中山道を歩く

2007年05月11日(金) ~2007年05月30日(水)
総歩数:840178歩 総距離:571km

2007年05月18日(金)

長久保~和田~下諏訪

                                    晴れ

 7時40分に出発する。同宿だった女性連はまだ食事中だったので挨拶をして先に出発する。
 長久保横町の信号で142号線に入り、その後すぐに152号線と合流する。車の流れが激しい。
 「四泊落合 標高650m」の標識がある。和田峠は1531mなのでここから約900m登ることになる。ここで国道と分かれて右に入ると四泊の一里塚跡の表示板が立っている。ただこの表示板は国道のほうを向いて立っているので旧道を歩いていると裏側しか見えない。どのように書かれているのかなと思って土手を少し登る。土手には表示板の前のほうに向かって草が倒れており人が歩いた痕跡が残っている。皆することは一緒なのだと少しおかしくなる。
 すぐ先にあるコンビニで昼食を買う。計算では峠の頂上で食べることになりそうだ。ここで再び国道と合流し、しばらく歩くと落合橋があるので、これを渡って信号青原から旧道に入る。旧道に入るといつものことだが急に車が少なくなって快適に歩くことができる。バス停があるが、これが小屋になっている。冬の寒さ、雪対策なのだろう。同じ風景を北海道を歩いたときに見たことを思い出す。
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 「三千僧接待碑」が左側にある。寛政年間(1795年)に諸国遍歴の僧侶に対する接待を発願して建立されたもので、当初は一千僧を目標としていたのだが、すぐに達成されたので三千僧に追加をした。そのため一千の一の字の上に二の字が追加されて三千になっていると説明されていた。そういわれれば確かに二の字は付け加えたような感じがしないでもない。それにしても当初の目標が容易に達成されたからといって、一気に目標を三倍にするとはすごいなと妙なところでカンシンする。
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 やがて「是より和田宿」と書かれた大きな標石が立っているところに来る。和田宿の入り口だ。
 追川橋のすぐ横に「かわち屋」があり黒耀石の石器資料館がある。中に入ると土間があり昔の農具が右手にかけられており、左手にはガラスケースに展示品が置いてあった。この地の黒耀石は品質が良かったようだ。
 9時25分和田宿本陣跡を通る。
 長久保宿から1時間48分、11557歩。
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 いよいよ前方に和田峠が迫ってきた。
 「鍛冶足の一里塚」に来る。日本橋から丁度五十里目の一里塚。気持ちの上でも一区切りだ。
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 やがて坂を登ると国道に合流する。国道は歩道がなく車がすぐ横を疾走していく。今日は天気が回復したので峠を越えるにはとてもありがたかったが、一方で朝から強風が吹き荒れている。台風並みの強風で山の木々が大きく揺れている。しかも向かい風なので中々前に進めないほどだ。何度も帽子を飛ばされそうになったので手に持って進む。
 唐沢口入口の標識から右の旧道に入り、坂を上って再び国道に合流すると、そこにも唐沢口入口の標識が立っていた。江戸からきても京都からきてもわかるようにしているのだろう。
 ここで後ろを振り返るとかなり登ってきたことがわかる。ゆるい坂が続いているので歩いているときはさほど感じないのだが、かなりの高さを登ってきているようだ。
 「男女倉口」で標高1100mの標示がされていた。

 観音坂で道は三方向に分かれており、有料道路の新和田トンネルは左折する。右手へ進むと「旧中山道」の標識がありここから山道に入っていく。
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 10時59分。いよいよ和田峠だ。ここから峠の上まで4.7kmと書かれていた。登りだしてすぐに「休み茶屋跡」があり、一冊のノートが置かれていた。壁に「視察者記録帳に記入してください」と和田村教育委員会の名前で張り紙がしてあった。ノートを見ると最後のページまでびっしり書き込みがなされている。最後のページは平成18年10月の日付だ。欄外にも2007年(平成19年)の日付で書き込みがあったりするが、もうこれ以上は書き込むことができなくなっている。ノートはほこりをかぶっていてかなり汚れている。これは回収しないのだろうか?何らかの目的があって「記入してください」と書いているのではないか。だったら最後まできちんと対処しなければ折角書き込んでくれた人に対して失礼なのではないか、などとつい厳しい目で見てしまう。イカンイカン。
 道は少しづつ登って行くがきれいに草が刈られており歩きやすい。だれもいない山道は静か。新緑が目に鮮やか。左側からは清らかな和田川のせせらぎが聞こえ、うぐいすがすぐ近くで鳴いている。こういう環境は人を詩人にするなぁ・・・と思いながら歩いていくと、突然はしごに板を乗せた仮橋に行き当たった。大雨で橋が流失したので気をつけて渡ってくださいと注意書きがあった。自然はとっても素敵だがこのように厳しい一面も持ち合わせているのだと改めて気づかされた。
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 「接待茶屋」で国道に一旦合流する。見ると一人の男性がペットボトルに水を汲んでいる。話を聞くと現在はどうなっているのかわからないが、以前はこの水は黒曜水という名前で販売されていたということだ。この方はペットボトルが何本も入ったダンボール箱をかなりの数持ってきておりそれに全て水を汲んでいた。一か月分の水を汲んで帰るそうだ。コーヒーを飲むとその違いがはっきりわかるという。私も飲んでみたがたしかに冷たくておいしかった。
 ここから再び山道に入る。古びて荒廃した避難小屋がある。なにから避難するのかなと思いながら通り過ぎると石畳の道になる。苔むした石が敷き詰めている。
 広原の一里塚を過ぎロッジ和田峠の前を通る。今は営業をやっていないようだった。
 12時07分東餅屋の立場跡を通る。昔、難所である和田峠の東西に力餅を食べさせる茶屋を設置させた名残りの場所で現在も一軒ドライブインがあり、力餅を食べさせてくれるようだったが寄らずに先に進む。ここまでくれば早く和田峠に到着したい。いつものせっかちが顔を覗かせる。
 ここからビーナスラインという名前の国道を越えて和田峠に向かう。まず最初は石畳の道を歩いて国道を横断する。これが1回目、2回目は国道の下のトンネルを通る。3回目、4回目、5回目と国道を横切り、合計5回横断する。国道はループ状にぐるぐる回っているのだが、旧道はそれを直線で貫いているのだ。ここで5,6人の女性グループと会う。昨夜は下諏訪に泊まったということだった。宿は中々良かったということだったので宿の名前を聞く。今夜の宿の予約をしていなかったので下諏訪に着いて結局その宿に泊まることにした。
 12時25分和田峠(古峠)に到着する。
 長久保宿から4時間45分かかっている。
標高1531m、中山道で最も高い峠ということで今日は天気もいいため素晴らしい眺望を期待していたのだが、峠は猛烈な強風が吹き荒れていた。下でもあれだけの強風が吹いていたので、この山の上では更にひどくても当然なのだろうが、それにしてもすごかった。賽の河原というところなのだろうか、草も何も生えていないところのほうに行って写真を撮ろうとした瞬間すごい風が来て、まっすぐに立っていることができなかった。かろうじて一枚写真を撮ったが、
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 これ以上は写真は無理とあきらめ、少しでも風のこないところを見つけて座りとりあえず昼食にする。汗びっしょりになっている身体に風が吹き付けてきて、体感温度は相当に低く寒い!震えながら食べて早々に下り始める。
 下り坂は上りと違ってかなりの急坂で岩がごろごろしている。諏訪側から登るときついだろうと思った。ただ標識は頻繁に立っているし一本道なので迷うことはない。国道のところまで降りてきたところで夫婦らしい二人に会う。これから登るというので、頑張ってくださいと言って分かれる。
 国道を横切って旧道に入りまた国道を横切って旧道に入ると西餅屋立場跡がある。ここを通って再度国道に出る。
 さて、ここからだ。HPや資料ではこれからの旧道は極めて危険であり、国道を下ることが勧められている。実際に「ここからは国道を歩いてください」と書かれた標識が立っている。資料を読んでみて、当初は「一人歩きのためもしものことがあると困るので大事をとって国道を歩こう」という気持ちと「折角なので挑戦してみよう」という気持ちが相半ばしていた。それがいざこの場所に来てみると、いつの間にか「ほかに歩いている人がいるのに自分に歩けないわけがない、しかも体力勝負だ。体育会系としては引くわけにいかない」という気持ちになってしまっていた。
とにかく行こう!
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 ということで下り始めるとすぐに五十三里目の「西餅屋の一里塚」があった。
 ここから下が危険な場所と書かれているので気を引き締めながら歩く。
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 HPに書かれている通り左側は切り立った崖で、かなり下のほうに谷川が流れている。道幅は狭く石がゴロゴロしているが人一人が歩くにはそれほど支障があるわけではない。
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 途中谷川へ注ぐ川の痕跡があったが、今日は水は流れていなかった。それから後も特に歩くことが大変だというような場所はなく、国道に出てしまった。国道に出ると、そこから先の旧道は不明のため国道を歩くようにという看板が立っていた。
 これで終わったのだ。気負いこんでいただけになんだかあっけない、拍子抜けするような感じだった。HPに書かれた方々はかなり前の情報が多かったので、その後に道を歩きやすく改修したのかもしれないし、歩くときの天候や環境によっても違うかもしれないので一概には言えないが、私の場合は全く問題なく歩くことができた。
 むしろその後の国道は歩道がなく、トラックが猛スピードで走っていてこちらのほうが怖かった。
 国道を下っていくと「水戸浪士の墓」があった。ここは元治元年(1864年)11月20日、水戸浪士の一行千余人勤皇の志を遂げようと和田峠を越えてきて、これを迎え撃った高島・松本両藩との間で激戦が繰り広げられた跡で、塚には討ち死にした浪士を葬り、桜を植え墓碑が立てられている。この戦いのことも「夜明け前」に詳しく書かれているが、旧暦のこの時期は現在では年末近く。十分な装備もなかった時代なのでさぞ寒かっただろうと思う。
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 ここからさらに行くと大きな産業廃棄物の焼却施設があり、旧道はその中を通っているようなので途中まで行ってみたが、工場の中を通ることになるので引き返して国道を歩く。
 国道の町屋敷というバス停から左に入ってしばらく歩くと、「木おとし坂」にでる。御柱祭りで有名なところだ。立派な碑が立っている。右側に御柱の実物が置いてある。
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 古い御柱なのだろうか、こうして実物を見ると実感が湧く。上から下をのぞくとかなりの急坂だ。ここをあの大きな柱とともに降りるのだから、降りるというより転がり落ちるというほうがぴったり来るだろう。
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 あの祭りでは死者がでると聞くがそれも当然だろうという気持ちになる。次に下に行き上を見上げてみる。坂の中腹あたりの横に人がいたのだが小さく見える。
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 実際の祭りを見ると壮観だろうと思う。夜宿でテレビを見ていると平成22年に行われる次回のお祭りの御柱祭りに使う木の仮選定が今日行われたというニュースが流れていた。
 五十五里の一里塚を過ぎ
 16時08分下諏訪本陣前を通る。
 和田宿から6時間43分、36413歩。
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 ここは先月の23日に甲州街道を歩いたときにきたところだ。もう一度ここに来るぞと思ってから約一ヶ月。こうしてきてみるとその間はあっという間だったが、無事予定通りに来ることができてよかった。あの時はここで終わりだったが、今回はまだ半分もきていない。先は長い。

 本宮(秋宮)に改めて参拝し、16時20分すぐ近くの宿に入る。
 今日は中山道最大の難所と位置づけていた和田峠を越えたのだが、思っていたほどのこともなく無事歩き終えることができた。これで碓氷峠、和田峠の二つの難所を超えたことになる。距離的にはまだまだだが、気持ちの上ではもう半分終わったような気持ちになる。

本日の歩行時間 8時間40分
本日の歩数&距離 48572歩(約33km)

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