羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月19日(土)

及位~雄勝峠~院内~湯沢~下湯沢

                                       曇後晴

 今日は山形県と秋田県の県境にある「雄勝峠」を越えるのだが、旧道が残っているということで、鐙さん、昨日お会いした西田さん、そして斉藤さんに案内をしていただくことになった。9時3分に駅に着くと、すでに皆さんが待っていてくださった。出発を前に駅前で写真を撮る。
出発前2
 この峠のことは8世紀の大野東人の東征の際に残された文書に「雄勝」の名が記されており、この頃に開削されたと思われるという。その後、慶長7年(1602)ごろに秋田に入部した佐竹氏が参勤交代の道として馬や籠が通れるように整備して羽州街道の一部としたといい、東北諸藩の参勤交代道として大いににぎわったそうだが、それでも道は険しくて「箱根の如き難関」と称されていたという。及位と院内には宿場が置かれ、新庄藩と秋田藩の関所があったという。
 旧道は駅から昨日歩いた道を少し戻って13号線から分岐して右へ進むが、ここまでは鐙さんの車に乗って移動する。9時9分に旧道の入り口を出発するが、ここは旧国道だったところなので舗装されている。ただ、今はだれも通らない道になっており、そのまま道を登っていくと、トンネルに突き当たる。現在はこのトンネルは通ることができなくなっていて、倉庫か何かに使われているようだ。
旧道はこのトンネルの左横から登って進むようで、江戸時代の旧道はそのまままっすぐに峠を越えていたということだが、今は道は全く失われている。今回我々が進んでいく道は明治の道で、この道はトンネルの右上を通っている。トンネルの左手横に「殉職之碑」が立っているが、トンネル工事で殉職をされた方々の慰霊碑なのだろう。
トンネルの左横殉職之碑

 ここから登っていき、藪をかき分けながら右手へ進み、崖をよじ登って明治の旧道に合流する。ここはかなり荒れてはいるが、一応道の形は残っているところがある。
 雄勝峠3
道順は目印がないので文字で書き表すことは無理だ。今日は道を熟知されておられる方に案内をしていただいているからこそ歩くことができる道だと思う。しばらく荒れた道を進んでいき、峠の頂上あたりまで来ると、道は掘割になっていて、あまり荒れていないので、ここで写真を撮って「毎日の様子」に掲載する。
 峠を越えると秋田県に入る。やがて沢に下るところに来るが、ここにはまだかなりの雪が残っている。この箇所は土砂崩れがあったようで、道は完全に失われており、急な坂を下っていく。
沢に下1沢に下2

 ここを下っていくと杉の巨木が立っている。この峠は昔は杉峠と呼ばれていたほど杉が多いそうだが、その中でもこの杉が一番大きな杉だという。
杉の巨木2
 ここでトレッキングの集団と出会う。鐙さんのご存知の方がおられたようで話をされていた。いつものことだが鐙さんの交友関係の広さには驚くばかりだ。
 ここから小川を渡ってスノーシェードに入り、ようやく舗装された道になる。この道は先ほどのトンネルの先につながっている道だ。10時50分に雄勝峠の13号線のトンネルの出口に着く。旧道入り口から1時間41分が経過している。トンネルを車で通ると2分ぐらいしかかからないそうだが、山越えはそれなりに大変だった。ただ、道をよく御存知の方が一緒だったので、気持ちの上で楽だったし、楽しかった。
 ここで皆さんとお別れするが、ありがたいことに鐙さんが私の荷物を今日泊るホテルまで運んでくれることになった。実は数日前から肩の調子が急に悪くなって、カバンを担ぐと肩がたまらなく痛いのだ。初めての経験なのだが、原因は不明。手は上がるので五十肩ではないようだが、とにかく痛い。カバンを担がずに歩いていても痛いので、ここで荷物を運んでいただいたことはとてもありがたかった。
 13号線を進んでいくと、右手に「明治天皇駐輦之処」碑が立っている。今日歩いた道は明治天皇が行幸の際、歩かれた道だったのだ。 
右手に明治天皇2
 13号線を進んでいくと、左手、線路を越えた向こう側に「山ノ神神社」があり、馬頭観音があった。
山ノ神神社2
 上院内踏切でJRの線路を横断し、13号線と分岐するが、ここに「院内関址」碑が立っている。ここは慶長13年(1608)に設けられた関所で、主として浪人の取り締まりと院内銀山の警備が重要な役割だったという。明治戊辰の役では院内所領大山氏が仙台藩探索人青山六ノ丞を処刑した場所で、今もその石碑が残っている。
院内関址2月
 雄物川に架かる中の橋を渡って院内の集落の中を進む。
 左手に「コロリ地蔵」がある。これは江戸時代中期に愛宕神社別当の阿闍梨渕清という僧が参詣者の安楽往生を願い、即身成仏を遂げたといわれ、人々がその徳を偲んで建立したと伝えられている。
コロリ地蔵2
 その横に「愛宕神社」がある。ここには県指定文化財になっている「木造十一面観音菩薩立像」があるという。境内には安政5年(1858)の出羽三山碑や安政2年(1855)の牛馬供養塔、嘉永5年(1852)の養蚕供養塔等がある。
愛宕神社2
 愛宕神社の横の雄物川に架かる愛宕橋を渡って進むと、食堂が一軒だけあったので、ここで昼食にする。
 旧道は愛宕橋を渡らずにそのまま直進していたそうだが、明治14年の明治天皇御巡幸に際して愛宕橋を渡って院内の集落の中を通り、その先で常盤橋を渡って川向こうに出る道になったという。現在は旧道は道がなくなっていて通ることができない状態になっている。常盤橋を渡ったすぐ左手の家が本陣だった斉藤家だ。院内の集落を進むが、ここには妻入りの家が多く目につく。桂川橋を渡り、その先で下院内の踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に庚申塔2基と出羽三山碑がある。
左手に庚申塔2基2
 右手に「誓願寺」がある。ここの本尊は「木造阿弥陀如来坐像」で、これは慶長12年(1607)に院内銀山町に建立された西光寺の本尊だったが、大正時代末期に廃寺となる際、誓願寺に移されたという。ちょうどお寺の方がおられたので拝ませていただいた。
誓願寺誓願寺本尊

 横堀の信号から左折して進むが、このあたりも妻入りの家が数多くある。
 右手少し入ったところに「小野堂(芍薬塚)」がある。小野小町は大同4年(809)に出羽国福富の荘(現雄勝町)に生まれ、13歳で京へのぼり、その後20数年間宮廷に宮仕えをした。しかし36歳になって郷里へ帰り、静かに暮らしていたが、小町に想いを寄せていた深草少将は急ぎ東下をし、百夜通いの逸話を残し九十九日目の夜、降り続いた雨の中、森子川にかかった橋とともに流されて亡くなってしまった。これを聞いた小町は嘆き悲しみ、少将の亡骸を森子山(二ツ森)に葬った。その後小町は、岩屋堂に住み、世を避け香をたきながら1人自像を刻み、92歳で生涯を閉じたという。芍薬塚は深草少将が小野小町に送った芍薬を植えた場所と云われているが、現在ではその面影はなく、後年小町堂が建てられたが、これも最近建て換えられている。
小野堂2
 小野踏切でJRの線路を横断するとすぐ先に「熊野神社」がある。ここには「延暦21年御堂を建替えし、郡司良実建替え田村丸の寄進あり、当時瓦屋根で、この字は小通道(花木田、幅、町田)橋といった。熊野神社は東向き、和歌宮は西向きで、弘仁20年頃小町の京より下せん文など1ツ箱に入れ、和歌堂に入置していたが、文禄年間最上義光の兵火により両社共無残に焼き亡び、元和巳未年いまの社地に再建された。」という説明文が立っている。ただ弘仁は14年(823)までしかないのだが(?)。よくわからないため説明文をそのまま掲載させていただきます。
熊野神社2
 左手に「向野寺」がある。ここは小町の菩提寺といわれ、別当山の麓にあった寺で、その頃は小野寺とも言われていたという。ここには小町晩年の自作とされる木像の自蔵が安置されているという。
向野寺2
 その先で13号線に合流、高松川に架かる須川橋を渡る。右手に「雄勝宮東鳥海神社」鳥居が立っている。
 上関の信号のすぐ先から右折、すぐ先で左折して進むが、この辺りは道がわかりにくく、よくわからなかった。
 その先で右折、第二大立踏切でJRの線路を横断するが、渡ったところ左手に「熊野神社」がある。
 そのまま直進し、湯沢横手道路の下を通って進み、右手に墓地があるところから左折して進む。ここの正面に享保2年(1717)の「大乗妙典七千部塔」が立っている。
「大乗妙典七千部塔2
 このあたりはりんご畑が続いており、農家の人が手入れをされていた。
戸沢川に架かる新木内橋を渡ると、右手入ったところに「薬師神社」があり、その入り口に「御機嫌坂記念公園」と刻まれた碑が立っている。資料によると佐竹氏が有屋峠を越え、雄勝平野の広がりを目にして喜んだということから御機嫌坂といわれていたようだ。
御機嫌坂2
 その先に石材店が数多く並んでいる。ここは元和元年(1615)、大阪落城の落武者山口幸市という会津の者がこの地で良質の砂岩を発見し、関口石と名づけたのが最初で、関口石は花崗岩と比べて加工しやすいため、色々な用途に利用されるようになったという。現在でも愛宕町の南端から関口まで13軒の石材業者が軒を連ねており、関口の石材街道と命名されている。  
 左手に「一里塚」跡があり、樹齢400年というツキの巨木が立っている。これは秋田県文化財に指定されている。
一里塚跡2
 すぐ先右手に嘉永4年(1851)の「二十三夜塔」がある。
二十三夜燈2
 その先で今日の宿である湯沢ロイヤルホテルに一旦入るが、今日はどうしても下湯沢駅まで行きたかったので、再度出かける。
 街道へ戻る途中に自転車店があったので、これだ!と思ってお願いをして一台借り、これで下湯沢駅まで行くことにした。このあたりもJRの本数が少なくて、この時間から下湯沢駅まで行くと、帰りの電車に丁度いい時間がなくてかなり駅で待たなければいけないようだったので、苦肉の策で自転車を借りたのだ。
 その先で13号線に合流する。
右手墓地の入り口に2体の石仏を安置した祠が立っている。
墓地の入り口2
 更にその先、右手に「庚申塔青面金剛」と石仏が1体ある。
庚申塔青面金剛2
 右手に「成沢八幡宮」があり、その先右手に庚申塔1基、石仏1体、石碑1基が立っている。
成沢八幡宮2丁目
 17時31分に下湯沢駅に到着、ここからホテルに引き返す。この間5.4kmを38分で走っている。

本日の歩行時間   8時間22分。
本日の歩数&距離 47607歩、36.2km。