山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月14日(水)

石見横田~益田~岡見

                     晴れ

 9時38分に石見横田駅に着き歩き始める。
 9号線に合流、高津川に架かる横田橋を渡ってすぐに右折して下っていき、左へカーブして進む。
 横田舟橋を渡って一旦右へ進みかけたが、間違いに気づいて直進する。道は次第に山の中へ入っていく。「クマに注意」の標識が立っている。ただ道はきれいに舗装されているので歩きやすい。右手下のほうにJRの線路が見える。
 「特別社 豊田神社 奥之院参道」と刻まれた石柱が立っており、これを右に見ながら進んでいく。
豊田神社 
 梅月跨線橋を渡って左折、土道に入る。今日は天気がいいが、寒気がきているということで空気は冷たい。今年の天候は暖かったり、寒かったりと寒暖の差が激しい。
 梅月踏切でJRの線路を横断、その先で本俣賀川に架かる郷橋を渡る。右手に「梅月天満宮」がある。
梅月天満宮 
 左手の車道に接して進み、その先で右折、小川を渡って直進する。
 途中で左折する道があり、そこに「鶏病予防の為立入禁止」の看板が立っているので、そのまま直進する。
鶏病予防 
 後で分かったことだが、このあたりから旧道が山の中を通っていたようだったが、この段階ではわからず舗装された道を通っていく。実は手持ちの地図ではここから先は道が記載されておらず、ちょっと不安に思っていたところだったのだが、しっかりとした舗装道が伸びているのでむしろホッとして歩いていったのだ。
 坂道を上って行くと、民家があり、女性が畑仕事をされていたので道をお聞きする。ここから先の道を最初は丁寧に教えてくれていたのだが、私が案内をしてあげようといわれて、一緒に歩いてくれたので助かった。
 その先の突き当たりで左折して進むと、二股に分かれているところがあり、左へ下っていくと、そこに左手から旧道が合流していた。
左へ下っていくと 
 ここで初めて先ほどの養鶏場のところから旧道が伸びていたことが分かった。ただ、後で思い返してみても旧道の入り口がどこだったのかはわからなかった。養鶏場
 右手に「ようじ岩」がある。このあたりで化け物をみたという人がいて人々は恐れていたため、ある侍が化け物退治に乗り出し、一人ででかけた。やがて化け物が現れたため、切り倒すとそこには二つに切り裂かれた大きな岩があったという。実際に二つに割れた岩がそこにあったが、案内をしてくれた女性の言われるには、以前はいかにも刀で斬ったという感じの割れ目だったが、割れ目が以前より大きくなってきているということだった。岩を斬ったという刀はその後どなたかの蔵に置かれていたが、蔵が揺れるというようなことがあって、刀を他の場所に移すようなことが続き、現在ではどこにあるのか分からないということだ。
ようじ岩 
 ここから斜面をよじ登って先ほどの舗装道に合流する。
 その先で旧道は「岸静江の墓」のあるほうへ伸びていたそうだが、現在は建物が建っていて進めないため、遠回りをして新しい道に一旦合流、そこから右手へ旧道を戻るようにする。
 ここに「扇原関門跡」の説明板が立っている。それによると元治元年(1864)江戸幕府と長州藩が緊迫し始めたころ、浜田藩と津和野藩の藩境にあたるこの扇原に番所が設けられた。慶応2年(1866)横田を出発した大村益次郎の指揮する長州藩は扇原関門に迫ったが扇原関門の守岸静江国治は通過を許さず、戦闘が始まった。
 俗に「石州口の戦い」と言われ、大島口(周防大島)、芸州口(安芸)、小倉口(九州小倉)の戦いと併せ、四境戦争と呼び、第二次長州戦争の口火となった。圧倒的多数の敵兵を前に岸静江は仁王立ちのまま絶命したといわれており、その墓が立っている。
岸静江
 ここには「従是北濱田領」と刻まれた石柱と「従是南津和野領」と刻まれた石柱が別々に立っている。
従是北濱田領 
 ここで女性とお別れする。ここまでかなりの距離を案内していただいてありがたかったので、写真を撮らせて、というと、こんな野良仕事の格好でとんでもないと断られてしまった。この方はもともとこの地のご出身で、長い間関東に行かれていたのだが、ご両親が高齢になったことからこちらにもどられたということだった。本当にお世話になりました。
 新しい道に戻って下っていくと、左手に「大元神社」がある。ここは永世2年(1505)に村民の厚い信仰により、多田村大字大元に勧請、文政9年(1826)現在地に移転したということだ。
大元神社 
 ここの境内で昼食を食べる。今日も例によってパンだ。とにかく食事をする店がないので、昨日のうちに購入して持参しているのだ。
 多田温泉があり、そこの前を通って山際の道に出て進む。
 右手に「枕崎神社」がある。ここは奈良時代聖武天皇の天平年間(700年頃)に創建され、延長3年(925)稲虫が大発生したが、皆で一心に祈願してこれを乗り越え、その後稲積山に宮柱を造営、稲積神社と称した。興国2年(1341)この地へ遷座して枕崎神社と称するようになり、現在の社殿は明和8年(1771)に本殿、舞殿を造営、拝殿と鳥居は文化8年(1811)に再建されたという歴史のある神社だ。
枕崎神社 
 益田高校へ行く道を横断し、その先二つ目の角を右折して進む。左手に益田本町の郵便局があるところから左折、益田川に架かる大橋を渡る。このあたりは中世の時代も七尾城下の益田本郷市と益田家の居館三宅御土居を結ぶ重要な道筋だったと説明されており、大橋の欄干には中世の益田家の家紋「丸に九枚笹」が使われている。これは竹〈笹)の持つ性質である長寿、瑞祥、武威、節度、猛々しさなどの意味が込められているということだ。
 益田川沿いに進み、二つ目の角を左折して進むと、右手に「万福寺」がある。ここの本堂は応安7年(1374)に益田七尾城11代城主益田兼見公により建立されたもので国指定重要文化財になっており、益田家の香華院〈菩提寺)とされている。またここの庭園は室町時代に雪舟禅師によって作られたものだ。
万福寺 
 その先で191号線を横断して進むと、「旧山陰道 辰ノ口」という案内板が立っている。ここは東に山陰道、北に久城に通じる道と二手に分かれており、あたかも龍が口を開けたようだったことから、「辰ノ口」といわれるようになったということだ。慶応2年(1866)の四境戦争石州口の戦いでこの場所は両軍入り乱れての壮絶な戦いの場になったということだ。
辰ノ口 
 その先で峠山道に入るが、このあたりには標柱が立っていて分かりやすい。現在は青葉台団地ができているが、地図ではこの団地を抜けた先から道がなくなっていて、ここもちょっと不安を感じていた場所だった。
峠山道 
 しかし峠山に入るまで標識が立っており、山に入ると後は一本道で間違うことはなく、またきれいに整備された道になっていて歩きやすかった。
一本道 
 山を下ったところにも標柱が立っていて、反対側から峠を越える場合にもちゃんと対応されていた。
標柱 
 その先で9号線に合流するのだが、この場所が先日歩いた仏坂道との合流点だ。ここで沢江さんへ電話を入れると、そのすぐ先に店があり、そこに待っていて欲しいということだったので、そこで合流する。事前調査の段階で沢江さんと知り合い、このあたりの情報にとてもお詳しいので、今日これから行く鎌手峠を案内していただくことになっていたのだ。
 左手に「東方禅寺」がある。ここの裏に井戸があり、殿様がここを通るときはこの井戸の水でお茶をたて、休んだという。
東方禅寺 
 その先に十字路があって左折すると広島、萩方面へ向かう新しい道ができていた。以前はもう少し手前から右斜めへ進む道があったが、整備事業で今はなくなってしまっていた。この十字路を右折して進み、突き当たりを左折、
 すぐ先を右折して坂を上って行く。このあたりから先も地図の縮尺が大きくて、道があまり掲載されておらず、分かりにくかったので、沢江さんに案内をしていただいて助かった。
すぐ先を右折 
 右手に「稲成神社」という小さな祠が立っており、その先で道は二股に分かれており、これを右へ進む。
稲成神社 
 角に「三界万霊塔」が立っており、お花が活けられていた。これは天保の大飢饉の時、行き倒れになった旅人の墓ということだ。益田は平安末期から安土桃山時代にかけて朝鮮や明との貿易を行って非常に繁栄をした都市だったというようなことを沢江さんからお聞きしながら進んでいく。
三界万霊塔 
 「鹿田峠」の標柱が立っている。所々にこのような標柱が立っている。
鹿田峠 
 直進して行くと一軒の家があり、その先から左折する土道があるので、これを進んでいく。
直進して行くと 
 9号線に出るので、これを横断し、突き当りを右折して進む。すぐ前は海だ。
 右手に「観音寺」がある。ここには藤棚があり、きれいな花を咲かせるということだ。今はまだ時期ではないので、花はなかったが、大きな藤棚だ。
藤棚 
 突き当たりを右へ行き、地下道でJRの線路を横断、その先の二股を右へ細い道を進む。右手に石見津田の駅が見える。最初は沢江さんとはこの駅の前で待ち合わせることにしていたのだが、早めに合流できてよかったと思った。これまで歩いてきた道を一人で歩くのはかなり厳しいものがある。
 この先も突き当たりを右へ進み、すぐ先を左折、突き当たりを左へ、と何度も道を曲がって進む。津田川に架かる津田峠橋を渡り、坂を上って行く。
 小さな峠を上って、下ると左手に矢富さんといわれる庄屋さんの家がある。
矢富家 
 その先で山道に入る。暫く行くと「旧山陰道 六斎道」と書かれた標柱が立っている。その先右手に「六斎塔」が立っており、宝永と刻まれている字を読み取ることができた。昔、大名行列の前を横切った女性が捕まった。そのとき、津田村に対して助命嘆願をすれば許してやるという藩の意向を村へのお咎めを恐れて無視し、その女性を見殺しにしてしまった。その女性は処刑される直前に津田村の人々を憎み、三回村を大火で焼き尽くすといって死んでいったという。その供養として造られたということだが、現在までに二度の大火に襲われており、三回目がいつ来るか心配だという。
六斎塔 
 この先草が刈られた道を進むが、この道は全くの藪になっていたところを沢江さんが切り開かれたということだ。かなりの距離があり、随分大変だったようだ。それでもこうして道を復元していただいているから歩くことが出来るのでありがたいことだ。
草が刈られた 
 木部の集落に出る。JRの踏切を渡り、9号線を横断して9号線の向こう側へ出、左折して坂を上って行く。「山陰道鎌手峠」の標柱が立っているところから右へ山道へ入って行く。
山陰道鎌手峠 
「木部分教場跡」の標柱が立っている。これを左に見ながら進んでいく。この後「釜口茶屋場跡」の標柱が立っており、その先で舗装された道に出てこれを進む。
釜口茶屋場跡
 更に「淨円寺跡」の標柱が立っており、「旅籠沖見屋跡」の標柱が立っている。こうして標柱が立っていると昔、街道沿いのこの場所に色々な建物が立っていて、それなりの賑わいがあったのだろうという想像が湧く。
 お地蔵様が祀られており、その横に「芋塚様」「山陰道は右」と書かれた標柱が立っている。
お地蔵様 
 ところが道はここで二股に分かれており、左手の道は上り、右手の道は下っている。
 これまできた道からみるとこの標識に従うと右へ下っているように見える。しかしこれは間違いで山陰道は左手の坂を上る道が正解だ。
芋塚様 
 ここでも沢江さんがおられたから助かったが、標識の書き方、立てる場所の難しさを感じた場所だった。ただこの道もきれいに整備されており、歩きやすい道だった。
ここでも 
 ダラダラとした坂を上って行くと「万葉の里 伎波都久の岡」という説明板が立っていて、ここ鎌手山は人麿の時代には伎波都久の岡と呼ばれていて、江戸時代の有名な地誌「石見八重葎」には石見名所36カ所の一つとしてここを紹介していると説明されていた。
 更にその先には「駕籠立松跡」「旧役場跡 加島屋敷跡」「旧役場跡 岡本屋跡」「旅籠仲出店跡」等の標柱が立っていた。鎌手集落のすぐ手前まできたところで「旅籠 新屋出店跡」の標柱が立っており、そこにお墓が立っていて、女性が掃除をされておられた。この方が鎌手峠を整備されているグループの一員ということだった。我々が峠を越えてきたことを知ると、喜んでくれた。自分達が整備した道をこうして利用してくれる人間がいるのを知ると嬉しいのだろう。
 その先で道は二股に分かれているので、ここは右へ直進し「馬橋」を渡って9号線に合流する。
 ここに沢江さんの奥さんが車で迎えに来られていたので、ここでお別れすることにする。沢江さんには本当にお世話になりました。地図には載っていない道がほとんどだったので、一人ではとても歩くことができなかったと思うので、ご案内をしていただいて有り難かった。記念に写真を取らせていただいてお別れする。
馬橋 
 ここから先はしばらく9号線を進み、左手に分岐する道があるので、これを進む。
ここから先はしばらく 
 左手に岡見小学校があり、その先に今日の宿があるので、ここに入る。

17時13分 まるやま旅館に到着する。

 本日の歩行時間   7時間35分。
 本日の歩数&距離  40805歩、28.2km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん