山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年10月14日(火)

JR西明石~JR須磨~明石~加古川~JR西明石

                                   雨

 昨日は須磨駅から西明石駅まで快速電車で帰ってきたので、今朝も快速に乗ろうとすると、朝の快速は須磨駅には止まらないということだった。朝と夕方では停車する駅が異なるようだ。普通電車に乗り7時50分に須磨駅に着く。
 小倉を出発するまでの予報では今週は雨は降らないということだったので安心していたが、今日は朝から雨模様。もっともあまり強い雨ではない。2号線に沿って歩いていくが、右手は須磨浦公園、左手には海が広がっている。ただあいにくの天気なので海は霞んでいるし、左手にJRの線路が通っており、その向こう側に防波堤が築かれているので、白砂清松で名高い須磨の海岸という雰囲気ではない。
 右手に「源平史蹟 戦いの濱」碑が立っている。
 「一の谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流に沿う地域で、この公園の東の境界にあたる。寿永3年(1184)2月7日の源平の戦いでは平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一の谷、本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。一の谷から西一帯の海岸は「海の濱」といわれ毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦いの中でも特筆される激戦の地であったことが偲ばれると説明されている。
源平史蹟戦の濱
 そのすぐ先に「敦盛塚石造五輪塔」がある。この五輪塔は花崗岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては岩清水八幡宮(京都府八幡市)に次ぎ、全国2位の規模を誇っている。紀年銘がなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式にやや古調がみられること、風・空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、室町時代末期から桃山時代の製作と思われる。この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に当時16歳の平敦盛が熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から敦盛塚と呼ばれるようになった。このほかに鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って弘安年間(1278~1288)に造立したなどの諸説があると説明されている。
 敦盛塚
 道路の温度計が9℃を示している。歩くには格好の気温だ。このあたりは海岸線のすぐ近くまで山が迫ってきており、僅かな隙間に家が立っており、その下にJRと山陽電鉄の線路、そして国道が走っている。
須磨海岸住宅
 この時間2号線の上り方向はかなりの渋滞で長い車の列ができていた。
 垂水に入ると右手に「海神社」がある。
 社伝によれば、神功皇后の三韓征伐からの帰途、当地の海上で暴風雨が起こって船が進めなくなったので、皇后が綿津見三神を祀ると暴風雨が治まった。そこでこの地に綿津見三神を祀る社殿を建てたのが当社の始まりという。「日本書紀」に記される廣田神社・生田神社・長田神社・住吉大社創建の記述とほぼ同様だが、日本書紀の当該箇所に海神社に関する記述はなく、大同元年(806)の「新抄格勅符抄」に出てくる記述が最も古いということだ。ここは海上交通の要地であることから、古くから海上鎮護の神として崇敬を受けた。中世以降、戦乱等のために社勢が衰えるが、天正11年(1587)に豊臣秀吉が祈祷料として垂水郷山内の山林を寄進、江戸時代にも歴代明石藩主が篤く崇敬し、毎年2月に参拝するのを通例としていたということだ。海神社
 左手にアジュール舞子という公園があり、前に海が広がっているので行ってみると、右手前方に明石海峡大橋が見える。
 明石橋
 その先左手に「孫文記念館」がある。ここは孫文を記念する日本で唯一の博物館で、もとは神戸で活躍した実業家呉錦堂の別荘「松風荘」だ。呉錦堂は故郷への思いをこめてここを「移情閣」と名づけた。大正2年(1913)に孫文が来日した際、神戸駐在の中国人や財界関係者がここに集まり、孫文と昼食を共にしたと説明されている。移情閣は平成5年に兵庫県の「重要有形文化財」に指定され、更に平成13年に国の「重要文化財」に指定された。
孫文記念館 
 「舞子延命地蔵」がある。その横に舞子延命地蔵構の名前で、「この地蔵様は延命地蔵です。文政8年、沖を通る船の安全と村の平穏を願って、明石藩の許しを受けて建立されました。昔は松の木の枝にできる榴のところを切ってきて(コツコツ)それで台座を叩きながら経や御真言をあげて拝んでいましたのを、戦後あるときからこのお地蔵様をタタキ地蔵などと呼び、無責任な案内者が木槌で叩いてみなさいといっているようですが、そのような風習はありませんので、叩かないでください。」という注意書きがあった。 
舞子延命地蔵
 その先で2号線から別れ、左手に伸びる旧道に入り、少し行くと右手に「舞子六神社」がある。丁度神主さんがおられたので由来をお聞きする。ここは約350年程前に猟師が取れた魚を奉納したことが始まりで、当初は小さな祠がある程度だったそうだ。今の社殿は明治40年ごろに建てられたそうだが、あちこちを新しい板で修理されている。震災のときに南北に社が揺れてかなり痛んだため南北方向の部分を主に修理されたそうだ。六神社というので、近くにあった六つの神社を統合されたのかと思ったが、イザナミ、イザナギ、天照大神等六柱の神様を祭っているとのことだった。思いがけず丁寧に対応をしていただき、色々とお話をしていただいたので、写真を撮らせていただいてお別れする。 
舞子六神社
 その先で2号線に合流して進むが、狩口の信号のところでY字路になっており、資料ではその右側を進むようになっている。ところが右手へ渡るための信号も歩道もない。信号が先に見えているが、かなりの距離がありそうだ。ガードレールを乗り越えて向こう側に渡ろうかと思っていると、「乱横断はやめましょう」の看板がかかっている。皆考えることは同じなのだと少しおかしくなる。
乱横断禁止
 仕方がないので、かなり先の信号まで行って道を渡り、2号線にようやく合流する。しかし、道が分かれるのだから、道路を渡る何らかの方法があればいいと思った。
 朝霧川を渡ってすぐに左折して旧道に再び入る。大きな題目石が立っていた。このあたりは古い町並みが続いている。
明石宿町並み
 明石宿の本陣が「大蔵会館」のところにあったようだが、うっかりしていてカウントしていない。ただ、GPSの記録から距離と時間だけは後でも調べることができた。
 10時51分、明石宿を通る。
 兵庫津宿から4時間59分、18.8km。

 右手に「八幡神社」がある。ここは推古天皇の頃、三韓から来襲した不死身の総大将鉄人を和坂で撃った越智益躬を祀っているが、鉄人が九州を通過したときこれを防ぐことができなかった者の末裔が、この神社の前を通るとき、馬、籠から下りて益躬に敬意を表していた。しかし次第にこうしたことを避けるため船で上る諸侯が出たりしたので、明石城主が気の毒に思い、越智神社を穂蓼八幡と改め、同時に宝永2年(1705)神社を建て直した。そのためその後は諸大名は馬、又は籠のまま通行するようになったと説明されていた。 
 八幡神社
 「稲爪神社」があるが、これも八幡神社と同様に越智益躬を祀っている。討伐を命じられた越智益躬は、故郷の大山祇神社の祭神である大山祇神に祈ったところ、鉄人が明石に着いた時、稲妻とともに大山祇神が姿を現し、鉄人の唯一の弱点である足裏を射よと告げた。これに驚いた鉄人を益躬が矢で射殺した。 越智益躬は大山祇神に感謝し、大山祇神が現れた地に大山祇神社を勧請したことに始まると伝えられている。天正6年(1578)高山右近の大蔵谷城攻めの兵火により社殿は焼失、寛永14年(1637)社殿を再建、更に昭和52年(1977)に再び焼失し、昭和54年(1979)に再建された。
 稲爪神社
 「大蔵院」がある。嘉吉元年(1441)赤松祐尚は大蔵谷に陣を構えたが、居城を三木城に移すとき陣屋のあとを寺院にした。ここの墓地には赤松祐尚夫妻の墓があり、夫妻の法号の「見江院」「大蔵院」が山号と寺名となっている。丁度葬儀が行われており、写真を撮ることは遠慮した。
  「大日本中央標準時子午線直過地識標」が立っている。明治21年(1888)から東経135度の子午線上の時刻が日本の標準時となっているが、この識標は明治43年(1910)に明石郡小学校の教師が建設費を負担して作られたということだ。
標準時子午線
 小雨が降り続いていて休憩する場所がない。どこか座る場所がないかと思いながら歩いていると検察庁があり、その入口に椅子がおいてあるのが見えたので、そこに入ってしばし休息をとる。さすがに独特の雰囲気がある。休ませてもらってこういうことをいうのもなんだが、こういう場所とはできればご縁を持ちたくないなぁと思った。
 左手に「光明寺」があり、境内に「光源氏月見の池」があった。光源氏がここで月見をしたと伝えられているそうだ。
光明寺
 明石の町のアーケード街を歩き、これが終わったところで明石川に架かる大観橋を渡る。突き当りを右折して進み、更に左折したところに「十輪寺」がある。ここには豊臣秀吉が戦勝を祈って手植えをした杉の苗木があり、それが25m程の大木になっていた。しかし戦火で寺は全て焼失、焼け残ったこの杉も片付けようとして中ほどに鋸を入れて切ろうとしたが、年寄りが「これは太閤さんの木なので残しておけ」といったので、残されたそうだ。いまでも幹の中ほどに鋸によって付けられた切れ目が残っている。
十輪寺 松
 左手坂の上に「坂上寺」があり、その登り口のところに「大師舊跡」と刻まれた安永9年(1780)の碑が立っている。ここは境内だけで四国八十八箇所参りができるようになっていた。
 坂上寺
 このあたりも旧道が続く。一旦西明石5丁目の信号で2号線に合流するが、すぐ先の松の内の信号から左斜めに伸びている旧道に再び入る。西明石駅のすぐ近くを通り、私の宿泊しているホテルの前を通る。「あ~、このままホテルに戻ってベットに寝転んだら、どんなに気持ちがいいだろう」とかなり切実に思う。しかしこの思いを振り切って前に進むと、2号線に合流する。その先の中谷東の信号で右折してすぐに左折する旧道があるが、距離は短くすぐに2号線に合流、すぐ先で再び左手に伸びる旧道に入るといった具合に2号線と旧道が頻繁に出入りを繰り返す。
 「常徳寺」を右手に見て進むと、その先に立派な屋敷が立っている。安藤家と表札がかかっている。
常徳寺 旧家
 大久保西の信号で2号線に合流、右手に富士通、コカコーラの大きな工場が続き、その先で右折する。なんとなく懐かしい臭いが漂ってきた。見ると左手に牛舎があり、かなりの数の牛がいた。ここから漂う臭いだったのだ。富士通、コカコーラといった企業の工場の横にこうした牛舎があるというコントラストがなんとなく面白かった。
 牛舎
 ここから再び旧道を歩く。静かだ。柿の実が色づき始めている。このあたりは池が多く道の両側に次々と現れてくる。昔は湿地帯だったのだろうか。
 左手墓地の中に貞和2年(1346)に花崗岩で作られた「五輪塔」が立っており、県指定文化財に指定されている。五輪塔は塔婆の一形式で空・風・火・水・地を表しており、高さ1.76mあるという説明がなされていた。
 五輪塔
  すぐ先の右手に「清水神社」ある。広い境内だ。ここに明石市指定文化財、無形民俗「清水のオクワハン」の案内板が立っている。これは農作業と関連する年中行事の一つで田植えを終えた祝いである「サナブリ」にあたる。伊勢講の講親4人が桑の木で作った小さな鍬「オクワハン」と御幣を持って水田を歩き、今後の稲作の無事を祈る行事ということだ。
清水神社
 この先、静かな旧道を黙々と歩く。長屋門のある立派な家が続いている。
長屋門
 喜瀬川に架かる土山橋を渡り、JRの踏切を渡って進むと「長松寺」がある。ここには「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の像が立っている。道元禅師が宋の天童山にいたとき、典座和尚が暑い真夏に苔を晒していた。それを見た道元禅師が年を尋ねると68歳と答えた。
 山僧云く「如何ぞ行者人工を使わざる」
 座 云く「他は是れ吾にあらず」
 山僧云く「老人家 如何なり。天日且つ恁のごとく熱し、如何ぞ恁地にする」
 座 云く「更に何れの時をか待たん」
とこの時の会話が書かれていた。
 「自分のことは自分でする」、「今できることは今する」ということか。
 長松寺
 その先、スーパーの大きな建物があり、その前に「五輪塔」が立っている。これは凝灰岩製で無銘のため造立年代は分からないが、室町時代初期に作られたものと思われているという説明がなされていた。
 スーパー前五輪塔
 ここから旧道は失われているのでスーパーの前から右折し、JRの線路に突き当たったところで左折、線路に沿って進む。スーパーの次に大きなマンションが立っており、そのマンションが終わったところで左折して進むと、途切れていた旧道に繋がっているのでここを右折して進む。
  「野口神社」があり、その前に道標が立っている。野口神社は約350年前に創建といわれているが、一説によればその昔、比叡山麓日吉神社より御分霊をお迎えし、のち四柱の神を合わせ祀ったともいわれている。山王五社宮といわれ権現号を称していたが、明治のはじめに野口神社と称するようになったという説明がなされていた。社殿は慶安4年(1651)に、鳥居は寛文6年(1666)に建てられたということだ。
野口神社
  その先右手に「教信寺」がある。ここは平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられている。教信上人は天和元年(781)に生まれ、加古川ではひたすら念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするものだった。貞観8年(866)自分の死期を悟った教信は妻と子に遺骸は鳥獣に施して欲しいと言い残して亡くなった。同じ時、僧勝如の夢に教信が表れ、自らの死を告げたため、弟子を加古川へ走らせると、そこには頭部だけがきれいに残った教信の遺骸があった。これが現在教信寺に伝わる教信頭部像といわれている。その後、清和天皇がこの地に伽藍を建てて観念寺とし、更に崇徳天皇が大治元年(1126)に念仏山教信寺と改めた。天下6年(1598)豊臣秀吉の三木城攻めで焼失したが元和年間(1615~1623)に再興されたと説明されている。
教信寺
 右手に「宝篋印塔」が立っている。これは完全な状態で保存されている。花崗岩製で南北朝~室町時代(14~15世紀)に作られた考えられており、県指定文化財となっている。
宝印塔
 右手に「胴切れ地蔵」がある。全長101cmの石材に全高67cmの地蔵菩薩が彫られており、石棺材を利用して作られたと思われている。このお地蔵さんを深く信仰していた人がうっかり殿様の行列の前を横切ったために、供侍に無礼打ちにあい、胴体を真っ二つに切られてしまった。ところがふと気がつくと自分の胴体はなんともなく、地蔵さんの胴が真っ二つになっていた。以来、地蔵さんが自分の身代わりになって下さったと、一層深く信仰するようになったと説明されている。
 胴切れ地蔵
 17時22分 JR加古川駅に着いたので、ここから西明石の宿まで引き返す。

  本日の歩行時間  9時間28分。
  本日の歩数&距離 54827歩、35.4km。  

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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん