中仙道を歩く

2007年05月11日(金) ~2007年05月30日(水)
総歩数:840178歩 総距離:571km

2007年05月16日(水)

JR高崎駅~JR横川駅~坂本~軽井沢~沓掛~追分~御代田

                                    晴れ

 JR高崎駅を6時57分発の横川行き始発列車で出発する。
 横川駅のすぐ近くまで来たところで電車が急に停まる。線路に人が入っていたので停車したということだったが、よく見ると昨日私が渡ったあの踏切のところだった。やはり!という感じだ。設備が中途半端だからこういうことが起こるのだと思う。あの踏切は廃止してしまったほうがいいのではないかと単純に思ってしまう。横川駅に着くと今度は停車位置がズレたといってドアが開かない。位置がずれたのであればすぐにもどせばいいと思うのだが、しばらく待って電車を少し後ろに戻し、ようやく降りることができた。朝からなんとなくトラブルが続く。
 7時40分ようやく横川駅からスタートする。歩き始めるとすぐに「横川茶屋本陣跡」がある。
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 またそのすぐ先に「碓氷関所跡」がある。関所資料館もあったが朝早いので開いていない。この関所は元和年間(1615年~1623年)にこの地に設置され「入鉄砲に出女」の取り締まりを担っていた。現在の関所は総欅材を使っていた当時の門柱、門扉を使って昭和34年に復元されたものだという説明書きがあった。
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 ここから少し先に今は使われていないJR「信越線」の線路がありこれを跨いで進む。この線は平成9年に廃線になったものだ。
 8時05分坂本宿下木戸を通り、
 8時15分坂本宿本陣跡を通る。
 松井田宿から2時間12分、15260歩。
 前方に「刎石山」が見える。
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 あの山を登り、更にその向こうに碓氷峠があるのだ。HPで色々な方が書かれているのを読むと、碓氷峠はかなりの難所らしい。
ヨシ!行くぞ!と気合を入れて歩く。
 坂本宿を抜けていくと右手に大きな円形タンクがある。ここで国道と分かれ中山道は左に進む。最初は溝の蓋の上を歩き、突き当りを左折して草道を歩く。少し行くと右手に上り坂があるので、これを登っていくと再び国道に行き当たり、これを横切って進むと、いよいよ登り口に差し掛かる。赤い車が一台停まっている。ここまで車で来てここから山を登ったのだろうか?
 道に「安政遠足」の表示板がいくつも設置されている。「安政遠足」は江戸時代、当時の安中藩主板倉勝明公が藩士の鍛錬のため、碓氷峠の熊野神社まで7里余りを徒歩競争させ、その着順を記録させたことが始まりで、日本のマラソンの発祥地といわれている。別名「侍マラソン」と言われる所以だ。この行事は現在も継続して行われており、今年は5月13日、つまり3日前に行われたそうだ。
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 8時25分登り始める。
 早速急坂だ。道端に落ちていた木の枝を杖代わりにして汗を流しながら登る。これを走って登るのは相当にハードだ。とてもじゃないが私には無理。25分歩いたところで「桂状摂理の岩」に到着する。桂状になった大きな岩だ。
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 ここで女性ばかりの4人のグループと一緒になる。地元の人たちで熊野神社まで登る予定だということだった。

 ここから5分ほどで「覗き」と呼ばれるところに着く。ここは樹木が途切れていて視界が開けており眼下にまっすぐに一本の道路が走っている。坂本宿だ。こうしてみるとかなりの高さがあることがわかる。登り口からここまで丁度30分ほどかかっているが、ただ覚悟していたほどではなく、もう着いたのかという感じだった。
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 少し行ったところに「風穴」と呼ばれるところがあり、更に「上り地蔵、下り地蔵」の標識があったが、どれがお地蔵さんなのかわからなかった。次に「刎石茶屋跡」があり、ここで休憩を取るという女性のグループと別れる。しばらく尾根伝いに平坦な道を歩いていくと、9時25分に「掘り切り」という場所に差し掛かる。
 ここは「天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めで北陸・信州軍を松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている」と書かれた説明板が立っていた。確かにここは人一人が通れる程の幅しかなく、両側はかなり切り立った崖なので大軍が押し寄せてきても、ここで行き詰ってしまうだろうと思わせる地形だった。
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 更に行くと「南向馬頭観音」があり、そのすぐ先に「北向馬頭観音」がある。馬頭観音のある場所は危険な場所だという意味があるそうだ。
 9時40分「座頭ころがし」に来る。名称はすごいが現在ではそれほどの厳しさはなかった。おそらく昔は相当に厳しい場所だったのだろう。
 なぜかこんな場所に廃車がある。HPを読んでみるとこの廃車はかなり前からあるようだ。こんなところまでどのようにして持ってきたのだろうかという疑問がわく。
「熊出没注意」の札が木にかけられている。もし熊に出会ったときは昔とった何とやらで拳法で戦うか、それとも逃げ出すか、いずれにしてもその時のことさと腹をくくる。

 9時50分栗が原を通る。明治8年群馬県最初の「見回り方屯所」があったそうで、これが交番のはじまりと書かれていた。
ここからしばらく平坦な道が続きやがて下り坂になる。誰もいない山の中、新緑が目に鮮やか。静かで気持ちがいい。
10時15分山中茶屋跡を通る。峠の真ん中にある茶屋で寅文2年(1662年)には13軒の茶屋があり、明治の頃には小学校もでき、児童25人がいたという。今もその頃の校舎の廃屋が残っている。こんな山の中で生活は大変だったのではないかと思う。P5160140-2
 10時35分、「和宮道と旧中山道」の分岐点に来る。皇女和宮が江戸に下る際に作られた迂回道ということなので京都側からいえば分岐点は峠のほうにあって、この場所は再び中山道に合流する場所ということになる。島崎藤村の「夜明け前」に和宮一行を迎えて中山道の宿場がその準備に大変だった様子が描かれているが、この道作りもその一環だったのだろう。本来であるならば東海道を通るはずの一行が中山道を通るのは志士浪人が御東下の阻止を計画するなど東海道は不穏であることによるとも書かれている。
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 中山道の道を歩き始めると6、7人のグループの人たちとすれ違う。「どちらから?」と聞かれたので「日本橋から」と答えると「一気にですか」と驚いていた。これまで歩いている人とはほとんど会うことがなったのだが、ここではこうして何組かの人達と会う。
 道は次第に下り坂になる。旅人が水に自らの姿を映してみたという化粧水跡を通ったが水は流れていなかった。10時55分人馬の労をねぎらったという「人馬施行所跡」を通る。ここは沢になっていて水が流れていた。橋はかかっていなかったので雨が降ると渡ることは大変だろう。
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 この場所が最も低いところで、ここから道は一気に上り坂になる。大きな倒木が道の上に倒れ掛かっていたりするし、道も細く、上り坂はかなりの急坂なので、ここを大勢の行列が通るのは大変だっただろうと思う。和宮道が新しく整備されたということもうなづける。
 15分ほど登ると熊野神社まで0.5kmと書かれた標識がありそれにしたがって行くと和宮道に合流する。
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 ここが京都から来た場合の分岐点になるところだ。ここから峠の頂上まではすぐそこだ。
 11時15分峠の頂上に着く。
 登り始めて2時間50分かかっている。
 1190mの峠はここに降った雨水が、日本海側と太平洋側とに分かれて流れる中央分水嶺となっている。
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 熊野神社に参拝後、茶屋でおいしい力餅とみそおでんを食べる。ここの店主と話をしていると私より二歳年上だそうで写真を撮ってくれ、その場で印刷をして渡してくれた。
 また芳名帳にもサインをする。色々と話をしているうちにすっかり長居をしてしまった。
その後、見晴台へ行く。遠方は少し霞んでいたがいい天気だったので景色がきれいだった。ここで写真を撮っていると最初に出会った女性のグループが登ってきた。彼女らはここから引き返すそうだ。
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 12時15分、見晴台へ左折した場所のところまで戻ると細い下り道がついており、そこから下っていく。
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 ここも道には倒木があったりしたが、道筋はきれいについており迷うようなことはなかった。しばらく下ったところに沢があったのでこれを下り、再び登ったところから先は、いきなりきれいな道ができていた。
 あまりにも簡単だったので旧中山道は本当にこの道で間違いがないのかな?と思いながら歩いていると工事をしている人がおられたので聞いてみた。そうするとよくわからないが、皆さんここを歩いていますよという。
 下りは相当に厳しいと覚悟していたのでなんだか拍子抜けしてしまった。12時38分遊歩道とそして国道とも合流する。このあたりは旧軽井沢聖沢別荘地となっており、別荘が散在している。
 やがて軽井沢の中心街に入る。平日なのに観光客なのだろうか人通りが多い。
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 本陣跡を探すが良くわからないので、観光会館に入って確認をするとCHURCHという建物があるところが本陣跡なのだが今は何も残っていないといわれる。
13時12分軽井沢宿を通る。
坂本宿から4時間57分、19685歩。

 軽井沢の中心街を抜けると静かな緑に包まれたところが続く。白樺林の中に別荘と思える建物が立っている。車の数もそんなに多くない。いい環境だ。気持ちがいい。
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 以前社員の結婚式に招かれて6月に軽井沢に来たことがあった。あの時も新緑がとてもきれいだったことを思い出しながら歩く。
 右手に軽井沢町歴史民族資料館があったので入り、自分が下ってきた道が本当に旧中山道だったのか確認をしてみたが、よくわからないということだった。

14時51分沓掛宿を通る。
軽井沢宿から1時間39分、8217歩。

 ここは草津へ行く草津道分去れがあり道標が立っている。ここから国道と分かれて左手前方へ進んでいく。このあたりから右手に浅間山が見える。いい姿をしているし車の流れも少なくしかも好天ということもあって歩いていて実に気持ちがいい。

 追分宿の手前に「浅間神社」がある。本殿は室町時代のもので町内の木造建築では最古のものであり、明治2年5月より浅間山の鳴動が特に激しくなり、その鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名とのこと。
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 一旦国道に合流ししばらく行くと日本橋から四十里目の「追分一里塚」があり、ここから再び国道を分かれて進むと追分宿だ。P5160171-1

 15時51分追分宿本陣跡を通る。
 沓掛宿から1時間、6959歩。
 油屋脇本陣跡は堀辰雄が「風立ちぬ」を執筆したところということだ 。
 
 日本橋から四十一里目になる御代田の一里塚を右に見て進むとしなの鉄道のガードがある。
 今日の宿はここから右手にいったところにある。

16時45分御代田の宿に入る。

本日の歩行時間  9時間5分
本日の歩数&距離 45605歩(約31km)

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