山陰道〈島根県)を歩く

2010年04月07日(水) ~2010年05月06日(木)
総歩数:394342歩 総距離:281.4km

2010年05月04日(火)

出雲~荘原~宍道 

                     晴れ

 11時3分に出雲駅に着く。街道を歩く前に折角出雲まできたので、「出雲大社」に参拝していくことにする。

日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年に出雲大社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡杵築大社」と記載され、名神大社に列している。江戸時代には社領五千石を有しており、明治4年に官幣大社となった。旧暦10月には全国から八百万の神々が集まり神議が行われるため、地方では神無月というが、出雲では神様がこの地に集まるため神在月と呼んで、旧暦10月11日~17日の間神在祭が執り行われる。
現在の本殿は延享元年(1744)に造られているが、本殿を始めとした境内全ての重要文化財等の社殿を修造する「平成の大遷宮」が行われており、本殿を見ることはできなかった。連休中ということもあってか、大勢の参拝者が出ており、学生時代に山陰を旅行した時、ここに立ち寄ったことを思い出す。
出雲大社 現在の本殿

 13時25分に出雲駅から街道を歩き始める。今夜は出雲に宿泊するため、荷物を宿に預けて身軽になって歩き始める。
 右手に「日吉神社」がある。宝徳2年(1450)市場の神様として摂津西成の山王神社を勧請、安永3年(1774)に現在地へ移ったという。
 その先で一畑電鉄の高架下を通って進むと、右手に「大念寺」がある。ここは享徳元年(1452)に尼子持久の弟がそれまであった庵を寺院としたもので、承応年間(1652~1654)に寺は南の稲荷山に移ったという。ここに古墳時代後期(6世紀中頃)の今市大念寺古墳がある。石室の規模や副葬品の豪華さから、この古墳には出雲西部全体を支配し、朝鮮半島などと交流をもった首長が葬られていたと思われているということだ。
大念寺
 大念寺から先、右折して上成橋を渡り、高瀬川に沿って進む。高瀬川とは京都の高瀬川を思い出させる名前だが、ここの流れも京都の高瀬川に似た感じだ。貞享4年(1687)に開削されたという。
高瀬川
 その先で高瀬川が右へカーブするところに信号があり、ここを左斜めへ進むが、この角に「大曲の道標」がある。それには「右 かけや みとや きすき」「左 松江 いせ」と刻まれている。
大曲の道標
 右手に「阿須利神社」がある。ここは天平5年(733)の「出雲風土記」に「阿須理社」という社名で記されており、延長5年(927)に作られた延喜式神名帳にも記載されている。明治23年に現在地に移転したという。この横の細道に入り、一畑電鉄の山廻2踏切を渡って進む。
阿須利神社
 右手、少し入ったところに「円光寺」がある。入口に「六地蔵」や一畑薬師の常夜燈が立っている。ここには三名水として西光寺の「雪の井」、涼池院の「花の井」と並び称される「月の井」があり、弘化3年(1846)に建立された石碑が立っている。筆者は貫名海屋という当時の天下三名筆といわれた人で、建立者は本中山八代の主である中山有久と説明されている。
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円光寺月の井

 右手に「光明寺」がある。このあたりには松並木があったが、明治元年西園寺鎮撫使が杵築大社から帰京するとき、邪魔になるとして伐られたという。
光明寺
 右手に「山田家本陣跡」がある。ここは松江藩松平治郷の時に大社参拝の途中の宿所として御成座敷と雪隠、湯殿などを増築し、本陣としたという。
山田家本陣跡
 その先で斐伊川に突き当たり、これを左折、神立橋を渡って進む。ここに神立の由来が書かれている。それによると、神代の昔から旧暦10月は全国の神々が出雲に集まるといわれているが、神々は出雲大社や佐太神社での各神事の後、万九千神社でお別れの宴を行い、このお社の神官が「お立ち、お立ち」と神等去出(からさで)を告げられると故郷へ旅立たれるという。この神等去出の日に神々がご出立ちになる地ということから神立といわれるようになったという。この先圃場整備で道は失われているようなので、併川の信号から右折して旧道により近い形でジグザグに進んでいく。
 そうした中「出西・伊波野一里塚」が残っているのでこれを見に行く。出雲国内の近世山陰道には22の一里塚があったが、国の史跡になっているのは安来、伊志見とこの出西・伊波野の三つという。ここは松江城から7里の位置にあるが、現在では二本の松の切り株だけが残っている。
出西・伊波野一里塚
 JRの踏切に突き当たるところの右手に「大光寺岩野薬師」がある。ここは聖武天皇の御代、行基菩薩がこの地方に来て刻まれた七仏薬師の一体と伝えられているということだ。この薬師如来は直江の洞にあったが、弘仁年中(810~824)にある娘が両親の供養のため自分の山へ持ち出して移した。ある夜、夢のお告げがあってある男と夫婦になり、二人で一堂を建立したことから妻薬師と呼ばれるようになったという。大光寺岩野薬師
 もっとも説明によると寺伝では薬師如来となっているが、本来は定印を結ぶ阿弥陀如来で手のひらに薬壷(やっこ)を乗せて薬師としたようだとなっていた。この地に薬師堂を建立したのは宝永3年(1706)という。
薬師如来
 八幡宮踏切でJRの線路を横断、線路沿いに進む。今日は祭日ということで、このあたりでは国旗を掲揚している家がかなりある。私の住んでいる付近では最近はめったに見ることがない光景だ。
新川沿いに その先で9号線を横断、新川沿いに進む。このあたりは一本道になっており、その中を黙々と歩いていくが、山の中と違い、周囲に人家が常にある。
 243号線に合流、斐川東中入口というバス停があり、その先の十字路を右折する。この道は天保2年~3年(1831~1832)以降に新川開削のため作られた道で、それ以前の道は完全に失われていて歩くことができない。
 新建川に架かる新橋を渡り、学頭の信号で9号線を横断、その先の新石川に架かる石川橋を渡って進む。左手に歯科医院があるところから右折して細い道に入って進み、十日市川に架かる大倉橋を渡り、大倉踏切でJRの線路を横断して進む。
 左手に藁葺きの家があったので、何だろうと思ってみてみたが、その前にある旅館の一部だった。
藁葺きの家
 右手に池を見ながら進んでいき、伊志見踏切でJRの線路を横断、9号線に合流する手前に「伊志見一里塚」がある。ここは松江城から5里のところにあるが、松は枯れてなくなっていた。
伊志見一里塚
 高速道路の高架下の手前の小佐々布踏切でJRの線路を横断、線路沿いに進み、二股があるのでこれを右へ進む。突き当たりを右折し、坂を上って57号線に合流する。
 この道路の沿線にはかなりの距離にわたってつつじが植えられており、この時期花がきれいだ。
つつじ
側には団地ができており、その団地が終わるところから左折する道があるので、これを進む。最初、左へ入ってそのまま57号線と併行して歩き始めたが、間違いに気がついて57号線と直角に分かれる山道があるので、これを進む。
 舗装された細道を進んでいくが、途中で二股に分かれているところがあり、右へ土道を進む。この道は地図に載っていなかった道だが、さほど荒れていなくて順調に歩くことができた。
右へ土道
 54号線を横断、多根踏切でJRの線路を横断、嵐橋を渡って進むと、右手角に道標があり、「右 大社」「左 廣島」と刻まれている。
右 大社」
 右手に「八雲本陣」の木幡家住宅がある。ここ宍道は山陰の東西と雲南・山陽方面との分岐点として栄えており、木幡家は江戸時代有力地主、商人として本陣宿も勤め、明治以降も島根県を代表する大地主として大きな影響力を持っていたということだ。
八雲本陣
 18時2分に宍道駅に到着、ここから出雲駅まで引き返す。

 本日の歩行時間   4時間37分。〈出雲大社へ行った部分は割愛して、街道を歩いた部分のみでカウントしています。
 本日の歩数&距離 32709歩、20.7km。     

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