山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年04月16日(金)

下府~江津~温泉津

                     晴れ

 8時9分に下府駅を出発する。橋を渡って右折して下府川沿いを進み、すぐ先から右へカーブする9号線と分岐して直進する。下府川に架かる下府橋を渡り、最初の十字路を右折、下府豊ケ浦の信号で9号線と合流する。
 その先で旧道は9号線を離れて養護学校のほうへ向かっていたようだが、現在は家が建っていて、それらしい道はなかったし、市役所の方も道は失われているといわれていたので9号線を進む。
 その先、左手に石見国分寺跡があるようになっていたので、それを見ようと思って左折して進んでいると、地元の方がおられたので道をお聞きする。そうすると私が進んでいる道は分かり難いので、一旦9号線の近くまで戻って歩き直したほうがいいということを教えていただいたので、それに従って9号線の近くまで戻り、そこから左折して進む。
 その先の信号から左折して進むと左手に「井戸公頌徳碑」が立っている。井戸平左衛門正明公は享保17年(1732)の享保の大飢饉の際、石見銀山領の代官だったが、飢餓の迫った農民を救うため、穀倉を開いて食料を分け与え、年貢の取立てを免じ、更に甘藷の種芋を取り寄せて作付けさせて領内に一人の餓死者も出さないように心血を注いだ人物だ。甘藷はその後石見一円に広がり、その後の大飢饉にも多くの人々の命を救う重要な食料になったという。人々は井戸公のことを「芋代官」と呼んで追慕し、村ごとに頌徳碑を立てて、その遺徳を偲んだということだ。たしかに「泰雲殿」と刻まれたこの碑は各所で見られた。
井戸公頌徳碑 
 その横に「石見国分尼寺跡」がある。国分尼寺は天平13年(741)に聖武天皇の詔を受けて国分寺とともに国ごとに造られたものだが、石見国分尼寺跡は本格的な調査が行われていないため、その規模や伽藍配置等は明らかになっていないという。現在は空き地になっていて遺構は何も残っていない。
石見国分尼寺跡 
 その先右手に「六地蔵」があり、その先で二股に分かれているところを右へ進むと「石見国分寺跡」がある。
六地蔵 
 すぐ前に「金蔵寺」があり、この境内一帯が石見国分寺の跡として知られている。ここからは多量の瓦とともに7世紀後半の作と見られる銅造誕生釈迦仏立像が出土している。道路をはさんだ前にこの寺院へ供給する瓦を焼いた「石見国分寺瓦窯跡」がある。ただ、いずれも遺構は残っていない。
金蔵寺 
 9号線に合流する手前から左折して進むと石見海浜公園に入る。ここから旧道は海辺の道を通っていたようだが、地図には道は表示されていないので、そのまま直進し、テニスコートがあるところから右手に出ると土道が続いていたのでこれを進む。
テニスコート 
 その先で9号線に合流、川沿いに左折して進む。右手に歯科医師会館が見える。その先浜辺に近い道を進んでいく。左手は砂浜、その向こうは海だ。
 右手に「石仏」があり、祈冥福と刻まれていた。
祈冥福 
 その先で9号線に合流する。ここから先の波子地域は資料によると波子八幡宮の前を旧道が通っていたようだが、現在では道はなくなっているようなので9号線を進む。
 左手へ分岐する道があり、その角に「柿本人麻呂万葉道」「この先の岬、大崎鼻が幸の崎といわれる」と書かれた標柱が立っている。
柿本人麻呂万葉道 
 ここから9号線を離れて川波集落の中を歩く。おじいさんが畑仕事をしておられたので話をお聞きすると、戦争中はここに浜田21連隊の一個大隊が駐屯しており、戦後は米軍がここで演習をしていたというようなことを教えていただいた。
 9号線に合流し、歩道橋のあるところから9号線と分岐して右へ進む。敬川に架かる敬川橋を渡って進む。
 ここは江戸時代大変な難所で、明和7年(1770)大森代官が通行するときに新しい板橋を架け、茶屋二軒、雪隠〈便所)一軒を新設させたということだ。山の上に風力発電の風車が9基建っていた。このあたりは日本海から吹きつける風が強いのだろう。風車が9基 
 左手に「敬川八幡宮」がある。ここは正和5年(1316)宇屋川に沿っていた丘陵に鶴岡八幡宮から勧請され、明治13年に現在地へ奉遷したという。現在の社殿は山陰豪雨の被害によって破壊されたため、その後再建されたという。
敬川八幡宮 
 その先で9号線に合流し、東青山のバス停から左カーブする9号線と分かれて直進する。小さな十字路があり、これを右折して進む。
 左手に「大年神社」がある。ここは神亀2年(725)に伊勢別宮から都濃郷大年免に勧請され、正徳元年(1711)現在地に鎮座したいう。安永8年(1779)の鳥居が立っていた。
大年神社 
 すぐ横に西方寺があり、地図ではその先で道がなくなっている。どうなっているのか分からないので、とにかく現地に行ってみて判断しようと思っていたが、とりあえず土道が伸びているのでこれを進む。
すぐ横に西方寺 
 途中から藪になるのかも知れないと思いながら進んでみたが、伊豫之国八十八箇所の祠がいくつもあって、そのまま突き抜けることができた。
伊豫之国八十八箇所の祠 
 やがて舗装された道になり、集落に入る。その先で街道から離れて「小川家雪舟庭園」を見に行く。この庭園は室町時代初期に作られ、文明・延徳年間(1469~92)に小川家に滞在していた雪舟によって改造されたと伝えられており、山陰地方屈指の名園として島根県第一号の名勝に指定されている。
小川家雪舟庭園 
 街道に戻って進むと右手に「地蔵堂」があり、その周囲にも石仏が置かれていた。
地蔵堂」があり 
 その先で一旦9号線に合流、西屋口のバス停から9号線と分岐して右へ進み、新川に突き当たる手前で右折、突き当たりを左折、小さな橋を渡り、右折して新川沿いに進む。次の信号で330号線を横断、江津バイバスの高架下を通って新川沿いに進む。その先で二股に分かれているところを左へ進むと、山の中へ坂道を上って行く。
 左手に江津市指定建造物である「土床坂の領界標柱」があり、「従是西濱田領」と刻まれている。これの建設時期は不明ということだが、ここは天領〈銀山領)と濱田藩の引継地となっていて、度々引継の問題が起こった場所ということだ。長州軍占領地から山口藩預かりになった慶応4年(1868)撤去を命じられたが、のち故地に復元され、その後道路改修により若干移動して現在地に置かれていると説明がされていた。ここまでが浜田領でこの間の道を浜田街道または浜田往還と呼ばれていた。
土床坂の領界標柱 
 ここから先、少しの間なのだが、道が地図に記載されていなかったため、どのようになっているのかなと思っていた。ところが坂を上りきったところからきれいな石畳の道が続いていたので、これを下っていく。
道が地図に 
 112号線に合流、突き当たりを左折して進む。左手に円覚寺、東向寺が並んであり、その先左手に「山辺神宮」がある。ここは延喜式神名帳に記載されている古い神社で、社伝によれば白雉3年(652)に石上神宮の分霊を勧請したとされている。宝暦4年(1754)や安政5年(1858)の鳥居が立っている。
山辺神宮 
 昭和47年の山陰大豪雨で社殿が崩壊、昭和50年に再建されたという。そのとき被災した太鼓が展示されていた。
被災した太鼓 
 江の川沿いに出るが、ここ江津本町は江戸時代には日本海沿岸交易や、江の川舟運の要所として、大森銀山に次ぎ、石見第二の賑わう町だったという。江の川には北前船や地元の廻船問屋持舟の船着場があったという。
江の川 
 新江川橋を渡って左折、JRのガード下を通って9号線を横断、さらにその先で渡津踏切でJRの線路を横断して302号線に合流する。
 右手に「青木秀清翁の碑」がある。医術修行のため長崎へ赴き、修行の傍ら甘藷の栽培法を研究、あの井戸代官が導入した甘藷栽培を成功に導いたという。文政、明治、昭和にそれぞれ建立されたという三つの碑が立っている。
青木秀清翁の碑 
 この先、道は一直線になっており、左手に長徳寺がある先から二股を右へ進む。やがて山の中へ入っていくが、きれいに舗装された道が続いている。ごくたまに車が通るが、だれもいない道、鶯の鳴き声だけが盛んに聞こえる気持のいい道だ。
 左手には海が広がっている。9号線を横断、浅利海水浴場というバス停から道は二股に分かれているので右へ進む。
左手には海 
 海岸に沿って風車が10基立っていて風を受けて勢い良く回っている。
海岸に沿って 
 その先で9号線に合流する。
 右手に寄江神社、西方寺があり、東浅利里道踏切でJRの線路を横断して進む。左手に厳島神社がある。このあたりも舗装されてはいるが人も車も通らない道だ。
 左手に石柱と地蔵堂があったが、石柱は劣化がひどく、なんと刻まれているのか分からなかった。
左手に石柱と地蔵堂 
 このあたりの道も旧道がどこなのかはっきりとは分からなかった。
 黒松に入って進んでいくと道路工事が行われていて、通行止めになっている。歩くこともできないのか聞くと、橋を架けなおしているので歩けないといわれたので、一旦手前の橋を渡り、その先で旧道に合流する。手前の橋から前方を見ると、確かに橋がなくなっていて、架け替えをしていた。
橋を架けなおしているので 
 左手に法正寺を見ながら進むと、土道になる。そこに「鉾ケ崎の碑」「井戸平左衛門頌徳碑」「旧温泉津街道」と書かれた標柱が立っていた。
土道になる 
 16時を過ぎて少し焦りが出てきた。今夜は温泉津に泊まろうと思っていたのだが、温泉津は学生のバスケットの試合が今日から日曜日まであるということで、どこも満員で宿が取れないのだ。そのためやむを得ず江津まで一旦戻って、そこの宿に泊まることにしたのだが、温泉津から江津へ戻るJRは18時4分の特急があり、その次が18時36分の普通列車、そして次は20時17分までないのだ。これは何としてでも18時36分に間に合わせないと、駅で2時間近く待たなければいけない。おそらく食事をする場所もない、ひょっとすると無人駅かもしれない〈実際無人駅だった)。そんなだ~れもいない、何らすることもない駅でじっと電車を待つなんてたまらない。そう思うとなんとしてでも18時36分に乗らなければと思って先を急ぐ。
 左手に「大歳神社」があり、その横から細い道が伸びている。
大歳神社 
 これが旧道?と思ったが、その道を進んでいくと車道に合流した。大田市も役所から詳細な地図を送っていただいたので歩く上で非常に助かった。この道もその地図に従って歩いたのだ。
 右手に恵比須神社があり、その先小川を渡って直進する。
線路の向こう側 
 JRの線路の向こう側に山道が見える。踏切はない。地図を見るとここが旧道のようだ。ただ、その先で藪になっているような感じがするなぁと思いながら見ていると、ご近所の方が来られたので、この道を進むことができるかお聞きすると、無理だろうということだった。とにかく時間がないので、ここで手間取るわけにはいかないので迂回することにする。
 湊橋を渡って進み、その先で旧道と合流するが、その先左手に福波小学校、温泉津中学校があり、
 その周囲を旧道が通っているように地図に記されているので、それに従って歩こうとしたが、かなり厳しく、特に小学校から中学校へ続くところは歩くことができなかった。仕方がないので、小学校の校庭の中を歩いていると、丁度先生と生徒が校庭に集まっているところで、なにをしているのだろう?という感じで皆がこちらを見ていた。
周囲を旧道 
 中学校の先で地図では山を越える道があると書かれていたので、それに従って行って見たが、すぐに全くの藪状態になっていて先へ進めないので、あきらめて9号線を進み、その先から旧道が左手の山際に伸びているので、これに合流する。合流するところに地元の方がおられたので、先ほど歩きかけた旧道があるのかお聞きしてみると、昔は人が通っていたので道はあったが、今は誰も通らないので、道はなくなっているだろうということだった。そちらのほうを見ると猪除けの囲いがしてあって、入れなくなっていた。
 その先で9号線に合流して進み、温泉津隧道を通るがここは歩道がなくてちょっと怖い道だ。
 その先、右手にガソリンスタンドがあるところから、左斜めへ202号線を進む。JRのガード下を通って右折し、温泉津駅へ向かう。時間を見ると18時4分はちょっと無理なようだが、36分には十分間に合いそうだと安心する。線路に沿うようにして歩いていくが、なぜか18時4分の列車が通らない。これはひょっとすると遅れが出ているのかもしれない。どうせなら少しでも早い電車に乗りたいと思って急ぐ。私の行動は何故いつもこんなにバタバタするのだろうとつくづく思う。
 駅に着くとアナウンスが流れている。無人駅なのだが、どこか別の場所から放送しているようだ。それによると特急は遅れているということだ。間に合ったのだ。15分遅れで電車がきたので、これに乗って江津駅へ戻る。

 18時07分 温泉津駅に着く。

 本日の歩行時間   9時間58分。
 本日の歩数&距離  56783歩、41.5km。

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