中山道を歩く

2007年05月11日(金) ~2007年05月30日(水)
総歩数:840178歩 総距離:571km

2007年05月29日(火)

高宮~愛知川~武佐~野州

                                     曇り

 明日は10km程を残すのみなので、実質的には今日が最後の歩きとなる。さすがに疲労はかなり溜まっており身体が重い。足をひねった後の足首の状態も余り芳しくない。でもここまできたのだ。もう一息がんばろう。
 7時05分にホテルを出て昨日歩いた高宮本陣跡まで歩く。今日は道がわかっているので丁度10分で着くことができた。ここから愛知川宿までほぼ一直線の道が続く。このあたりは平地で障害物もなかったので、このように直線道路を作ることができたのだろうと思う。直線に進むので道に迷うこともない。ただ車が多い。出勤時間帯だったから特にそうだったのかもしれないが、二台の車がようやくすれ違うことができる広さにひっきりなしに車が走る。歩道がないので危ない、怖い。
 左手に鈴鹿山脈を見ながら進む。二ヶ月前に東海道を歩いた時、あの峠を越えたことを思い出す。今日は曇っていて霞んで見える。
  道から少し入ったところに伊藤忠商事.・丸紅の創始者伊藤忠兵衛の碑があったが遠くから眺めただけ。現役時代であればあやかりたいと思って参拝するかもしれないが、引退した今ではもう関係なしということか。
 更に行くと江州音頭発祥の地の碑があった。この音頭は天正14年(1586年)戦火で焼けた観音堂再建に際し、余興で踊ったことが発端とのこと。随分古い話だ。
 ここから少し先に宇曽川に歌詰橋が架かっている。手持ちの資料によると平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が将門の首を京に運ぶ途中、ここで首が急に目を開き、秀郷に襲い掛かってきたので、秀郷は首に向かって「歌を詠んでほしい」というと、首は言葉に詰まって地面に落ちてしまったという話が残っているそうだ。
 9時丁度に愛知川宿を通る。
 高宮宿から1時間45分、13421歩。
ここは本陣の跡はなく問屋跡碑があったのでそこでカウントする。
FH020008-1
 「竹平楼」がある。ここは宝暦11年(1758年)創業で、現在は料亭になっており「明治天皇御聖蹟」の碑が立っている。
FH020007-1
 不飲川橋がある。この川で平将門の首を洗ったところ血で濁って飲めなくなったということだ。また平将門の首塚があったりと平将門に関する場所が多い。
 愛知川に架かる御幸橋を渡る。両岸に大きな常夜燈がある。弘化3年(1846年)に建立されたもので、睨み灯篭といわれているそうだ。
 右手に奥石神社という大きな神社がある。本殿は天正9年(1581年)信長が寄進したもので境内には賀茂真淵や本居宣長の歌碑がある。この神社の周囲は大きな森になっており老蘇の森と呼ばれている。昔ここは地が裂け水が湧いて湖になってしまったが石部大連が杉、松、檜を植えたところ大きな森になったと説明されている。

 11時23分武佐宿本陣跡を通る。
 愛知川から2時間23分、13807歩。

 「住蓮坊首洗塚」がある。法然上人の教えは既存勢力の強い反発を受けたが、次第にその勢力を増し、後鳥羽上皇の女官二人が法然の弟子である住蓮坊、安楽坊の信者となり、出家してしまった。上皇は怒ってこの二人の首を刎ねてしまい、、その首をここで洗ったということで塚ができている。何ともぶっそうな話ではある。
 武佐宿と守山宿の間の宿として賑わった鏡の宿跡がある。ここは源義経が宿泊した白木屋の館跡がある。
FH020006-1
 また、平家が稚児姿の牛若丸一行を追っていることを知った義経は、この地で前髪を落とし元服したという「鏡神社」があり、烏帽子を松に掛けて源氏再興を祈ったという烏帽子掛松があるなど、源義経関連の史跡が残されている。
FH020005-1

15時10分JR野州駅近くのホテルに到着する。
明日は守山宿と草津宿の二つ、約10kmを残すだけだ。

本日の歩行時間 8時間5分
本日の歩数&距離 48183歩(約32.8km)

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