山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年12月11日(木)

JR防府~戸田~富海~宮市~四辻~JR新山口

                                曇り一時雨

 戸田駅から昨日の街道地点まで戻って7時32分に出発する。
2号線を横断して直進すると道は次第に山の中に入っていく。
戸田 峠 
 坂道を上って行くと右手に西徳山総合グランドがあり、ここから下り坂になる。道はきれいに舗装されており、車もあまり通らないので歩きやすい。
 峠を下っていくと左手に「船山神社」がある。ここは建保4年(1216)流行病を治めるため、京都の祇園社の分霊を祀ったものである。その後、元徳2年(1330)に再建され、昭和58年に社殿が復興された。「地下上申」によると「平地に船形の山あり、それを舟形という。往古は舮田と書いていたが、いつの間にか間違い今では戸田と書いている」と記している。現在の戸田(へた)といわれる地名の発祥の地であって、伝説によるとスサノウノミコトが大陸から船でお帰りになる途中、迫(今の河内)に寄港された折、船形の丘を船形と名づけたと言われ、関連して礎石の伝説もあると説明されている。
船山神社 
 右手に「光西寺」がある。開基は宗興法師が天正5年(1577)に菅原に創建し、寛永10年(1633)二世尊雪法師が光西寺と改称すると同時に西阿高に移転して現在に至っている。
 享保17、18年(1732、33)二年続きの飢饉となり餓死するものもあった。湯野の人は南の戸田に行けば少しは食べ物があるだろうと動き、戸田の人は殿様のところだから少しは分けてもらえるだろうと湯野に向かって歩いたが、樋口あたりで力尽きて死亡する者があり、苦しさのあまり、法界淵に投身自殺する者もあったという。そのため、八世智観法師が餓死者の霊を弔うために石納塔を立てたと説明されている。
光西寺 
 右手に「宮島様」がある。実際は恵比寿様が安置されているので、どうして宮島様といわれるか定かではないが、水の中に柱を建てて祀られているから宮島様として信仰されているように思われると説明されている。昭和10年ごろまでは池には沢山の亀がいたという。
宮島様 
 「戊辰戦争凱旋記念碑」がその前に立っている。これは慶応3-4年(1867-8)奥州に出征した堅田領主(湯野、戸田)の兵が無事凱旋したのは氏神様のお陰であると感謝をして建てた戦勝記念碑である。
 戊辰戦争凱旋碑
 右手に「心光寺」があり、ここには「戸田市観音」がある。創建は元禄年間といわれているが、昭和58年に再建された。この再建を機縁として観音堂には千体観音が奉納されている。
心光寺観音堂 
 墓地にある「南無阿弥陀仏」の石塔婆は高さ178cmで宝暦12年(1762)の飢饉で餓死した人々を供養するために天明3年(1783)に建立されたと説明されている。
心光寺 石塔婆 
 やなぎ橋の手前に「辻地蔵」がある。縁起によると天明5年(1785)朝からお地蔵様の身体に汗が出て震えているので博士に原因を調べてもらうと、火災の難と占いにでた。そのため皆で諸社、諸佛に祈念をすると難を逃れることができたので、この尊佛の霊験あらたかさを後世に伝えようとこわれたお堂を再建したということだ。現在のお堂は昭和30年に再建されたそうだ。
 辻地蔵
 2号線に合流し、その先で山陽自動車道の高架下を通って右斜めに伸びる旧道に入る。途端に車の騒音がなくなって静かな道になる。右手に山が迫ってきており、そこに棚田があった。昔からの棚田のようで、かなり古そうだ。
 しばらく旧道を歩き、やがて2号線に合流するが、合流する少し手前に椿山峠のバス停があり、左側にドライブインが立っている。ここから2号線に沿って少し行くと左斜めに上る草道があり、そこに「椿峠郡境碑」の案内板が立っていて、その横に「これより西100mのところにある」と書かれた標柱が立っている。2号線に沿って立っているのかと思って、少し先まで行ってみたが、あるようには見えなかったので、上の草道を通っていく。
椿峠 
 草が濡れていてズボンの膝から下はかなり濡れてしまったが、その先に「従是東都濃郡」「従是西佐波郡」と刻まれた石碑が立っていた。これは嘉永6年(1853)に再建された碑で、一時他へ移されていたが、ここに戻されたと説明されている。
椿峠郡境碑
 この先も草は大分前に一応刈られてはいたようだが、現在は藪道になっており、それを歩いていくとやがて舗装された道に出た。2号線から分岐してきている道だ。この道がこれまでの藪道の延長線上に思え、何も考えずそのまま道に沿って左折して坂を上っていったが、どうもおかしいと思ってもう一度地図を見るとちがう道であることが分かったので引き返し2号線を歩く。
 少し行くと左斜めに伸びる旧道があるので、これを歩いていくと、先ほど間違って歩いた道と合流していた。そのまま道なりに進んで行き、2号線のガードをくぐって進むと前方に海が見える。今日は曇っていて霞んで見えるが、晴れているときれいだろうなと思った。坂を下っていくが、このあたりはのどかな田園風景が広がっている。新川に架かる円通寺橋を渡り、2号線を横断して進むと右手に富海小学校があり、その先に富海本陣跡がある。
富海本陣
 ここでカウントする。
 9時41分、富海本陣跡を通る。
 福川宿から2時間51分、16157歩、11km。
 昨日考えたとおり戸田から約2時間かかっていた。

  中町の踏切でJRを横断し、寛政12年(1800)の鳥居が立っている恵比寿神社を右に見ながら歩く。
 橘坂第一踏切で再びJRを渡ると、すぐ先で道が二股に分かれるが、「旧山陽道入口 橘坂」の案内板が立っているので、それに従って右側の坂道を上って行く。一旦58号線に接するが、合流せず左斜めの坂道を上って行く。
 民家が途切れたところで道は二股に分かれており、右手に上る道の先には墓地が見える。少し迷ったが、そのまま直進すると坂を上ったところに「手懸岩」が左手にある。山陽道の旅人達はこのあたりに来ると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足を止め、この前にある岩に手を懸けて休んだことから、この岩を手懸岩と言い伝えられている。
手懸岩 
 またこの辺りの風景を尾張の菱屋平七は「筑紫紀行」に東海道の薩埵峠によく似ていると書きのこしているそうだ。確かに急な崖の下にJRと道路が走り、その先は海という地形は薩埵峠に似ている。このあたりを橘坂というようだ。
 更に上って行くと右手に「茶臼山古戦場」がある。毛利氏と大友氏の戦いの間隙を縫って、大内家の再興を願った大内輝弘は大友氏の支援を受けて、永禄12年(1569)に山口占拠を目指して挙兵したが、戦いに敗れこの地でむなしく自害したと説明されている。
 道から少し上がったところに石祠がある。正面に大内菱の紋を彫刻した笠石があり、内部には別當と刻まれた自然石があり、さらに石祠の奥壁に「大内霊神」と掘り込まれていることから、これは「輝弘の石祠」と言い伝えられていると説明されている。
大内霊神
 落葉が敷き詰められた道を進んでいくと、石畳の標柱が立っている。よく見ると確かに石畳らしい石がいくつか見えた。ただ写真に撮ってみたが、うまく撮れていなかった。
 「旧山陽道修復記念碑」が立っており、その横に「浮野峠改修碑」が立っている。ここに地図があり、曲がりくねった道と直進する道が描かれている。曲がりくねった道は太く描かれており、直進する道は細く描かれている。直進する道は近道という意味だ。
 浮野峠 碑 
 曲がりくねった旧道から右手に直線ででているので、最初碑と碑の間の山道に入っていったが、どうも違うようなので引き返した。今度は左手になんとなく道らしい部分があるのでここから山の中へ入っていった。「細い道は直進しているのだがなぁ・・・」と思いながら進む。完全に勘違いをしているのだが、まだこの時点ではそれをわかっていない。しばらく山の中をウロウロしているうちにT字路のような感じのところに出たので、これを右折していくと出口に「旧山陽道」の標識が立っていた。
浮野峠地図
 この標識を見てこの道で間違いないのだろうと思ったが、なんとなく釈然としていない。それでもそこから左折して道を下っていった。やがて二股になっているところに出たので、これを左折して更に下っていくと、舗装された道に出た。上を高速道路が通っている。これはおかしい。「浮野峠」という表示板も見当たらなかったので、どこかで間違っている。先ほどから釈然としていない思いが再び頭をもたげてきたので、もう一度先ほどの近道のところまで戻ってみることにした。今度は「旧山陽道」の標識のところから入ってみたが、よく分からない。出口まで来て、先ほどは左折したので、今度は右折してみた。そうするとあの碑が立っているところに出た。距離は僅かだ。ここでもう一度「浮野峠改修碑」の地図を見て「アッ!」と思った。地図では細く描かれている道が、今通ってきた大きな道であり、山の中の道が太く描かれている道だったのだ。現実の道の大きさと反対の絵が描かれているので完全に勘違いしていたのだ。「何をしているんだ」自分で自分の頭を叩きたくなった。随分無駄に時間を費やしてしまったので先を急ぐ。
浮野峠標識
 先ほどの二股にきたので、今度はそのまま直進して草道を進んでいくと「浮野峠」の案内板が立っている。
浮野峠標柱 
 竹林の中を歩いていくと「注意 ここより奥の山(30mから300mまで)には「わな」があります。注意してください。わな数8個」という注意書きが立っている。
 やがて右手にトンネルから出てきた2号線が見え、この道路を見ながら下っていくと「浮野駕籠立場跡」がある。ここは浮野峠の急な坂を上る大名が駕籠から下りて、しばらく休憩したと言い伝えられていると書かれている。
浮野駕籠立場 
 ここまでくればもう間違いない。ヤレヤレと安心した。左手に又兵衛屋敷(茶屋)跡の表示板が立っている。
 道を下っていくと右手に「阿弥陀寺境界石」がある。石碑の上に木が腕を乗せるようにして立っている。
阿弥陀寺境界石 
 左手に「徳地屋跡」がある。大名が休憩をしたところという説明がされている。
 その先、柳川を渡ってほぼ直線の道を進んでいく。
 国衛跡の信号から右折して進むと道の両側に「国衛の跡」の広場が広がっている。大化の改新(645)後、我国は中央集権国家を成立させるため、全国60余りの国々にそれぞれ国衛(府)が設けられた。
 国衛跡 
 諸国の国衛(府)の所在地があまりはっきりしない中で、ここは唯一保存されており、これは文治2年(1186)周防国が東大寺の知行国となったことから、治外法権的地位を有していたことによると説明されている。
国衛跡碑 
 その先、「多々良大仏殿」が右手少し入ったところにある。これは高さ3メートルあり奈良の東大寺大仏殿を模して建立されたもので、周防の国司、俊乗坊重源上人(806年前)の作と伝えられている。明治25年毛利邸用地に定められたときこの地に移築したということだ。
多々良大仏
 街道に戻って進むが、右手に毛利氏庭園がある。これは昨日見たので寄らずに進む。更に獅子殿御旅所、佐波神社、周防国衛西北端の石碑が立っていた。
 「三宝荒神社」がある。ここは寛永17年(1640)この地方に犬牛馬に病が流行してその多くが死んだので、社を建立したところ悉く治ったという。平成2年が350年に当たったので、ここに社を再建したとされていた。
三宝神社 
 国分寺の前を通る。ここも昨日見学したところなので前を通ったが、道路からみると長い土壁が続いており、壮観である。
国分寺土壁 
 防府天満宮の前に「萩往還」の標柱が立っている。ここは近いうちに挑戦したいと思っているところだ。
 その先、左手に「宮市本陣跡兄部家」が立っている。
宮市本陣 
 ここでカウントする。
 13時10分、宮市本陣跡を通る。
 富海宿から3時間29分、16020歩、8km。

 兄部家は鎌倉時代から住む旧家で元応元年(1319)に周防国の合物商の支配権を握り、豪商としてその地位を築いた。現在の建物は寛政6年(1789)の大火で焼失後、右田毛利家から材木の寄付を受けて建てられたと説明されている。
 道は防府新橋郵便局の先の突き当たりで左折して進み、佐波川の堤防に出る。川に沿った堤防は車の通行量が多く、しかも歩道がなくて危ないのだが、ここは車の通行量が少なくて助かった。大崎橋を渡って高速道路のガード下を通って進むが、ここで街道から離れて右折し、高速道路に沿って歩き、その先を左折すると「玉祖神」社だ。ここは周防一ノ宮であり、神社の創建はあまりにも古く定かではないということだが、景行天皇12年(82年)西征にあたって戦勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として伝わっているということだ。
玉祖神社 
 ここには「黒柏」がいる。天孫降臨と共に来た鶏で主な生息地は山口県、島根県。羽毛は金属光沢を持つ緑紫黒色で一名長鳴きどりともいわれ、天然記念物に指定されている。確かに鳴き声を聞いていると一声が長い!
黒柏
 ここでこれまでポツポツと落ちていた雨が、急に激しく降りだした。丁度神社の境内にいて雨宿りができたので、しばらく待っているとやがて雨は止んだ。ガードレールの向こう側に「一里塚跡」碑が立っていた。下関まで17里となっている。ゴールまでもう少しだ。
 その先池があり、その横に防府ロータリークラブの立てた表示板が立っていたので、それに従って池の周囲を回って進む。池の水は抜かれていたが時期によって水を抜くのだろうか?
ロータリークラブ標識
 池を過ぎて進むと二股があり、ここには放光老人クラブが立てた表示板が立っていて「旧山陽道 佐野峠」と書かれて矢印がついていたのでこれに従って左に進む。
佐野峠標識
 坂道を上って行くと籠立場の案内板が立っている。その先に「佐野たを」の石碑があり、下を見ると佐波川SAがある。
 ここから右手に白い手摺のついた道があり、これを進んでいくとすぐに山道になる。
佐野峠白い手摺
 このあたりは「防府ロータリークラブ」が標識を数多く立ててくれており、これに従って歩いたが、こうして標識があるととても歩きやすい。やがて舗装された道に出て右折、その先で高速道路のガード下をくぐって進む。
 右手に周防三孝女の一人、「石川於石」の碑があり、その横に江戸時代末期から明治初期の日本を代表する国学者「近藤芳樹先生生誕地」の碑が並んで立っている。
 その先で横曽根川に架かる新大橋を渡り、2号線のガードを通って右折して進む。その先で左斜めに伸びる旧道を進む。
 右手に「厳島六社大明神」がある。入口に天保3年(1832)の石碑が立っており、階段を上ると元治元年(1864)の常夜燈が立っていた。
厳島神社
 一旦2号線に合流、しばらく2号線を歩くが、その先で左斜めの旧道に入り、その先で再び2号線を横切って進む。ここは信号がなく、車の通行量が多いので横断するのに注意が必要だった。
 やがて前方に長沢池が見える。大きな池だ。再び2号線に合流し、池に沿って進む。その先で左へ入る旧道があるので、これを歩く。札場踏切でJRを横断し、再び2号線に合流してこれを歩く。「大村神社前」というバス停があり、その先で2号線が右にカーブしているところ、今宿東の信号を直進すると、左手に四辻の駅があるので、ここで今日は終わることにする。16時51分に四辻駅に到着。17時4分のJRで新山口まで出る。

 本日の歩行時間   9時間19分。
 本日の歩数&距離 51639歩、33.8km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん