羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月18日(金)

新庄~上台峠~金山~森合峠~主寝坂峠~及位

                                         雨

 7時35分に上茶屋町のバス停を出発する。
 太田踏切でJRの線路を横断した先、右手入ったところに「瑞雲院」があり、入り口に文政7年(1824)の「三界万霊」が立っている。ここは明徳元年(1390)に創建されたと伝えられており、新庄藩主戸沢家の菩提寺で、新庄藩11代の藩主のうち2代藩主正誠(上西山桂岳寺に墓所がある)を除く10代の藩主の6棟の御廟所がある。御霊屋はいずれも総欅造りで、宝暦元年(1704)の初代正盛他2基から寛政10年(1798)の8代正親、9代正胤、11代正実他3基があるが、全国に多数ある近世大名の墓の中で、藩主とその正室や子供、側室などが一緒に葬られているのは極めて珍しいという。歴史を感じさせる雰囲気が漂っていて、粛然とした気持ちになる。これまで色々な大名の墓所を見てきたが、このような墓所は初めて見た。
瑞雲院2
 その先右手に「会林寺」がある。ここは清水城主五代孫二郎義高の生母林殿の開基といわれ、永正17年(1520)に清水城外に建立され、寛文8年(1668)に現在地に移ったが、貞享4年(1687)に焼失、現在の伽藍は文化年間(1804~1818)に再建されたという。
会林寺2
 左手に「太田八幡宮」がある。境内には大欅が立っており、その下に安政3年(1856)の秋葉山碑、庚申塔2基、二十六夜塔が1基ある。二十六夜塔という月待ちは十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすることをいい、毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月、11月というように一定の月を祀る所が多くあるという。月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなどさまざまであり、講の組織になっていることが多くあったという。
太田八幡宮2
 その先、荒小屋バス停のところ左手に秋葉山碑、湯殿山碑、文久3年の餓死者を供養したという丸仏等の石碑群と4体の地蔵尊を安置した地蔵堂がある。
荒小屋バス停2
 左手に文化5年(1808)の庚申塔が1基立っている。
 その先で13号線に合流し、新泉田橋を渡って進む。
 小橋バス停横右手に小祠と万延2年(1861)の丸仏がある。
万延2年2
 右手民家の庭に「明治天皇御小憩所」碑が立っている。
明治天皇御小憩所2
 左手少し入ったところに「泉田八幡神社」がある。ここには馬標三階笠があるという。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、羽州角舘の城主であった戸沢盛安が一番乗りの功名をたて、それを本陣に知らせるために、とっさの思い付きで足軽の陣笠三枚を槍にさして振ったという。以来戸沢家の馬標は三階笠に制定されたという。現存の馬標は、11代藩主正実が明治戊辰の役で新庄城が落城し、秋田藩に退却するときに泉田八幡宮に預けていったものと伝えられているという。境内には大黒天や雷神などの十二基の石碑が立っている。
泉田八幡神社1泉田八幡神社2

 このあたり八重桜が満開を少し過ぎたころで、九州よりかなり遅い。花弁が雨に打たれて地面にびっしり散っていた。
八重桜2
 泉田の信号で街道から外れて右折して進むと、「旧矢作家住宅」がある。ここは明確な建築年代は明らかではないが、建物の規模・内部の間取りから、江戸時代中期の最上地方の上層農家住宅の構造をうかがうことができる建造物で重要文化財に指定されている。
旧矢作家住宅2
 松が一本だけ立っている。かっての街道並木の名残だ。
松が一本2
 13号線を進んでいき、上台峠の入り口近くで金山町役場の西田さんへ電話を入れた。明日雄勝峠を案内していただくことになっている方で、とりあえず上台峠の入り口の確認をさせていただこうと思って電話をしたのだが、ちょうど出かけるところで、そちらのほうへ行くので5分間ほど待っていてほしいといわれ、わざわざおいでいただいて峠の入り口と峠を抜けるまでのことを教えていただいた。入り口は赤坂の信号の先、13号線が左へカーブするところの右手に池があり、ここから13号線から分岐して右へ進む。
上台峠の入り口2月
 上台峠はきれいな道が続いており、道なりに進んでいくとT字路に突き当たるのでこれを左折する。ここに標柱が立っている。その先で左斜めへ旧道が残っており、看板が立っている。西田さんの話ではこの道は熊野神社へ続いているそうだが、今日の雨では長靴でなければ歩くことは厳しいだろうということだったので、舗装された道を進む。この場所が峠の頂上でここから道は下り坂になる。
 上台集落の入り口左手に「熊野神社」があり、境内に「力石」があり、さらにその上に「古峰神社」碑が立っている。
熊野神社2
 先ほどの旧道はここに通じているということだったが、どこになるのかよくわからなかった。更にここから山を登っていくと、上台集落を一望できる場所があると西田さんにお聞きしていたのだが、上に登る道もわからなかった。 
 集落の中を進んでいくと左手民家の庭に「明治天皇御小休所」碑が立っている。
「明治天皇2丁目
 右手に秋葉山碑、庚申塔、ほかに石碑が3基立っている。
右手に秋葉山碑2
 金山の信号から右折すると、すぐ右手に「幸福地蔵堂」があり、境内に庚申塔や石仏群がある。
幸福地蔵堂2
 金山町役場まで来たところで昼になったので、役場のロビーで持参したおにぎりを食べる。この辺りには食堂があった。
 金山も羽州街道の宿場があったところで、街道では重要な役割を果たしていたという。
 役場の前を進むと突当りに「万宝院」の長屋門がある。この長屋門は元和8年(1622)最上氏改易にともなって金山城が取り壊されたとき、その大手門をここに移築したと伝えられているという。昭和13年に万宝院は火災のため焼失したが、この長屋門は焼失を免れ、現在の金山地方では最も古い建造物の一つになっているという。
万宝院2
 その横に「金山八幡神社」がある。ここは天正のころ金山城主丹与惣左エ門が武運を願って八幡神を祀ったのが始まりと伝えられている。
金山八幡神社2
 街道はこの通りから一つ手前の道なので、一本道を戻る形で旧道に合流して進む。金山橋を渡って進むと右手に「円称寺」がある。ここは寛永14年(1528)に開基され、その後明和9年(1772)に現在地に移転建立されたという。境内に立っている大公孫樹は樹齢三百数十年で、初冬のころにこの葉が落ちつくさないうちは根雪にならないといわれ、町の人々の冬籠りの目安になっているという。
円称寺」2丁目
 右手に「仙台藩士戊辰戦歿碑」が立っている。これは薩長の新政府軍と戦った仙台藩が、ここ森合峠で戦死者33名を出して敗北、戦死者の遺骸をこの地に葬ったことから、明治25年に旧仙台藩有志によってこの場所に立てられたという。
仙台藩士戊辰戦歿碑2月
 その先で道は二股に分かれており、旧道は直進するそうだが、現在はその先で道が失われていて歩くことができないということなので、右へ進む。すぐ先左手に「新羽州街道跡」の看板が立っており、右手に「羽長坊の句碑」が立っている。西田羽長坊は享保時代の俳人だったという。
 その先に一軒の家が建っており、その前に左折する舗装された道があるので、これを進み、森合峠を登っていく。途中で右手に二か所「旧羽州街道」の標識が立っていて、草が刈られていたが、左手から合流する道が見当たらないので、入り口だったところのみを草を刈って記したもので、その先で道は歩くことができなくなっているようだった。そのため舗装された道を進む。
 右手に「佐竹義和公歌碑」が立っている。秋田藩九代藩主だった佐竹義和公は41年という短い生涯だったが、藩政改革を行い、藩中興の祖と敬慕されたといい、また文人として数多くの歌を詠まれたという。
佐竹義和公歌碑2丁目
 更に進んでいくと、左手に「田山花袋」の歌碑があり、その横に説明板が立っていて、「江戸時代初期以来、秋田藩への通路は有屋峠越えの廃止によって、この山峡を通るようになり、明治11年に英国婦人イザベラバードがここを通り、更に明治13年に三島県令がこの街道の大改修を行って、翌年の明治天皇行幸に備えた」という森合峠の説明が記されている。
 13号線に一旦合流するが、その先で左へ土道が伸びているので、これを進むと「日当たりの松並木」がある。
日当たりの松並木2
 この旧道は短くてすぐ先で13号線に合流する。合流点に「一里塚跡碑」が立っている。この碑の後ろに積まれているのは雪だ。後ろは除雪センターだったが、それでもまだこの時期にこれだけの雪が残っているのは、九州では想像もつかないことだ。
合流点に2
 山を下っていくと中田集落に入っていくが、その入り口に3体の地蔵尊を安置する「地蔵堂」と石碑が2基立っている。中田は新庄と院内の丁度中間にあたり、正規の宿駅ではないが、大名や一般旅人の休息の地になっていたという。
中田集落2
 右手階段を上っていくと「上中田弥彦神社」がある。ここは昔、越後から来た人が炭焼きをしていたが、郷里の弥彦神社を信仰し、神象を石で刻んで朝夕礼拝していた。後にこの炭焼きは中田に移り住み、その神象を村後ろの丘に祀ったのが始まりといわれており、文明8年(1416)の創建といわれている。創建時に植えたといわれる樹齢約300年の杉や欅が立っていて荘厳さと神秘感を与えており、これらの社木は町の天然記念物に指定されている。
上中田弥彦神社2
 集落の出口のところに3体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
集落の出口2
 主寝坂トンネルの入り口の右手に道があり、これが主寝坂峠の旧道のようだが、その先で道はなくなっていて、歩くことができないということなので、トンネルを通ることにする。時計を見ると15時30分だ。今日の予定である及位駅のJRの時間は16時32分があり、その次は17時42分までない。何とか16時32分に間に合わせようと先を急ぐ。及位の集落の中を進み、万代橋を渡った右手に「明治天皇御小憩所」碑が立っている。
右手に「明治天皇2丁目
 急ぎ足で進んでいくが、時間を見るとギリギリだ。ということはもし乗り遅れると一時間以上待たなければいけないので、更に急いだ。そして電車到着の5分前、16時27分に及位駅に到着する。
 及位駅は無人駅なのだが、その由来が書かれている。それによると、この地の北西、秋田県由利郡との境界線に男甑山(おとここしきやま)と女甑山(おんなこしきやま)の二つの山がそびえており、山岳修業が盛んだった時代、山麓に住み着いた修行者達は位の高い山伏をめざし、それぞれの山のより険しい断崖の端から宙づりになり、崖の横穴(赤穴)を覗き込む「のぞき」という修行に耐えていた。やがて修行者の一人は京に上り、時の天子から高い位を授かった。のぞきの行によって、高い位に及んだということから、この位が「及位(のぞき)」と呼ばれるようになったといい、駅名も及位駅(のぞきえき)となったという。

 16時27分に及位駅に着く。
 今日は終日雨の中を歩いた。幸い激しい雨ではなかったものの、やはり雨の中を歩くのはいやなものだ。

 本日の歩行時間   8時間52分。
 本日の歩数&距離  49960歩、33.9km。