山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年12月12日(金)

新山口~JR四辻~小郡~山中~船木~厚狭~JR小倉

                                    晴れ

 7時に四辻駅に着き、すぐ前を通っている旧道を歩き始める。四辻西の信号から右手2号線の向こうに「周防鋳銭司跡」がある。古代の貨幣鋳造所の跡で広さは38500㎡もあり、広い野原になっている。ここは全国に置かれた鋳銭司のうちで最も長期間貨幣の鋳造が行われ、平安時代の820年代から950年にかけては唯一の貨幣鋳造所だった。
周防鋳銭司跡
 街道に戻って後ろを振り向くと、丁度太陽が東の空に顔を出したところだった。今日もいい天気のようだ。
朝日 
 右手に春日神社の鳥居があり、その横に「建石」がある。昔から「立石」「平岩」「建石」と呼ばれているが、いつ頃、誰が、何のために建てたのかは不明と言うことだ。寛保2年(1742)の防長地下上申や御国廻御行程記に「平岩というのは、昔からここにあり、年寄が伝える話では昔たんぼの道に仟佰(南北、東西の道)の方向に建てられていたといっている」と記されていたということだ。この石がここにあることによって立石という地名が名づけられ、山陽道を行き交う人の道標に役立っていたと思われているそうだ。
建石 
 東陶の信号で高速道路の下を通ってその先に続く旧道を歩くと、「恵比寿神社」が左手にある。昔は市えびすといって市の立つところにはえびす様を祀る風習があった。上市の恵比寿神社の付近に鳥居の残欠があり、文化元年(1804)の年号が刻まれているということだ。
 恵比寿神社
 右手に艫網の森の案内板がある。それによると、これは国道2号線沿いにあったが、この地に移設されたもので、推古天皇19年(611)大内氏の祖先、百済の皇子琳聖太子がこの艫網の森に上陸されたと伝えられ、寄舟大明神として祀られてきた。太子はやきものの作り方を陶の人々に教えたということが書かれている。
 右手に日吉神社の鳥居が立っており、常夜燈には嘉永5年(1852)と刻まれている。
 西陶のバス停のところで車道に合流し、その先で右へ伸びる旧道に入る。ここは目印がなく「オートハウス クラフトマン」という会社の看板が右手にあるのでこれを目印とし、その先から右に伸びる旧道に入る。右手に丸尾上会館があることろで突き当りを左へ進む。
 長方形の池があり、これに沿って進んでいき、新幹線の高架下を通って進むと右手に「一里塚碑」が立っており、赤間関まで14里と刻まれている。次第に下関が近くなってくる。もう少しだ。
 一里塚碑
 椹野川に架かる東津橋を渡り、その先の新丁踏切でJRを横断して進むと右手角に道標があり、案内板が立っている。「左 萩 山口 石見」「右 京 江戸」「牛馬繋事無用」と刻まれている。この道標は複製で当時の物は工事中に破損したため、近くの民家に保存していると書かれている。
東津道標
 国道9号線の長谷信号から右折したところの左角にある駐車場のあたりが小郡宿本陣跡ということだが、何も遺構は残っておらず、しかも工事中ということもあって分かりにくかった。とりあえずここでカウントする。
 9時2分、小郡宿を通る。
 宮市宿から5時間43分、33063歩、18.3km。

 この先で9号線に合流し新幹線の高架下を通って進む。山口市小郡柏崎信号から左斜めへ伸びる旧道があるので、これを進む。9号線の騒音を離れてホッとする。突き当りを左へ進み、大道付第1踏切でJRの線路を渡る。
 左手小高い所に「大歳神社」があり、天明と読める文字が刻まれた鳥居が立っていた。
 大歳神社
 跨線橋でJRを越え、上嘉川踏切でもう一本のJRの線路を渡る。山口市嘉川市の信号で9号線を横断して北側に出、その先の山口市嘉川福岡の信号で再び9号線の南側に出る。このあたりは9号線の北側と南側を頻繁に出入りする。
 右手に四体の石仏と石碑が立っている。説明書がないので由来は分からないが、なんとなくつい手を合わせたくなる風情があった。
四体の石仏 
 その先、左手に嘉川公民館があり、その横に社が三つ並んであって、四体の石仏があった。古い石仏のようだが、ここも由来は書かれていなかった。右手に新幹線が走っている。このあたりの旧道は静かな田園風景の中にある。
 嘉川公民館石仏
 嘉川ICのところは分かりにくかった。旧道から歩いてきて、そのまま道なりに進んでいくと高速道路へ行くようになっており、そのすぐ下にガードが見えるが、下に下りる道がない。このガードを通るのかなと思って引き返したが、左手に更に大きなガードがあり、「対向注意」と大きな字で書かれた看板がかかっていたので、ここを通って道路の向こう側に出てみた。しかしここは右折すると有料道路に向かうようなので元に戻り、先ほどみた小さなガードのほうへ行ってみた。ガードを抜けると2号線の横に出、その先で新幹線の高架下を通って進むのでこの道で間違いないことが確認できた。
 緩やかな上り坂が続き、上りきったところに「おいはぎ峠」という名前の食堂がある。時計をみるとまだ11時少し過ぎたところだが、地図をみるとまだしばらく山の中を歩きそうなので、ここで昼食にする。
 このすぐ先に「国境石」がある。蜀山人の小春紀行に「ここに割木松という野立場あり、西長門国厚狭郡 東周防国吉敷郡と彫れり」とあるのがこれで、碑にもそう刻まれている。
割木松国境石 
 このすぐ先で一旦2号線と離れて右斜めに伸びる旧道を歩くが、あまり距離は長くなく、その先で再び2号線に合流する。
 しばらく2号線を歩いた後、右手山の中へ入っていく旧道があるが、入口が分かりにくいようなので注意をしながら歩いていく。2号線の上を高圧線が通っており、その鉄塔が道の右側に立っている。
鉄塔
 このあたりの歩道は道路の左側にあるのだが、ここで右側に移っておくほうがいいようだ。その先で2号線は右にカーブを切っている。曲がりきったところで崖を補強しているセメントの壁が終わるのだが、ここにホテルの看板が立っている。 前方に小さな川が流れており、その先にガソリンスタンド(ENEOS)が見える場所だ。セメントの崖とこの看板の間が入口だった。
入口
 かなり注意をして見なければ分かりにくい場所だが、一旦中に入ってしまうと道があり、それが続いている。ただ、次第に森の中へ入っていくので、下草がなくなり、どこが道なのか分からなくなってきた。森の中は日がささないので、下草があまり生えておらず、道のように感じてしまう場所が多いのだ。坂道を大分登っていったが、方向的に2号線から遠ざかるばかりだ。地図で見るとある程度は2号線から離れるのだが、その後迂回するような形で回り、2号線と併行して歩くようになっている。ちょっとおかしいぞと思い、立ち止まって下を振り返るとかなり下のほうに水面が見える。池があるようだ。どう考えてもこれ以上登っていって、2号線から離れるのはおかしいと思い、途中まで引き返してみることにした。平らなところまで戻ってくると、行きがけには気がつかなかったが、道が二股に分かれているところがあり、橋のような感じで数本の木が渡してある。苔に覆われているので、気がつかなかったのだ。その先はかなり草で覆われてはいるが、注意をしてみると入口からみると左斜めの方向に道があるようだったのでそちらへ行って見た。藪がかなり深く、最初は手で払いながら歩いていたが、次第に面倒になって、手で払うことをやめてそのまま身体ごと歩いていった。ところが小さなとげが一杯ついた蔓がいきなり首に巻きついてきた。藪に負けまいとして勢いをつけて歩いていたので、ちょうど首を絞めるような形になり、これは痛かった!
 ただ道の方向としては2号線と併行しているようなので、どうもこの道らしい。やがて次第に道らしくなってきて左手に田んぼが見えてくる。こうなれば安心だ。やがて舗装された道に出た。
  右手石垣の上に「極楽寺」の標柱が立っている。上山中には大内時代以降、勝蓮寺、専念寺、極楽寺と一連の寺があり、時代によって場所は移動したが、この屋敷には江戸時代は専念寺、明治以降は極楽寺があったと記されている。
極楽寺
 右手に「熊野神社」がある。ここは永和年間(1375~79)に伊藤彦四郎入道が熊野権現を勧請したことにはじまる古い神社で、「ツルマンリョウ」の自生地として山口県指定天然記念物になっている。ただどこにそれがあるのかわからず、誰か尋ねる人がいないかと思って周囲を見渡したが、だれもいなかったので結局分からなかった。
熊野神社 
 上山中下之橋があり、これを渡らずこの橋の手前で右折して進む。この橋の横に地蔵尊が立っている。
 右手に薬師堂があり、文政と天保と刻まれた常夜燈が立っていた。
  その先右手に「山中本陣跡」の標柱が立っている。
山中本陣
 ここでカウントする。
 12時39分、山中宿本陣跡を通る。
 小郡宿から3時間37分、17720歩、11.7km。

 下山中バス停の手前、2号線が左にカーブしたところで僅かの距離旧道が残っている。
 右手に「与助の首」と書かれた標柱が立っているが、途切れることなく車が疾走してくるので道路を渡ることができず、標柱を見ただけで先へ進む。
 2号線を進み、猿玉寺橋を渡ったところにある車地の信号から左折して旧道に入り、原東川の川沿いを歩く。木田橋を渡って進み、二俣瀬の信号で2号線を横断し、その先丸山ダムの信号で再び2号線に合流する。
 右手に丸山ダムの堤防が見える道を進んでいくと「通学路 朝夕の通り抜けご遠慮して下さい」という看板が立っているところから右斜めに伸びる旧道があるのでこれを歩く。
 その先右手に瓜生野公会堂があり、その敷地の端に倉庫が立っている。その横に電柱が立っているので、そこから右折して入っていく。
殿様道入口 
 ここも藪道だが一応道はついているのでこれを歩いていくと右手に大歳社があり、その前に舗装道路が通っている。
 その道路の向こう側に「殿様道<山陽道 往還跡>」の標柱が立っており、「藩政時代の山陽道はこの玉木坂という峠道を越えて吉見に通じており、地元では殿様道と呼んでいた」と書かれていた。
殿様道標柱
 舗装道路を横切って進むと、これまで歩いてきた道の延長線上になるので、この道を進む。
 山の中へ入っていくがビッシリと藪に覆われている。露なのだろうか、ズボンがかなり濡れてしまった。
殿様道 藪
 藪をかきわけ、かきわけ坂道を登っていくと頂上に出る。左手上に墓地があり、右手には変電施設がある。ここに来るときれいな道ができているが、その先で道は右折しており、草道は直進しているのでここを歩こうと進んだが、すぐ先で鉄条網が一本横に張られている。どうやら通行禁止の印のようだ。これを越えようと思えば、容易に越えられそうなのだが、なんとなくこの一本の鉄条網が気になって一旦引き返し、先ほどの舗装された道を下っていくと、すぐに二股に分かれているところにくる。ここを左に行くと産業廃棄物の工場の敷地内を通ることになるが、そのまま進み、工場の左側の隅を歩いていく。先ほどの鉄条網のあった道に合流するには左側へ進む必要があるのだ。一番端にある建物の横に草道があり、これを歩いていくと先ほどの道の延長先と思われる草道と合流する。そのまま進んでいくと道は次第に下り坂になる。二股に分かれているところがあるが、これを左へ行き、途中、左右へ分岐する道があるが、とにかく真っ直ぐに下っていく。道はしっかりしており、歩きやすいし、気持ちのいい道だ。やがて民家が現れ、道路との交点に「道路史跡 山陽道跡」の標柱が立っている。
道路史跡標柱
 ここからさらに直進し、大坪川を渡り、すぐに左折して田んぼのあぜ道を歩く。このあたりの道がわかりにくく、少し迷う。民家があり、その家の方がおられたので道を聞くと、その家のすぐ横のあぜ道を通り,厚東中学の前に出る。あぜ道左手に厚東郵便局があり、正面に正覚寺がある。郵便局の裏を通るかたちで正覚寺の前を通り、そのまま直進するあぜ道があるので、これを通っていく。突き当りを左折し、2号線に接するが、すぐ右へ上る旧道があり、これを上って行く。しかしこれも短くすぐに2号線に合流する。
 下岡の信号の先に「ギャルリー小川」の看板が立っており、ここから左折して新幹線のガード下を通って旧道を歩く。
小川看板
 ここの旧道は地図を見ると大きな三角形の形をしており、グルッと回って2号線のガード下を通り、新幹線の高架下を通ってその先で2号線に合流して進む。ここからしばらくは歩道がなく、すぐ横を大型トラックがすごいスピードで通り過ぎるので冷や汗の連続だった。この歩道がない区間は随分長く感じられたが、やがて右手に船木工業団地があり、その先から旧道が左に伸びているのでこれを歩く。ここは車が少なくヤレヤレだ。騒音もないし心底ホッとする。
 宇部興産専用道路があり、このガードの左手に「六地蔵」がある。
六地蔵
 ガードを抜けてすぐ先左手に「山陽道一里塚」の標柱が立っている。赤間関まで9里となっている。一里塚があるたびに終点が近づいていると実感する。
  「船木宰判 御高札場跡」の標柱が立っており、その前に「岡崎八幡宮」がある。ここは船木地域の産土神さまで宝亀元年(770)和気清麻呂が勧請したとされている。応永3年(1396)大内義弘公が再興し、神田を寄進、大内義隆公も再興したが、陶晴賢の防長大乱で炎上、焼失、天正4年(1576)杉重良により再建、毛利家も度々修復したという。社前の楠木は樹齢推定700年といわれ、航海の安全のお守りとされたと説明されている。
岡崎八幡宮
 右手、もと楠町役場で現在船木ふれあいセンターと合同庁舎になっているあたりが船木宿本陣があったということで、ここでカウントする。
 15時29分、船木宿を通る。
 山中宿から2時間50分、16024歩、10.7km。

 次第に夕暮れが迫りつつあるが、今日は厚狭駅までは何としてでも行こうと思っており、暗くなる前に着きたいと先を急ぐ。
 「旅人荷付場跡」の標柱が立っており、横に船木宿本宿の案内板が立っている。それによるとここは江戸期、駅馬15頭と人足十数人が用意されていたということだ。
 右手に「大木森住吉宮」がある。ここは住吉大明神という海上航路の安全を守護する神が祀られている。文化11年(1814)建立の社前東わきにある「大木森住吉社記」の銘文に創建の由来や小祠を改築したことなどが述べられている。境内には大きな常夜燈が立っている。
大木森住吉宮 
 茶屋の信号で2号線と合流し、船木大橋を渡って、2号線を歩く。新川の信号で左斜めに旧道が残っているが、距離は短くすぐに2号線に合流する。
 逢坂バス停の先右手に旧道の入口があり、「木造十一面観音菩薩立像、千林尼の石畳路(一部分) 山陽街道(残存百米)」という案内板が立っている。
逢坂バス停入口
 坂を上り始めてすぐ、道路の一部に石畳がある。
石畳
 これが千林尼の石畳路なのだろう。ただ、ほんの一部なので舗装が剥げ落ちているような感じだ。
逢坂観音堂が右手にあったが、木造十一面観音菩薩立像は見えなかった。
 観音堂の先に「史跡山陽道の一部(残存)」と書かれた標柱が立っている。 草が刈られていたので、ここを歩いていった。ただ、新しく作ったような道が続いており、やがて次第に藪状態になってきた。それでもかまわず進んでいくと、全くの藪になってしまった。それでも進んでいくと出口(逆方向から行くと入口)にはロープが張られている。この道は一体なんだったのだろう、なんとなくすっきりしないが、いずれにしても今日3回目の藪コギだった。ロープを越えていくと舗装道路に出た。前方には新しい道路が作られているようだ。左手に信号があり、そこから新しく作られている道路と分かれて、目の前の道路が右手へ伸びている。この舗装道路を右折して進む。ここが西見峠だ。
 西見峠を上りきったところから左斜めへ旧道が伸びているのでこれを下る。舗装された道で歩きやすい。右手に埴生田堤があり、左手には墓地がある中を下っていく。
 社があり、その前に「庚申」とくっきりと刻まれた碑があり、文化6年(1809)8月15日と刻まれている。
 ほぼ直線の旧道を進み、厚狭川に架かる鴨橋を渡って左折し、新幹線とJRのガード下を通って右折、16時55分に厚狭駅に着いた。何とか暗くなる前に到着することができてホッとする。

 本日の歩行時間  9時間55分。
 本日の歩数&距離 54614歩、37.2km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん