羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月29日(火)

白沢~陣場~矢立峠~碇ケ関~唐牛~大鰐~石川

                              雨後曇

  7時28分に白沢駅を出発する。
 すぐ先で街道から外れて右折して進むと、「鹿戸野神社」がある。ここは文治5年(1189)源義経が蝦夷地に逃れるとき、家臣の亀井六郎重清が一寸八分の黄金像を納めたという伝説が残っているという。
鹿戸野神社2
 街道に戻って進むが、温度計が12℃を示していて肌寒い。
 7号線を進むと、左手に標柱が立っているので、左折して下内川を渡って山際まで進んでみたが、そこから先は道がないようだった。この標柱は、昔の街道は現在の白沢駅の手前で川を渡って川の向こう側を進み、この場所で現在の7号線に合流する道があったということを示すもののようだ。現在では川を渡ることができないので、この道は歩くことができない。
 7号線を進んでいくと寺ノ沢集落があるので、7号線から分岐して集落の中を進む。
 集落を抜けて7号線に合流したところで雨が降り出した。それもかなり強い雨だ。今回の旅は天候に恵まれてここまで来ることができたが、ついに雨の中を歩くことになった。
 右手に「白沢一里塚跡」碑が立っている。
白沢一里塚跡2
 右手に茂木神社がある。ここは村社となっている。
 右手に「長走風穴高山植物群落」がある。ここの風穴は、国見山から崩落した岩石が堆積してできた累石型風穴で、石の間から冷気が吹き出しており、外気温度が30度ある真夏であっても5~6度の冷気が吹き出すため、周辺の植生とは異なり標高1000m付近と同様の高山植物が育成しているという。
 その先で標柱が立っているので、それに従って7号線から分岐して左斜めへ進む。7号線を外れると車がほとんど通ってなくて、車の巻き上げる水しぶきから逃れることができてホッとする。
 陣場集落に入ると「多茂木一里塚跡」碑が立っている。陣場は南部、津軽、安東氏が対陣したことからその名が生じたという。
多茂木一里塚跡2
 今度渡橋を渡るが、珍しい名前だ。
 集落を抜けて7号線に合流して進んで行くと、矢立温泉の看板が立っており、ここから7号線から左へ分岐する。温泉の入り口に中村さんが待っていてくれた。中村さんは大館市議会の副議長をされておられる方で、矢立自然友の会の会長もされておられる方だ。今日は矢立峠を越えるに際して、鐙さんから紹介をしていただいて案内をしていただくことになっている。矢立峠には古羽州街道、明治新道(旧羽州街道)、そして旧国道の三本の道があるそうで、今日はその中で最も古い古羽州街道を案内していただくことになった。
 「矢立峠遊歩道案内図」が左手に立っており、このすぐ手前横から峠を登る。案内図の横に小さな標柱が立っており、「古街道跡へ上る入り口」と記されているが、気を付けないと見逃してしまいそうだ。ここから坂を登るのだが、まだ草を刈っていないということでちょっと見ただけでは道がよくわからない。ただ登り始めると木で作った階段があった。もう少し後に草を刈る予定だといわれていた。
矢立峠遊歩道案内図古街道跡へ上る入り口

 坂を上っていくが、一本道で毎年草を刈られておられるそうで、道ははっきりしていて歩きやすい。
一本道で2
 しばらく坂を登っていくとT字路になっており、遊歩道と合流する。ここに「矢立峠風景林とやすらぎの森」の説明板が立っており、周囲は樹齢300年~500年という天然秋田杉林になっている。ここを左折する。
矢立峠風景林とやすらぎの森2
その先で左折する道があるが、ここは直進する。 
やがて少し平らになっている場所が右手にある。ここが秋田藩御休憩所になっていたところで、参勤交代の時などはここで一息入れたということだ。
 ここから道は下り坂になるが、人ひとりが通れる幅の掘割になっており、それが現在でもきれいに残っている。 
掘割2丁目
 「矢立一里塚跡」碑が立っており、江戸から176里となっている。これは中村さんを中心とする矢立郷土会の皆さんが昨年11月8日に建立されたものだという。
矢立一里塚跡2月
 その先で道は二股に分かれている。ここは稜線を挟んで左手が秋田藩が、右手が津軽藩が通った道だという。お互い自領を通ったために道が二本できているそうで、その道はすぐ先で合流している。ただ、道を知らない人がここを通るときは迷うだろうなと思った。ここが藩境で現在の秋田県と青森県の県境でもある。
道は二股に2
 「矢立杉」がある。元慶4年(880)大館城主公家が津軽に軍を出して橘吉明を討伐して兵を引き上げるとき、大杉の根元に弓一張、矢一双を立て、奉納したことから矢立杉と呼ばれるようになったという。矢立峠はこの杉の名前から来たという。
 初代の杉は江戸時代にカミナリで焼け、二代目は第二次大戦の終戦の混乱の中で何者かに伐採されたため、現在三代目の杉を植えているという。この三代目の杉は中村さんが「この地で見つけた杉の苗」だそうで、これを鐙さん達とともにここに植えたという。まだ小さいが順調に育っていて百年後、二百年後が楽しみだ。また、この矢立杉の切株は長い間笹薮に埋もれていて気づかれなかったものを、近年になって中村さん達が見つけ出して現在のように皆にわかるようにされたという。このような活動が歴史を伝え継いでいくうえでとても大切なことだと思う。
矢立杉2
その先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
 津軽藩御小休処があり、津軽藩はこの地で休憩を取ったという。ここには吉田松陰の東北遊日記の説明板が立っており、そこに矢立峠の名前を一躍全国に知らしめた相馬大作のことが書かれており、中村さんにその事件のことを教えていただいた。本来ならば南部藩の家来だった津軽公が、独立して藩主になったことを快く思っていなかった相馬大作は、津軽藩主を襲撃しようとしたが、未遂に終わり処刑されたという。当時の資料ではその場所が矢立峠だったとなっていたため、その資料を読んだ吉田松陰がこの地を訪れたという。だが実際の場所は矢立峠とは異なる場所だったということだ。 
 ここで中村さんとお別れする。お忙しい中、わざわざここまで案内をしていただいてありがたかった。
 坂を下っていくと、「見返坂」の標柱が立っている。ここで振り返って故郷を眺めたのだろう。
 このあたりはかなりの急坂だが、階段が設置されていて歩きやすい。  草刈りをはじめこうした街道を維持する努力が継続して行われているので、昔のままの姿の街道が残されているのだろう。
 山を下ると見返橋がある。この辺りまで来ると雨はやみ、以後降ったりやんだりしたが、幸いひどい降りにはならなかった。その先で7号線に合流する。
 平川に架かる番所橋を渡った先、左手に「明治大帝御小休所址」碑が立っている。ここもこれまでの明治天皇の碑とは言葉も形も異なるものだった。
明治大帝御小休所址②
 碇ヶ関道の駅があり、ここに「高麗門」がある。この門は桃山時代以降の城郭建築に現れた様式で城郭外門として建てられている。碇ヶ関の関所は御本陣を控えた関所であるため、地域一帯は城下町の様相を呈して作られているという。なお、津軽藩内では参勤交代で碇ヶ関を通過する大名は弘前と黒石の津軽氏以外になかったため、領内での宿泊は碇ヶ関一泊限りで、それも御仮屋を使用したので、本陣、脇本陣等が立ち並ぶ東海道筋の宿駅とはかけ離れた状態にあったという。なお碇ケ関は大間越、野内とともに津軽三関の一つに数えられていた。
高麗門2
 碇ヶ関陸橋を渡って進むと、唐牛支所前バス停の手前から右斜めへ入る。ここはわかりにくく、最初は直進してしまった。唐牛集落の中を進んでいくと、右手に墓地があり、ここに寛政12年(1800)の「天明飢饉供養塔」が立っている。その横に寛政12年(1800)、寛政7年(1795)、天明6年(1786)と刻まれたお墓が立っている。この辺りに唐牛城があったという。
天明飢饉供養塔2丁目
 集落を抜けたところで7号線に合流、その先で右へ土道が分岐しているのでこれを進み、平川に架かる福島橋の手前で7号線に合流する。
その先で7号線が右へカーブするところから分岐して直進、大鰐温泉街を進む。右手に「大円寺」がある。ここの創建は延暦年間(782~806)、坂上田村麻呂が東夷東征の際、この地を訪れ戦勝祈願の為、阿闍羅山山頂に大日如来を安置したことが始まりと伝えられている。建久2年(1191)円智上人が阿闍羅山山頂から大日如来を蔵館に移し高伯寺を開山、足利尊氏によって指定された全国66ヶ所の安国寺のうちの1つだ。その後一時荒廃するが慶安3年(1650)3代弘前藩主津軽信義が帰依し、大日如来を京都で修復させ社殿を再建したという。明治時代初頭に発令された神仏分離令により、弘前城下にあった大円寺がこの地に移り現在に至っている。本尊の大日如来座像は鎌倉時代初期に制作されたもので、仏師・定朝様式の寄せ木造り、津軽地方最古の仏像として大変貴重なもので国指定重要文化財に指定されている。写真を撮らせていただいたが、暗くてうまく映っていなかった。ちょっと残念だ。
大円寺2月
 その横に羽州街道の石碑が立っている。
大鰐新道踏切でJRの線路を横断、更に大鰐県道踏切で弘南鉄道の踏切を横断、突き当りを左折する。宿川原のバス停の手前から右折し細道を進む。このあたり道がわかりにくく大分迷ったが、稲荷神社へ進む道を進んで、7号線のガード下を抜け、山際まで進んで左折、道なりに進む。
 7号線を横断して進み、その先で再び7号線に合流するが、この鯖石の信号のところに追分石があり、「追分 正面 碇ヶ関 左 弘前」と刻まれており、右も刻まれているが、劣化していて判読できない。
追分石2
 7号線を進み、弘前市に入るところから7号線から右斜めへ分岐、その先の石川入り口の信号で7号線を横断、平川に架かる御幸橋を渡って進み、JR石川駅を右手に見ながらもう少し先へ進み、弘南鉄道義塾高校前駅から出てきたところまで歩いて、17時13分、JR石川駅まで引き返して電車で大館駅まで戻る。

 本日の歩行時間   9時間45分。
 本日の歩数&距離 53690歩、37km。