山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年11月12日(水)

JR三原~JR糸崎~三原~本郷~追分

                                    晴れ

 朝、三原城を改めて見学する。天王台跡には駅構内から行くことができるようになっており、鉄道が本丸を貫いていることになる。ここは毛利輝元の三男小早川隆景が永禄10年(1567)に築城しており、当時はその姿がまるで海に浮いているように見えたため「浮城」と呼ばれ、豊臣秀吉や徳川家康もここに泊まったといわれている。今は堀と石垣が残っているだけだ。
  7時28分に糸崎駅に着き歩き始める。道路にある温度表示は7℃を示しており、空気が冷たい。右手道路の向こう側に三菱病院があり、これを過ぎたところで左斜めに進む旧道に入る。その先、東町踏切でJRを横断し、すぐに右折してJRに沿って歩く。
 東6番ガードで右折して在来線、新幹線の高架下を通って進むと右手に「籠怒神社〈熊野神社)」がある。ここは元和5年(1619)紀伊より浅野忠吉候が三原城主として入府されたとき、その水手等が熊野新宮速玉大社御分霊を勧請したと説明されている。。籠怒神社 
 街道が左折するところ右手に「極楽寺」がある。ここは浄土宗第三祖良忠上人が開寺。寛文年中(1661~1672)に城主浅野忠真公によって現在地に移寺された。浄土宗の本堂は内陣を結界で仕切るのが一般的だが、その様式が残っているものは少ない。ここの本堂は結界と建具が残っていて他に例を見ないものと説明されている。また山門は明治11年に三原奉行所の門を現在地に移築したものとされている。
極楽寺
 その横に立派な三重塔が見えるので行ってみようと思ったが道がない。お寺の方にお聞きすると、あれは隣のお寺とのこと。お寺が並んで立っているのだ。一旦極楽寺を出て、隣の「松壽寺」へ行く。ここも立派なお寺だ。貞治4年(1365)に開山され、永正8年(1512)現在地に移ったと説明されており、禅堂は安永9年(1781)に建立されている。三重塔は新しく明治20年に建立され、その後火災で全焼したため、昭和63年に再建されたということだ。
松壽寺三重塔
 街道に戻って進むと右手善教寺の入口に「伊能忠敬観測地」の石碑が立っている。文化3年(1806)と文化6年(1809)に測量をしたと刻まれている。二回に分けて来たのだろうか?
伊能忠敬
 そのすぐ先、右手に富田酒店がある。ここが三原宿本陣跡だ。
 富田酒店
 ここでカウントする。
 8時26分、三原宿を通る。
 尾道宿から4時間28分、24508歩、14.2km。

 和久原川に架かる神命大橋を渡って直進するが、右手に「三原城東大寺門跡」の碑が立っている。その先を進んでいくと、左手に昨夜宿泊したホテルが立っており、その横は三原城址だ。
宗光寺堀の端で左折、すぐに右折して進むと、右手少し入ったところに「宗光寺」がある。入口に徳川家康宿泊一株院跡の石碑が立っている。ここの山門は国の重要文化財で小早川隆景の居城、豊田郡本郷町の新高山城の城門を隆景によって移築されたと説明されている。
 また境内には「七層石塔婆」が立っており、高さ2.5mの花崗岩製となっている。相輪が欠失しているほかは各部は完備しており、相輪がそろっていれば総高約3m、十尺塔だっただろうと説明されている。
宗光寺七層石塔婆
 街道に戻って進むと右手に「順勝寺」がある。ここの山門は三原城内にあった御作事奉行所門を明治10年(1877)に移したもので、天正年間(1558~1592)の作といわれている。三原市重要文化財に指定されている。このあたりは三原城にあった建築物が色々なお寺に分散している。
 順海寺
 三原南町郵便局が右手にあり、その前に「三原城西惣門跡」碑が立っている。
 「三原八幡宮」が右手にある。大きな鳥居が立っており、ここも高い階段の上に神社があった。茅ノ輪が置かれており、七五三の旗が立っていた。
 三原八幡宮
 西野川に突き当たり、宮浦橋が架かっているが、これを渡らず右折して進むと、右手入ったところに「法常寺」がある。ここは竹原小早川氏の菩提寺で、小早川隆景が祈願所として本郷の船木に法常寺を移し、その後三原城築城(1567)に伴なって西の出城を兼ねて現在地に移ってきたとされている。隆景が慶長2年(1597)三原城で逝去した際はこの寺で荼毘に付し、盛大な葬儀が営まれたと説明されている。右手に「小早川隆景公小祠」があった。
 法常寺
 八阪神社が右手にあり、その先でトンネルに入る2号線に突き当たるので、これを左折して進むと梅観橋というしゃれた名前の小さな橋を渡る。その先に宮浦第5公園があり、これの端を左折、更にその先を右折して新幹線の高架下を通って進む。
 左手に県立広島大学〈以前は保健福祉大学といっていたようだ。)があるところ、右側に国境石が立っている。ここから緩やかな下り坂になり、沼田川に併行して走っている2号線に突き当たったところから右折して2号線を歩き、2号線が左へカーブをするところで2号線と分かれて直進する。このあたりは新しく道路ができており、区画整理がされているようで分かりにくい。歩いているとなんとなく碑のようなものが立っているので行ってみると「木之浜壱里塚」という碑が立っていた。
 木ノ浜一里塚
 ただ、どうにもわかりにくい場所だったので、近くで畑仕事をされている方にお聞きすると、このあたりは以前は海だったとの事。旧街道は頼兼町から迫という山の中の集落を通って木ノ浜に出てきており、それが現在一里塚が立っている場所だったということだった。昭和30年代初めまで、現在JRのトンネルがあるあたりの山の上に火葬場があり、木ノ浜、迫、新倉地区で葬儀があるときは遺体を山の上の火葬場まで運んでいたそうで、そのため葬儀があるときは皆でその道の草刈を行ったというようなことを話していただいた。
 右手にこんもりとした小高い場所があり、行ってみると奥に「厳島神社」があった。境内にどんぐりが一杯落ちていた。
厳島神社
 一旦2号線に合流するが、七宝橋北詰の信号から右斜めに伸びる旧道に入る。「八重神社」が右手にあり、道を挟んだ前、道の左側に立っている鳥居は慶應2年と刻まれていた。
 八重神社
 長谷宮第5踏切でJRを横断し、橋を渡ってすぐに右折、沼田川に沿って歩く。Y字路があるのでこれを左に進むと2号線に合流する。ここからしばらく2号線を歩く。車の通行量は多いが歩道があるし、周囲の景色も山が連なっていていい所だ。丁度店があったので入って昼食にする。店が少ないのでとにかく店があったところで食べるように心がけているのだ。まだ昼前だったが人が多く、相席になった。横にご夫婦がおられ、奥さんが私の格好を見て歩いているのかと聞いてこられた。山陽道を歩いているというと驚かれていたが、更に話をしていて北海道から鹿児島まで歩いているというと眼を丸くされていた。別れ際に「がんばってください」と言っていただき、うれしかった。こうしたちょっとした言葉がうれしいものなのだ。納所橋北詰の信号の少し先から右斜めに進まなければいけないのだが、気づかず先まで行ってしまい、おかしいことに気がついて後戻りをして歩く。
 本郷の街中を歩く。右手に恵比寿神社があり、その次の角を右折、国行第2踏切を渡って次の角を左折していくと麻尾医院があり、その横の家が本郷宿本陣跡ということなのでここでカウントする。
 12時58分、本郷宿を通る。 
 三原宿から4時間32分、21800歩、12.5km。

 一般的には本陣は街道に沿ってあるのだが、ここはかなり街道から離れており、ちょっと珍しい。標識も出ておらず、わかりにくい。
 街道に戻ると左手に本郷醤油醸造(株)沢田本店の旧い建物があり、その先に寂静寺がある。本郷橋を渡る。新高山城址が右手という標識が立っている。
 街道から右手少し入ったところに「菅公手掘井戸」がある。菅原道真が延喜元年(901)大宰府に落ちていく際、この地に上陸すると、人々が水不足で困っていた。みかねた道真が自ら井戸を掘るときれいな水が湧き出して皆を救ったので、住民はお礼に干し飯を甑で蒸して差し出した。その後このときの井戸を「菅公手堀の井戸」として大切に守り、更にこのご恩を忘れないようにと、皆で丘に社を建て甑をご神体として祭った。これが岸が丘の甑天満宮だと説明されている。
官公手掘井戸 
 その「甑天満神社」がすぐ先にある。安政3年(1856)の鳥居が立っており、ここも高い階段の上にあり、石段は170段あった。社殿は平成12年に改築されたようで新しかった。昨日の尾道、今日の三原とこのあたりは高台にある寺社が多く、階段の上り下りで一苦労、身体が疲れてくると、またか、と思ってさすがにうんざりしてしまう。
甑天満神社 
 右手に本郷中学があり、その先から右折していくと宮川神社の横に「梅木平古墳」がある。この古墳は6世紀末から7世紀始めに造られたもので、石室は全長13.25m、高さ4.21mの規模で巨石で組まれており、県内では最大規模の横穴式石室であり、墳丘は円墳であったと推定されると説明されている。中に入ってみたが、大きい古墳だ。
梅木古墳内部
 街道に戻って進むと右手に「南方村村役場 農業会 農協之跡」という碑が立っており、その横に古い木造の建物が立っていた。さほど大きくない建物だが、これらの組織が全てここに入っていたのだろう。現在は南方老人集会所になっていた。 
南方村役場
 その先、街道から右折したところに「御年代古墳」がある。ここは明治28年(1895)国道改修工事により発見されたもので、7世紀中頃に築造されたものと考えられており、沼田地方の首長の墓と考えられているそうだ。
 御年代古墳
  ここから街道に併行して道が通っており、貞丸古墳、二本松古墳の矢印が付いていたので、それに従って歩いていく。
 大日堂という社があり、そこに「貞丸1号」、「貞丸2号」という古墳があった。この古墳はどちらも古墳時代後期〈1400年前)に築かれた横穴式石室で、1号古墳にはくりぬき式家型石棺が一基あったが蓋石はなかった。
貞丸1号
 その先右手に「宗長神社」があり、ここには「二本松古墳の石棺」があった。以前石棺は分解され、南方神社(宗長神社)拝殿の踏石や手洗い鉢に使用していたが、昭和58年境内に復元、安置したと説明されている。たしかに境内にポツンと置かれていた。このあたりには古墳が多い。有力な豪族がいたのだろう。
 二本松古墳
 神社を出たところが2号線で、これを歩いたが、神社のすぐ横に同じ方向に道が伸びていた。資料を見ると、ここから2号線を歩くようになっているのでそちらを歩いたが、この先の追分のところでもう一本の道と思われる草道が2号線に合流していた。雰囲気としてはこちらのほうが旧道のような気がしたが、わからなかった。
 17時15分に今日の宿に到着。
 今日の宿は追分から左へ少し入ったところにあるホテルで温泉が湧いている。最大90名が宿泊できるそうだが、今夜の泊まりは私一人だけだった。周囲は漆黒の闇、静かなホテルで宿の方と色々とお話をさせていただき、楽しかった。

 本日の歩行時間  9時間47分。
 本日の歩数&距離 39078歩、24.6km。

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