山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年10月15日(水)

JR西明石~JR加古川~御着~姫路~播磨高岡~JR相生

                                    晴れ

 西明石駅を7時34分に出て、昨日歩いた街道の所に7時53分に到着する。
  寺家商店街のアーケードの中を歩く。アーケードの最後のところに陣屋(山脇邸)の案内板が立っており、ここが加古川宿の本陣跡だ。ここは宝暦2年(1752)に建造され、明治18年明治天皇が西国巡幸をされたとき、ここで昼食を摂られたということだ。
加古川本陣
 ここでカウントする。
 8時4分 加古川宿本陣跡を通る。
 明石宿から6時間31分、23.4km。

 加古川橋を渡るが、この橋、一応歩道はあるのだが幅が狭く、そこに通学途中の自転車に乗った学生が途切れることなくやってくる。後ろからも自転車に乗った人がやってくるので、二台の自転車がすれ違うだけで歩道の幅はギリギリだ。そんな中を歩いていくので、何度も立ち止まって自転車をやり過ごす。あまりの混雑とほかに誰も歩いていないので、人が歩く歩道がどこか他にあるのではないかと思うほどだ。ようやく橋を渡り終えるとすぐに左折して旧道に入る。ホッとするがここの旧道は距離が短く、すぐに2号線に合流する。ただ、その先でまたすぐに2号線と分かれ、右斜めに伸びている旧道に入って歩く。ここからは旧道ばかりを歩く。旧道は車も少なく、歩きやすい。
  右手少し入ったところに「福正寺」があり、境内に石棺仏が立っている。この石仏は縦に半分に割られた家型石棺の蓋に立像の地蔵像を彫っている。銘がないのではっきりしないが、室町時代中期あるいはそれ以前と考えられていると説明されている。
福正寺
 宝殿駅にまだ新しい尉と姥の像が立っている。それによると「婚儀の際におなじみの尉と姥は当市が発祥の地です。その昔、高砂神社の境内に、一夜のうちに一本の根から雌雄の幹が左右に分かれた相生の松が生え、その根元から尉と姥が表れ、「我々はイザナギ、イザナミの二神である。今よりこの木に神霊を宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられたことから、縁結びと夫婦和合の象徴として信仰を集め、人々に親しまれるようになった」と説明されている。
宝殿駅像
 宝殿駅を過ぎ、JRの踏切を渡って進むと左手に「生石神社一の鳥居」が立っている。横に安政2年と刻まれた御神燈が立っていた。近くにおられたお年寄りの方が、昔はここから生石神社が見えたものだといわれていた。
生石神社一の鳥居
 左手に山片幡桃が幼児、父と酒屋を営んでいた家の跡という表示板があった。山片幡桃は徹底した合理主義の大坂商人で伊達家仙台藩の財政を立て直したことで有名だ。
  左手少し入ったところに「覚正寺」がある。ちょうどお寺の修理をしていたが、山片幡桃の顕彰碑がある。
覚正寺
 右手に「神爪五輪塔」がある。地元では五輪さんと呼ばれているそうで、室町時代後期のものだろうといわれているそうだが、詳しいことはわからないということだった。又その横に「地蔵三尊仏」が立っている。これらを見ているとご近所の方が話しかけてこられ、こういうことを勉強されておられる方から教えてもらったといってわざわざ資料を持ってきてくれた。それによると地蔵三尊仏は地蔵菩薩、観音菩薩、勢至菩薩ということだった。
五輪さん
 右手に「正蓮寺」がある。ここは「月の砂漠」を作曲した佐々木すぐるの生家ということだ。
正連寺
 その先で2号線を横切って旧道を進む。左手少し入ったところに「地蔵院」がある。ここには「明治天皇阿弥陀御小休所」碑が立っており、入口には千輻輪相と刻まれた石碑と仏足石があった。ここは寛文6年(1666)にこの地に開基、創建されたお寺で歴史を感じさせる建物だ。
 地蔵院
 このあたりの地名は阿弥陀仏町というようだが、どういう由来でこういう地名が付いたのか知りたかったが、だれも人がおらず、聞くことができなかった。阿弥陀仏町阿弥陀などという地名はあまり聞いたことがない。
 右手に「不断寺」があり、人が集まって何か作業をしている。聞いてみるとこのあたりでは、13日14日に秋祭りがあり、その後片付けをしているということだった。この後もそれぞれの地域で祭りがあったらしい様子が残っていた。
 不断寺
 その先に「正四位児嶋範長公之墓」があり、市指定文化財の石仏と石造五輪塔が立っていた。児嶋範長は湊川の戦いで敗れたが、吉野に追われた後醍醐天皇を救い出そうと延元元年(1336)岡山備後から東上した。しかし足利方についていた那波城主・宇野重氏がこれを聞き付け、現在の高砂市、伊保の庄から阿弥陀宿で戦いを交え、範長はこれに敗れてこの地で自害して果てたということだ。
児嶋範長墓
 その先高架下に集められたらしい道標が五基並んで立っていたが、金網で囲まれていて詳しく見ることはできなかった。
道標五基
 豆崎の信号で2号線と一旦合流し、そこから右斜めへ伸びる旧道に再び入っていく。
 右手に「六騎塚」がある。南北朝時代の延元元年(1336)児嶋高徳の父範長主従6名の自害を弔って建立したといわれている。碑は亀趺(きふ)と呼ばれる亀形の台の上に乗った珍しいもので、備後守児嶋君墓と刻まれている。太平記によれば延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従6騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したと説明されている。
六騎塚 墓 
 「延命寺」が右手にある。ここには明治18年に行幸されたときの「明治天皇御小休所」碑が立っている。
 延命寺
 ここから街道を少し離れて「御着城址」に行ってみた。ここは茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城だった。永正16年(1519)小寺政隆が築城、則職、政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441~44)には既に構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していたと説明されている。最盛期には大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われていたそうだが、今では僅かに石垣が残るのみだった。
 御着城址
 街道に戻って進むが、このあたりも昔の風情を色濃く残している家が多い。そんな中に御着公会堂があり、「御着本陣跡」と書かれた朽ちた標柱が立てかけてあった。
 御着本陣
 御着は姫路~加古川間の間の宿ということだが、一応カウントする。
 11時42分御着宿本陣跡を通る。
 加古川宿から3時間38分、19495歩、11.1km。

 天川に架かる天川橋を渡って進み、山陽本線と新幹線を越えて進むと「一里塚跡碑」が立っていた。ここは明治時代まで高さ2mを越える塚が残っていたそうで、次の一里塚は東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野と書かれていた。
 一里塚碑
 これを写真に撮ったりしていると、ご近所の方らしい男性が話しかけてこられ、しばらく話を聞く。これから先の道も教えていただいた。
 左手、道を少し上ったところに「日本廻国塔」がある。かって願いが叶うように法華経の経典(大乗妙典)を全国六十六箇所の霊場に奉納して廻ることが行われ、その巡礼を記念して銘文にしたものを廻国塔といい、ここは明和4年(1767)に(群馬県)前橋の休心という人物が姫路の石屋に造らせていると説明されている。
 日本廻国塔
 その先で右折して再び線路を越えて進むのだが、左手に大きな題目石が二つ立っていた。
題目石
 その後、市川に架かる市川橋を渡り、すぐに右斜めに入る旧道を進むと右手に「地蔵院」がある。ここの庭に室町時代の作と推定されている石棺仏が立っているという説明がされていたが、門が閉まっていて見ることができなかった。
 JR播但線を越えてすぐ先を右折、更にその先で左折して進むと右手に「外京口門跡」の案内板が立っている。 姫路城の外濠に作られていた外京口門の跡、姫路宿の東の入口にあたる場所だ。
 ここから姫路城はすぐ近くだ。これまでいつも新幹線の中から眺めるだけで行ったことがなかったので、街道から外れていってみる。
 「姫路城」は国宝四城(姫路城、松本城、彦根城、犬山城)の一つで、平成5年(1993)世界遺産に登録されている。別名白鷺城と呼ばれる美しいこの城の築城は南北朝時代、貞和2年(1346)に赤松貞範によるという説が有力で、その後黒田氏が代々城代を務めた。天正8年(1580)黒田孝高(官兵衛)は秀吉に姫路城を居城とするように進言し、秀吉は同年4月から翌年3月にかけて近代城郭へと大改修を行った。このとき姫路の北を通っていた山陽道を曲げて姫路の城下町を通るように改めている。
姫路城
 現在の城郭は関が原の戦い以降、家康が豊臣恩顧の大名の多い西国をけん制するために築かせたもので、池田輝政によって今日見られる天守閣等が築かれた。間近に見る天守閣は壮麗、優美である。天守閣まで登ってみたが高い。城は姫山(海抜45.6m)の上に立っており、石垣14.85m、建物31.5mで合計92mになる。高層の建物がなかった当時では圧倒的な存在感があっただろう。城内は平日にもかかわらず外国人や修学旅行生等数多くの観光客で賑わっていた。
 姫路城天守閣
 街道に戻り、坂田町を歩く。このあたりは昔は田で坂になっていたのでこの名前が付けられたという案内が書かれていた。
  その先で右折して進むとアーケード街に入る。この中に姫路宿本陣跡があるはずなのだがわからない。ボンマルシェの前ということだが、そのお店の方にお聞きしても分からないということだった。そのままアーケード街を歩いていくと椀箱屋三木氏本陣跡の看板が掛かっていた。それによると「城下町初期の豪商で18世紀初め本陣となる。当主は三木助右衛門」となっている。
姫路本陣
 ここでカウントする。
 15時15分、姫路宿を通る。
 御着宿から2時間13分、9209歩、6.2km。

 御着宿は間の宿だったので、この間の距離は短い。
  アーケード街を突き抜け進む。白鷺橋南の信号を越え、突き当たりを右折して2号線を横切って進み、二つ目の角を左折して進んでいくと、左手に「大井川地蔵」という双体地蔵がある。
大井川地蔵
 16時4分、播磨高岡駅に到着。ここから先はアクセスが悪く、引き返すことが難しいので、ここで今日は終わることとし、16時27分のJRで相生駅まで行き、ここで宿泊する。

 本日の歩行時間  8時間34分
 本日の歩数&距離 43057歩、25.8km。

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