羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月20日(日)

 下湯沢~横手~六郷~下深沢

                                        晴

 7時37分に下湯沢駅を出発する。
13号線を進んでいくと右手に「鹿島様」がある。実物をみるのは初めてだが、かなり大きい。これは武神(いくさがみ)を象徴した藁人形で、東北地方の村落に多く祀られており、村落の入口に置いて、邪悪な霊や疫病の侵入を防ぐ目的があるという点では、道祖神に似ている。ここ岩崎地域には3体の鹿島様があるという。
鹿島様2
 跨線橋でJRの線路を越えるが、左手に真っ白に雪を被った鳥海山が見える。今日は霞んではいるものの頂上まで見ることができた。
鳥海山2
 跨線橋を渡ってすぐ右へ階段を下り、旧道に合流する。これを道なりに進んでいくと八幡神社に突き当たるので、ここを左折して進む。
 右手に鎮守新山神社があり、境内に出羽三山碑、三吉大神碑、そして小祠がある。
 十文字駅へ向かう道との交差点に「猩々碑」が立っており、「左ハゆざわ」「右よこて、うしろハますだ、まへハあさ舞」と刻まれていて道標になっている。昔、ここは広い野原で、吹雪の時などに道に迷う人がいたり、酒に酔って狐にだまされたなどの話があったため、増田通覚寺の天瑞和尚が文化8年(1811)にこれを建てたという。現在のものは模造碑で本来のものは十文字町幸福会館に保存されているという。
猩々碑2
 右手に「愛宕神社」がある。ここは天正・文禄の時代(1573~1597)に、このあたりを皆瀬川が流れていて、そこで三浦某という武士が死んだので、持仏堂を建て、後に開田が進んで産土の神として祀ったという。ここには宝暦元年(1751)に始まったという悪疫退散、五穀豊穣を祈願し、水ごりをもって丑の刻参りをする「梨木水かぶり」という行事が伝わっている。境内には文化5年(1808)の庚申塔、その横に馬頭観音、少し離れて嘉永3年(1850)の馬頭観音、文政9年(1826)、享和元年(1801)の石灯籠が立っている。
愛宕神社2
 すぐ先右手に地蔵堂があり、その先にも右手に地蔵堂がある。どちらもかなりの大きさの地蔵堂だ。
右手に地蔵堂2
 石成の信号の左手に「明治天皇醍醐御小休所」碑が立っている。
明治天皇醍醐2
 金屋入り口の信号の先から13号線から分岐して右へ進む道があるので、これを進んだが、線路に突き当たってしまった。引き返すかどうか迷ったが、線路の向こう側に道が見えているので、踏切のない線路を越えてその先の道に合流,その先で13号線に合流する。
 そのまま進んでいくと、右手に栄小学校へ向かう道があり、地元の方にお聞きすると、その道の角の家が「持田の本陣の家」とか「持田の茶屋」と呼ばれる家だと教えてくれた。ここは秋田藩主の御休憩場所だったということだ。
 左手に「栄神社」がある。ここは太子堂とも呼ばれており、延徳から明応のころ(1489~1501)3人の苦行僧が大屋新町の正伝寺に修行に来たとき、木像の聖徳太子像を奉納したという。大正2年に六部落の神祠を合社して栄神社と改称した。
栄神社2
 美砂古の信号を渡ったすぐ左手に「美砂古の清水」があり、その横に地蔵堂と山神を安置する祠がある。 
美砂古の清水1美砂古の清水2

  その先で横手城下町へ入っていく。羽州街道踏切でJRの線路を横断して進むと、右手に「横手神明社」があり、お祭りがあるようで、宮司さんや地元の方が集まっていた。ここの境内には元治元年(1864)や安政6年(1859)の石碑が立っている。すぐ横に金比羅神社があるが、このあたりに一里塚があったという。
横手神明社1横手神明社2

 ここで道は二股に分かれており、右へ直進するが、その分岐点に芭蕉の句碑が立っている。
 その先で道はT字型になっており、街道は右折するのだが、左折して「正平寺」へ向かう。ここは寛治年中(1089~1093)に小館三郎正衡が建立した大義寺が前身とされるが、文治5年(1189)の源頼朝の平泉攻撃の時以後荒廃していた。その後長禄2年(1458)に小野寺泰道が正平寺として現在地に再興し、大義寺にあった正衡廟を正して正衡大明神として祀ったという。境内に泰道の死後造った五輪塔がある。
正平寺2丁目
 お寺を出たところにお店があったので、ここで昼食にする。
 街道に戻って進むと、横手川に突き当たったところ右手に「蛇玉神社」がある。ここはスポットスタンプラリーの神社になっているようで、これまでも同様な標識を掲げた稲荷神社等を見かけた。
蛇玉神社2蛇玉神社1

 横手川に架かる蛇の崎橋を渡ると、その先突当りに「龍昌院」があり、入り口に「延命地蔵」がある。これは天保の飢饉で多数の餓死者が出たことを憐れんだ第十一代横手城主戸村義效が建立したという。
延命地蔵2
 その先で市街地から離れて坂を上っていくと、杉並木がある。昔の街道を彷彿とさせる道だ。
杉並木2
 その先で坂を下って13号線に合流する。
 杉沢橋を渡ったすぐ先に「一里塚跡」碑がある。近くにある高橋家は近年まで一里塚の家と呼ばれていたという説明がなされている。
一里塚跡碑2
 右手に「物見遺跡」の標柱が立っており、金沢柵の時代、この地域の什器類を生産した窯跡という説明がなされている。
 右手に「物見山入り口」の標柱が立っており、後三年の役の折りに清原氏が物見の兵をおいたので、この名前が生まれたと説明されており、更に明治天皇御膳水とも記されている。
 左手に金沢小学校を見ながら進むと、道は二股に分かれているので、右へ進むと、左手に木柱の一里塚跡碑が立っている。
 左手に金沢公園があったので入ってみると、「景正功名塚」がある。後三年の役に16歳で初陣した鎌倉権五郎景正が将軍源義家の命により、敵の屍をこの地に手厚く葬り、弔いのため塚の上に杉を植えた。その木は樹齢900年を超える巨木になったが、昭和23年の火災で焼けてしまい、現在では幹だけが残っている。金沢公園はこの功名塚を中心に設けたものという。
景正功名塚2
 右手に「光蓮寺」がある。ここは文明3年(1471)に加賀朝倉敏景の家臣が金沢中野に道場を開き、文明10年(1478)に後三年の役の死者供養のため、現在地に移ったという。
光蓮寺2
 右手に「金沢八幡宮」があり、嘉永7年(1854)の石灯籠が立っている。
金沢八幡宮2
 厨川を渡るが、この川は後三年の役で鎌倉権五郎景政が射抜かれた右目を洗ったところで、川には片目のかじかがいたと伝えられているという。
 その先右に入ったところに、小野小町の九十余歳の像があるという専光寺があるはずだと思っていったのだが、お寺はなくなっており、一部の墓地だけが残されていた。
 右手に「長安寺」がある。ここは大江広元の二男の九代の孫が奥州に開基し、天文年中(1532~1554)に金沢前郷に移り、その後現在地に移ったという。
長安寺2
 右手に「野荒町一里塚跡」の標柱が立っている。
 15時50分に今日の宿であるファミリーロッジ旅籠屋に到着するが、まだ早いので一息入れたのち、先へ進む。
 13号線から右へ分岐して直進すると、右手に慶応元年(1865)の題目石があり、すぐ横に正徳2年(1712)に建立されたという新町地蔵がある。このようなものは街道沿いにあることが多いので、何の疑いもなくそのまま直進したが、途中でおかしいと思いだして、地図を改めて見てみると間違っていることが分かったので、13号線から分岐したところまで一旦戻る。分岐したところからすぐ先で旧道は右折しなければいけなかったのだ。右手に六郷高校を見ながら進み、次の信号で左折する。資料ではこのあたりに本陣の跡があるはずだと思って注意をしながら進んでいると、地元の方がおられたので、道をお聞きする。とても親切な方で色々と教えていただいたが、とりあえずこの道を直進すると、左手に「美郷町 名木・古木 内宮社の桂」がある。 
 さらにその先左手に「熊谷松陰家塾交文舎跡」の標柱が立っている。熊谷家は代々学者の家でこの地で私塾を開いていたという。
 「どまん中」の標柱が立っている。この地、六郷宿は羽州街道のどまん中にあたり、各城下町を除けば、街道最大の宿場町だったという。どまん中といえば、東海道を歩いた時に袋井宿が東海道どまん中と称していたことを思い出した。
どまん中2
 左手に一本の松が立っており、その下に「六郷駅御本陣跡」の標柱が立っている。
六郷駅御本陣跡2
 その先左手に「ニテコ清水」がある。ここは六郷一の名水で名前の由来はアイヌ語でニクイコツ(森の水たまりの低地)といわれており、明治天皇御巡幸の際、この水を差し上げたという。
ニテコ清水2
 このあたり清水が豊富なようで、六郷湧水群の標識が立っている。
 右手に永泉寺を見ながら進み、その先で左折して13号線に合流する。
 右手に六郷町指定文化財になっている「一里塚」が残っている。
になっている一里塚2
 13号線を進んでいき、大曲BP南の信号で13号線から分岐して左へ直進し、17時36分に下深沢のバス停まで歩いたところで今日は終わる。

 本日の歩行時間   9時間59分。
 本日の歩数&距離 55237歩、36.6km。