羽州街道(南新庄~油川)を歩く

2012年05月17日(木) ~2012年06月09日(土)
総歩数:638862歩 総距離:450km

2012年05月22日(火)

峰吉川~境~和田~戸島~久保田(秋田)

                                         晴

 8時50分に峰ノ山の入り口を出発する。
 嘉永元年(1848)の白滝明神の石灯籠が道の両側に立っており、道は二股に分かれている。「白糸の滝 0.7km。」「峰吉川本村0.6km」と記された標柱が立っているので、矢印に従って左へ進み、山道を登っていく。
峰ノ山の入り口2
 すぐ先左手に「明治天皇御召換所址」碑が立っている。350名の随行員を伴ってここまで来られた天皇は板輿から馬車へ乗り換えられたが、その際御召換をされたという。
明治天皇御召換所址2
 右手には地蔵堂が4つある。
 緩やかな坂道を登っていくが、この坂は善知鳥坂と呼ばれている。やがてT字路に突き当たるので、右折して進んで行くと、右手下に池が見える。白糸の滝の池なのだろう。静かな山道で新緑がきれいだ。かわいい鶯の鳴き声も頻繁に聞こえてくる。
新緑がきれいだ2
 やがて展望台に着く。ここに「明治天皇御野立跡」碑が立っている。ここからは遠く鳥海山を望むことができ、絶景だ。
展望台2
 ここでも道は二股に分かれており、「至 上淀川 2.3km。」という標柱に従って左へ進む。
 山を下って10時2分に13号線に合流する。上淀川橋を渡ると、左手に13号線と並行して旧道が走っているのでこれを進み、淀川踏切でJRの線路を横断する。
 左手に「萬松寺」がある。ここの境内には「戊辰戦役無縁仏慰霊碑」がある。この辺りは慶応4年(1868年)の戊辰戦争で激戦地となり、幕府軍庄内藩の藩士53名がこの地で戦死した事を弔ってこの碑を建立したという。またここには大きな枝垂桜があるが、これは戊辰戦争で本堂、庫裏などが全焼し、枝垂桜も焼失したが、その株元より3本の萌芽があったので、それを1本に束ねて生育させたものという。
萬松寺1萬松寺2

 左手、民家の庭の前に「御膳水跡」碑が立っている。
 すぐ先、左手に「明治天皇行在所」碑が立っており、ここに境宿の本陣があった。
明治天皇行在所2
 左手、松並木の参道の先に「唐松神社」がある。ここの社殿はもと隣接する唐松山にあったが、延宝8年(1680)佐竹義処の命によって現在地に移ったという。推定樹齢100年~300年という松が八十数本立っており、県指定天然記念物になっている。
唐松神社1唐松神社2

 道なりに進んでいき、跨線橋を渡り、船岡川に架かる一の渡橋を渡る。
右手に多数の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
 その先で左折して進むと、左手に雷が使用した石棒があったと伝えられている「雷神社」がある。
「雷神社」2
 船岡踏切でJRの線路を横断し、その先で13号線に合流する。
 船沢集落の入り口で13号線から分岐して集落の中を通って進むが、集落の入り口右手上に庚申塔1基と石仏が2体安置されている。また集落の出口にも同様に右上に庚申塔1基と石仏2体があり、その横に「有縁無縁供養塔」が立っている。
船沢集落1船沢集落2

 集落を抜けると再び13号線に合流する。
 その先で河辺跨線橋を渡り、すぐ先で左折すると右手に数多くの地蔵尊を安置する地蔵堂があり、その横に庚申塔が安置されている。
 岩見川に架かる和田大橋を渡ったあたりから人家が増えてくる。その先にあったドライブインで昼食にする。
 左手に祠があり、庚申塔や金毘羅大権現碑等が安置されている。この辺りはこのような祠が目につく。
庚申塔や金毘羅大権現碑2
 右手前方に鎌倉武士ゆかりの寺といわれる陽田寺があるところから、13号線から分岐して左斜めへ進む。
 左手に和田駅を見ながら進むが、このあたりは和田宿があったところだ。その先で地下道でJRの線路を横断して進む。高速道路の下を通り、62号線から分岐して左斜めへ進む。岩田川に架かる中の橋を渡って進むが、ここで道を間違えた。61号線を横断して進まなければならないのだが、そのまま61号線を進んでしまったのだ。しばらく歩いて気が付いて戻るが、大分先へ進んでいたのでうんざりする。自分で道を間違ったので仕方がないのだが、歩いてきた道を後もどるのは本当に嫌だ。
 街道に戻って進むと、左手入ったところに「満蔵寺」がある。ここは源頼朝の家臣畠山氏の子孫といわれる豊島氏の菩提寺で、豊島館付近にある満蔵寺沢に天文3年(1534)に建立されたが、豊島氏が安東氏に敗れて荒廃していた。その後、安東氏に協力した羽川氏が下浜の羽川新館から戸島に移り満蔵寺を再興し、慶長12年(1607)に現地に移ったという。江戸時代末期になると近くの椿台に秋田新田藩が立藩し、満蔵寺は藩主佐竹義諶公の菩提所となり、現在も霊廟があるということだったので探してみたが、わからなかった。現在の本堂は宝暦10年(1760)、楼門は安政2年(1855)に建てられたものという。境内には文化3年(1806)の宝篋印塔が立っている。
「満蔵寺」1「満蔵寺」2

 このあたりが戸島宿のあったところだ。和田宿と戸島宿は月を二分して務めたという。岩見川に架かる豊成橋を渡り、その先で豊成踏切でJRの線路を横断して進む。集落を抜けたところ右手に地蔵堂があり、ここにも数多くの地蔵尊が安置されている。
 その先、左手に草に埋もれて「七庚申塔」があり、その横に祠がある。
七庚申塔2
 このあたりの庚申塔にはこのように「七庚申」とか「五庚申」とか刻まれているものが目に付く。 他の地域ではあまり見かけないものだ。庚申とは干支でいう庚申(かのえさる)のことで、普通は一年に六回あるが、年によって五回だったり七回だったりする。昔の人は「七庚申は世中が良い」=豊作で皆が潤うとか、「五庚申は世中が悪い」といったという。
 その先で61号線に合流し、道なりに進んでいくと、御所野ニュータウンの中を通る。この辺りは新興住宅街という感じだが、昔は大変な荒野だったという。左手横山バス停の横に「七庚申」があり、その横にも庚申塔がある。
七庚申塔2
 13号線を横断し、すぐ先を左折して砂利道を進む。この道は13号線に並行して伸びているので、これを進んでいくと、その先でJRの線路に突当るのだが踏切がない。仕方がないので線路を強制横断して進む。このような線路の横断のやり方は今回の旅で何回目かな?と思う。線路の向こう側にも道はあるので、これを進んでいく。
右手に「地蔵堂」があり、ここにも数多くの地蔵尊が安置されている。
13号線に合流する手前右手に出羽三山碑、庚申塔、弘化3年(1846)の山神宮碑と石仏が2体ある。
出羽三山碑2
 二ツ屋の信号で13号線から分岐して右へ直進し、猿田川に架かる御茶屋橋を渡り、羽州踏切でJRの線路を横断して進む。この御茶屋橋は佐竹氏が参勤交代の際、この橋の上でお茶を喫して、諸士と別れたことからその名前が付いたという。
 右手に熊野神社があり、その先で大平橋を渡る。
 左手に「弘願院」がある。ここは寛永5年(1628)に創建されたお寺で、元禄7年(1694)に現在地に移転したという。境内には萬霊等と刻まれた「天保飢饉の供養塔」が立っており、その他天保5年(1834)の名号石、天保10年(1839)の馬頭観音文政3年(1820)や弘化3年(1846)の庚申塔等数多くの石碑が立っている。
弘願院2月
 街道はここから右折して進む。
 右手に與次郎稲荷神社があり、ここから街道は左折して進む。
與次郎稲荷神社2
 旭川に架かる刈穂橋を渡ると、先日歩いた浜街道と合流する。旭南郵便局があるところから右折して進むと、右手に「明治天皇行在所碑」が立っている。
明治天皇行在所碑」が2
 その先、赤れんが郷土館を左に見ながら進み、秋田駅へ続く道のところで、18時41分今日は終わることにし、今日の宿である東横イン秋田駅東店がある秋田駅へ向かう。

 本日の歩行時間   11時間51分。
 本日の歩数&距離 56245歩、40,1km。

 翌日23日は丁度半分来たこともあって一日休養を取る。
夜、鐙さん、藤原さん、そして羽州街道を完全踏破されたという高橋さんと一緒に食事をしながら、街道話に花が咲く。こういった触れ合いが街道歩きの楽しさを倍加させてくれる。
夜、鐙さん、藤原さん