのまま線路を越えて9号線に合流する。
すぐ先で「大浦 1km」と書かれた標識のところから左斜めへ分岐して進み、JRの線路下にあるトンネルを通って、すぐに右折して進む。
 左手に「韓神新羅神社」がある。ここは地元では「大浦神社」「明神さん」と呼ばれているが、日本でこの神社だけが「韓神」と称し続けているということで日韓関係の深い神社として注目されている。この神社の祭神は武進雄尊という天照大神の弟君で出雲の国で八岐大蛇を退治し、その後御子、三兄妹を連れて韓国に渡り、植林の技術を伝えて帰国したが、そのとき、まずこの地へ上陸されたという。このあたりには「韓」の付く韓島、韓郷山といった地名があり、この大浦の地を昔は「韓浦」と呼んでいたという。
韓神新羅神社 
 ここから先、資料では「海岸線のため道はない、砂浜を歩く」と書かれていたので、砂浜を歩けばいいのだろうと思って進んでいったが、現地に着いてみると単純な砂浜ではなくて、岬があり、そこは崖になっていたりして歩くことができないことが分かった。そのため急遽地図に記されていたもう一本の道に合流してこれを歩くことにする。
 五十猛踏切でJRの線路を越えて進み、もう一本の旧道に合流する。
 この道を進んでいくと、一旦9号線に合流するが、そこに「神別れ坂」と刻まれた石碑が立っている。
神別れ坂 
 このあたりの地名を五十猛というが、これはスサノウの命の子五十猛命に由来するという。神亀3年(726)から磯竹という文字が使われるようになり、明治22年の町村制の施行以後現在の五十猛になっているということだ。五十猛は神話にまつわる伝承が多く、五十猛駅前の砂浜を逢浜といい、五十猛命、スサノウ命、大屋姫、爪津姫の四人の神が逢った場所とされており、この四人が分かれた場所が神別れ坂とされているそうだ。
 そのすぐ先で9号線と分岐して右へ下る。右手に五十猛駅を見ながら進み、野田川に架かる野田川橋、逢浜川に架かる逢川橋を渡ってJRの線路に沿って進む。右手にJRのトンネルが見えるところから左へカーブして進み、その先で9号線を横断、二股を左折して進む。
 左手に「静間神社」がある。ここは仁和2年(886)に創建された古い神社で、昔は魚津の静ノ窟にあったが、その後延宝2年(1674)に現在地に遷座したという。祭神の大己貴命、少彦名命は農民に鋤、鍬を与え、水稲の種子をまいて田作りの方法を教えたという。また人間はもとより家畜の病気治療にあたられたという。
静間神社 
 その先の二股を左へ進み、突き当りを右へ行くと、右手に静間小学校がある。その先突き当たりを左折するが、ここに地蔵堂がある。
地蔵堂がある 
 静間川に架かる静間橋を渡って進むと、右手に元禄年間に前原源三郎が新田開発の目的で静間川の流路を現在の方向へ変えたことに対する若槻礼次郎書の「謝恩碑」が立っている。
謝恩碑 
 その先で道は二股に分かれており、これは右側の道を進むが、その先で再びこの道は合流する。287号線を進んでいくと右手に大満寺がある。
 その先で細い十字路があり、これを左折、すぐ先で右折、更にその先で右折するが、このあたりは分かりにくかった。詳細な地図を市役所から頂いていたから歩くことができたと思う。その先で287号線に合流するが、そこに地蔵堂があった。
 その先突き当たりに「佐比賣山神社」があり、お祭りが行われていて、丁度神輿が出てくるところだった。ここも古い神社らしく天保14年(1843)の鳥居が立っていた。
佐比賣山神社 
 鳥井小学校を左手に見ながら進み、その先で右斜めへ上る道があるが、資料によるとこの道は20年前まではあぜ道程度の道があったが、現在では歩くことができないとなっていたので、舗装された道を進む。
 その先、285号線が左へカーブするところがあり、ここを直進すると、右手に「井戸公の石碑」が立っている。碑は490以上あるといわれているが、確かに随所に碑が立っている。
井戸公の石碑 
 左手に「苅田神社」がある。ここは延喜式内に記載されている古い神社で昭和3年に現在地に遷座したという。名前が表すように農耕の神様だ。
苅田神社 
 掛戸踏切でJRの線路を横断、「かけとの地蔵」がある。昔、この地方に疫病が流行ったとき、この地へ入らないようにということで建立されたという。
かけとの地蔵 
 その先で道は二股に分かれているので、左の道を直進する。その先で285号線に合流するが、その合流点に「一畑薬師」の石碑が立っている。
一畑薬師 
 波根駅に着く。今日はここで宿を取る予定だったのだが、電話を入れてみると全て満室だ。昨日はバスケットの試合があることで温泉津の宿は満室だったのだが、ここは剣道の試合があるので、全ての宿が満室とのこと。駅の近くに何軒か宿があるようなので、何とかなるだろうと思っていて、他の場所の宿の情報を持っていなかったのでこれには困った。これから先の道は山の中へ入るようで、この時間から先へ進むにはちょっと無理があるようだ。しかたがないので早めに出雲に入って宿を探し、もし取れなければ今日中に帰宅しなければならないかもしれないと思っていた。

 16時21分、波根駅に着く。JRは16時26分でギリギリ間に合った。今日もこの電車に間に合わせようと思って後半は急げ、急げの一日だった。
 

 本日の歩行時間   8時間53分。
 本日の歩数&距離 44101歩、32.1km。

 出雲にでるとホテルはかなりの数があり、すんなりと部屋を取ることができたのでホッとする。

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