羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月24日(木)

久保田(秋田)~土崎~追分~大久保

                                          晴

 7時50分に出発する。
 右手に「大町神明社」がある。関ヶ原以後、久保田藩(秋田藩)主佐竹公の国造りによって千秋公園(鎮守の丘)にあった神明社をこの地に遷座したという。
大町神明社2丁目
 旧大工町の標柱が立っている。昔大工が住む職人町だったことから、こう名付けられていると記されているが、この辺りにはこうした地名の由来を説明した標柱が数多く立っている。
 「八橋一里塚」という名前の信号がある。このあたりに一里塚があったようだ。
 左手少し入ったところに「日吉八幡神社」がある。ここは元享2年(1322)笹岡に勧請されたもので、その後移転を繰り返し、寛文2年(1662)に現在地に移転したという。この南側に以前、寿量院があったという。寿量院は天和2年(1682)に久保田藩主だった佐竹義処が幕府に二心ないことの証として建立したものだったが、明治になって廃寺になったという。日吉八幡神社の門はこの寿量院の山門を移築したものという。境内には秋田県唯一の木造朱塗り三重塔がある。
日吉八幡神社1日吉八幡神社2

 道を挟んだ反対側に「日本三庚申不動院」がある。ここの本尊は青面金剛童子で、これは日本三庚申の一つと云われ、天平の昔、天竺婆羅門僧正が日本に渡って奈良の大仏開眼法要の後、日本国土の開発を祈って三体の庚申尊像を彫刻し、大阪の四天王寺・近江国八坂の堂に安置、そして残る一体は、行基菩薩が羽後国秋田郡舞鶴に安置したものが、八橋の現在地に納まったと伝えられていたという。そのお像は明治19年の秋田の俵屋火事により焼失してしまったという。境内には数多くの庚申塔が立っている。
日本三庚申不動院1日本三庚申不動院2

 左手に「菅原神社」がある。ここは当初慶安年間(1648~1652)に天王村北野にあったといわれていた天神を川尻村箱岡に移し、箱岡天満宮と称していたが、延享3年(1746)に五代藩主佐竹義峯の命によって現在地に移したという。明治4年焼失したため、廃寺となっていた寿量院の御霊屋を移築して明治6年に再建し、今日に至っているという。境内には数多くの筆塚がある。
菅原神社2
 草生津川に架かる面影橋を渡るとすぐ左手に「題目石」があり、その奥に「宝塔寺」がある。ここは宝永7年(1710)に日蓮宗の僧が日蓮上人の像を祀り、塚原山宝塔寺としたのが始まりという。本堂は明治19年の俵屋火事により焼失したが、山門は元禄13年(1700)に建てられたもので、仁王像が安置されている。境内左手奥には七面宮があり、文久2年(1862)の題目石が立っている。  
宝塔寺2
 本堂から街道へ戻る途中の境内にある「石造り五重塔」は全国的にも珍しいもので、案内板によるとこの五重塔は花崗岩で出来ており、相輪の先端まで9m、第1層は1.85m四方という均衡のとれた精巧な造りになっている。建立の由来には西国の商船が暴風雨によって難破しそうになった時、七面大明神に祈願して難を逃れたことからお礼として奉納したという。秋田市指定文化財に指定されている。
石造り五重塔2
 その先左手に「全良寺」がある。ここは承応3年(1654)秋田藩家老渋江内膳隆光が江戸で新洲祖嶺に帰依し,秋田に迎えて建立したという。入り口に「身代延命地蔵」があり、また境内には戊辰戦争で戦死した薩長土肥をはじめとする新政府側の戦死者を祀っている墓地がある。当初は523基(665霊)を祀っていたが、後に遺族がそれぞれの故郷に改葬したので、現在では323基(325霊)が弔われているという。
全良寺」1全良寺」2

 「油田の一本松」がある。これは秋田市の保存樹に指定されている。
油田の一本松2月
 ここはY字路になっているので、左へ進むと、左手に弘化2年(1846)の太平山碑、弘化3年(1847)の「蜆塚」そして「鶏卵塚」がある。蜆(シジミ)や鶏の供養碑だが、あまり他では見かけないものだ。
蜆塚」そして「鶏卵塚2丁目
 左手に「仙台藩殉難碑」が立っている。戊辰戦争の時、秋田藩は奥羽越列藩同盟(旧幕府軍)に味方するか、新政府側に味方するかで迷っていると、仙台藩が旧幕府軍に味方するようにという使者を送ってきた。政府側に味方をしたいと思っていた若い武士たちは反発して、この使者を全員斬ってしまった。結局、この事件を契機として秋田藩は新政府軍へ参加することになったが、その後、この事件で命を落とした仙台藩士の供養のためにこの碑が建てられたという。
仙台藩殉難碑2
 左手に「西来院」がある。ここは補陀寺二世の無等良雄が創建したもので、当初は補陀寺の閑居寺だった。その後寛政年間(1789~1801)に現在地に移転したが、その際、法華経を一石に一字ずつ写して境内に敷き、その上に七堂伽藍を建立したという。
西来院2
 右手に「古四王神社」がある。ここは社伝では、崇神天皇の時代、四道将軍大彦命が蝦夷を平定するために北陸道に派遣されたとき、タケミカズチ神を祀り、その後阿倍比羅夫が秋田地方に来たときに自らの祖である大彦命を合祀して越王神社(古四王神社)として創建したとされている。
古四王神社2
 旧道はこの神社の横から左へ下る道を進むが、左手に「高清水」がある。阿倍比羅夫が秋田の浦に下向した時、越の王(大毘古)を高清水岡に祀ったが、その時突如として霊泉が亀とともに湧き出たと伝えられている。古四王神社の手洗い水として使用され、周辺の清流には山椒魚が生息しているという。ここには古い観音像が安置されている。
高清水2
 その先、伽羅橋という小さな橋を渡った先、右手の坂の上に江戸時代後期の旅行家だった「菅江真澄」の墓がある。
蒼龍寺2月
 その先を道なりに進むと、右手に地蔵堂があり、その入り口に元治元年(1864)の手水鉢がある。
 右手に「蒼龍寺」」がある。ここは湊安東氏の菩提寺だった湊福寺の後身で、安東氏の常陸国転封に伴って寺の本尊・住持も随従したため、その後衰退、その後延宝元年(1673)に再興され、蒼龍寺と改称したという。
蒼龍寺2
 その横に「浄円寺」がある。
 その先右手、街道から少し外れたところに「土崎神明社」がある。ここは中世秋田氏の居城跡で、江戸期に破壊されたという。
土崎神明社2
 相染新田踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に「花立地蔵堂」があり、文化9年(1812)の庚申塔、天保3年(1832)の猿田彦がある。
花立地蔵堂2丁目
 その先で7号線を横断して進むと、右手に庚申塔が立っており、その先にももう一基庚申塔が立っている。
 この辺りは閑静な住宅街だ。
 その先でいったん7号線に合流、新城川橋を渡ってすぐ先で7号線から分岐して左へ進むが、この分岐したところに黒松と文化9年(1812)の庚申塔を含む庚申塔群がある。
黒松と文化9年2月
 左手に願成寺があり、その先左手に「庚申塔群」と小祠がある。
 その先の追分の信号で7号線に合流するが、ここは男鹿街道との分岐点だったところだ。
 天王跨線橋でJRの線路を横断して進み、その先で7号線から分岐して左へ直進する。
 左手に「明治天皇北野御小休所」碑が立っている。
明治天皇北野御小休所2丁目
 左手に昭和町指定史跡になっている「菅原源八翁」の筆塚があり、その横に庚申塔がある。
 馬踏橋を渡って右折すると、左手に「円福寺」があり、その門前に「明治天皇大久保御小休所」碑が立っている。
円福寺明治天皇大久保御小休所

 14時29分に大久保駅に到着する。

 本日の歩行時間   6時間39分。
 本日の歩数&距離  38459歩、27km。

 夜「羽州街道をゆく」の著者である藤原さんがホテルまで訪ねてこられ、これから先歩く道について2万5千分の1の地図をもとに色々と教えていただいた。忙しい中、わざわざおいでいただいてありがたかった。