山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年11月10日(月)

早雲の里荏原~七日市~高屋~神辺~備後赤坂~JR松永

                                    晴れ

 6時22分に小倉を出発し、岡山~清音~早雲の里荏原と乗り継いで9時17分に到着、歩き始める。
 駅の前から486号線に合流、すぐ先の理容店の先で右斜めに入る旧道を歩く。一旦486号線に接するが、すぐに右斜めに分岐、その先で486号線に合流、少し486号線を歩いた後、再び右斜めの旧道に入り、ここから旧道が続いている。
 右手街道から少し入ったところに「足次神社」がある。このあたりの神社の鳥居には注連縄が張ってあり、それが頭、胴体、尻尾の形をしていて独特だ。
足次神社
  「今市駅本陣跡」の碑が立っている。ここは間宿だったようだ。9時42分にここを通る。古い家並みが続いており、情緒がある通りだ。
今市駅本陣
 雄神橋を渡って進むと右手少し入ったところに「甲山八幡宮」がある。ここには慶長9年(1604)小堀遠州政一が備中国の奉行となって領内巡視のとき、急病になり、甲山神社に祈願したところ回復したので建立したといわれる、大きな常夜燈が立っている。また、遠州が小田川河畔の要所要所に石燈籠を設置し、高瀬舟の上り下りの便を計ったが、これはそのうちの一つだという説もあると説明されている。
甲山神社 
 交差点を渡った先、左手の民家の庭に「平櫛田中生誕之地」碑が立っており、その先のバス停は「田中生誕地」の名前になっていた。
 右手に「揖取延命地蔵」があり、その横に二十四番最御崎寺、二十二番平等寺とされた祠がある。最御崎寺は四国の室戸岬の先端にあって、二十二番薬王寺から80km近く距離があり、四国遍路をした際、この間ひたすら黙々と歩いたことを懐かしく思い出した。
揖取延命地蔵 
 相田嘉三郎旧宅という標柱が立っている立派な屋敷がある。この方は幕末の養蚕・製糸家の先駆者のひとりということだ。その先「十七瀬川榮吉墓」が立っており、「門弟中、慶應4年」と刻まれていたが、どのような人なのか分からなかった。
 日芳橋を渡り、街道から外れて左手堤防に沿っていくと「七日市駅川越し上がり場跡」の石碑とその横に常夜燈が立っていた。
七日市駅川越し上がり場
 街道に戻って進むと左手に「七日市停車場」と刻まれた大正2年の石碑が立っていた。
 「旧山陽道参勤交代七日市宿場本陣屋敷跡」という石碑が左手に立っている。
七日市宿本陣
 ここでカウントする。
 10時25分、七日市本陣跡を通る。
 矢崖宿から2時間57分、18803歩、12.3km。

 道路を挟んで反対側に「武速神社」がある。 ここは長保3年(1001)にこの地方に悪疫が流行した際、神輿山に創建されたとされており、永徳2年(1382)に現在地に遷ったとされている古い神社だ。現在の社殿は元禄9年(1696)に再建されたものだと説明されている。
武速神社 
 その先で街道から離れ、右折して田中美術館に行ってみたが月曜日で休館日だった。平櫛田中は102歳のときに彫る木がなくなったので、弟子に30年分の木を買ってくるように言った、という逸話が私の心に強く残っているので見てみたかったのでちょっと残念だった。
田中美術館 
 街道に戻り進むが、このあたりも旧い家並みが続いている。出部郵便局の少し先、右手に一里塚跡碑が立っている。
このあたりは両側を山で囲まれている谷間の町だが、山は木々が色づき始めており美しい。
 右手に舟形の自然石を使った常夜燈が立っている。これから先もそうなのだが、このあたりは大きい常夜燈が数多く立っている。
自然石常夜燈
 右手に宝暦11年と刻まれた題目石が二基並んで立っていた。
 その先大曲のところでうっかり直進してしまったが、すぐに気がついて引き返した。大曲とは1603年発刊の「日葡辞書」によると街道で二ヶ所大きな直角の曲がりのあるところで、戦乱の世には東西へ走る敵の数を調べるのに大変都合がよく、参勤交代の時代には殿様が駕籠を止め、前後の行列を眺めては長い旅を続けたという説明がなされていた。角に道標があり、その横に社が立っていた。
大曲やしろ 
 ここで左手にレストランがあったので行ってみたが閉まっていた。引き返しているとその先にファミレスがあったのでここに入る。まだ11時35分だったが、今朝が早かったことと地図を見るとこの先に店がないような感じだったので、ここで昼食を摂ることにしたのだ。これは大正解でここから先、食事をする店もコンビニもなかった。
 高屋宿に入るが、「声楽家上野耐之生家」跡が本陣のあったところで、赤い煉瓦の塀がしゃれた感じを醸し出している。 
高屋宿本陣
 ここでカウントする。
 12時25分、高屋宿本陣跡を通る。
 七日市から2時間、9595歩、4.6km。

 その横に「中国地方の子守唄」発祥の地、井原市高屋町の看板が立っており、「ねんねこしゃっしゃりませ」という歌詞が書かれている。若き声楽家上野耐之が山田耕作の事務所を訪れ、素朴で愛情あふれるこの子守唄を独唱被露した。山田耕作はいたく感動し、たちどころに編曲にかかり「中国地方の子守唄」として発表したということが書かれていた。
 その先、左手に真新しい県境の碑が立っている。「広島細工町元票三十里二十八間三尺」「岡山橋本町元票十三里二十七町三十六間」と刻まれている。
県境碑
 右手に上御領八幡宮がある。ここにも大きな常夜燈が立っている。とにかく大きな常夜燈が多い。
 左手に「旧山陽道一里塚跡」と刻まれた上御領一里塚碑があり、その横に「菅茶山先生漢詩」、「高屋途中」と題された漢詩が刻まれた石碑が並んで立っている。
上御領一里塚
 静かな旧道が続く。右手にはすぐそこまで山が迫ってきているが、気持ちのいい道だ。しばらく行くと、その山の随分高いところに「日吉神社」があり、急な階段が付いている。「ヨシ!」と気合をこめて一気に登ったが、全部で170段ありかなりきつかった。高いので眺望が開けているのかと思ったが、木々が邪魔をして意外に見えなかった。
日吉神社 
 その先で旧道は緩やかに左へカーブをきるが、その曲がり角を直進すると右手に「下御領八幡神社」がある。更にその先に、「備後国分寺跡」がある。天平13年(741)聖武天皇の発した国分寺建立詔によってここに備後国分寺が建立された。発掘調査によって東西180mの寺域が判明し、現在ある国分寺より南側に塔・金堂・講堂・南門があったことが判明していると説明されている。参道があり、黒松の松並木が続いていて、福山市指定保護樹林になっている。
国分寺 
 先ほどの旧道の場所まで戻って歩いてくると、右手に国分寺参道の入口があり、ここに南大門跡の案内板が立っていて、そこから松並木が始まっていた。ここで道を間違えてしまった。国分寺を背にして参道から直進しなければいけないのに、ここで右折して181号線のほうへ進んでしまったのだ。しばらく行って間違いに気がつき引き返したが、こうして間違った道を引き返すのは何度やってもいやなものだ。
 湯野口の信号で313号線に合流して進み、井原鉄道の高架下を通って、高屋川の手前から313号線から分かれて右斜めに高屋川と並行して進む。右手にデニムの工場を見ながら進み、最初の橋を渡って進むと右手に「荒神社」があり、その境内に一里塚の碑が立っている。
荒神社、一里塚 
 「廉塾・菅茶山旧宅」が右手にあるので、ここを見ていると、女性が近づいてきて色々と説明をしてくれ、中も案内して頂いた。ここは広島県特別史蹟の一つで、県内には二つしかないうちの一つということだ。江戸時代後期、宿場の東本陣(酒造業)に生まれた菅茶山は京都で朱子学を学び、神辺に「黄葉夕陽村舎」、後の「廉塾」と呼ばれる学塾を開いた。ここに全国から学生が集まり、頼三陽や北条霞亭らが塾頭を務めたということだ。菅茶山講堂 
 講堂や頼三陽が塾頭をしていたときに住んでいたという二畳の間、御影石でできた「方円の手水鉢」は丸と四角に彫られており、水は入れ物によってどのようにでも形が変わる。人も同様で教育によってよくも悪くもなるということを表しているということなどを説明していただいた。えらく詳しいなと思っているとボランティアでここの案内をされているということだった。
手十
 「旧山陽道 神辺駅跡」と刻まれた石碑が立っている。それによると太閤秀吉が朝鮮役よりの帰途、立ち寄った屋敷の跡で明治以降川北村役場が置かれた跡と説明されていた。
 神辺宿は七日市に東本陣、三日市に西本陣と分かれており、今では東本陣(本庄屋菅波家)は遺構は何も残っておらず、「西本陣の尾道家菅波家」のみが残っていた。
神辺本陣 
 ここでカウントする。
 14時37分、神辺宿本陣跡を通る。
 高屋宿から2時間12分、13130歩,7.6km。
 西本陣跡を過ぎて進み、突き当たりを左折すると右手に菅波歯科が立っている。歯科という雰囲気ではないが、いかにも旧家という重厚な建物だ。
菅沼歯科
 左手に光蓮寺があり、その先で一旦313号線に合流するが、少し先で右折する313号線から分かれて直進し、突き当りを右折して進む。左手に池がありそれに沿って進むが、その先で313号線と182号線が交わるところの道が分かりにくい。旧道から一旦313号線に出て左折、182号線のガード下を通り、左折して182号線に沿って313号線を横断、突き当り、階段のところを右折して進むと再び313号線に合流する。結局、313号線に出て、一旦左側に迂回して再び313号線に合流するということになるのだ。
 鶴ケ橋を渡るが、橋の袂に「出雲大社道の道標」がある。
出雲道
 この時点で15時20分になっている。今日は最低でも備前赤坂駅までは行こうと思っているので、少し急がなければと思う。
 鶴ケ橋を渡ってその先新茶屋の信号で左折して進む。ここから芦田川に架かる大渡橋までの旧道がはっきり分からないが、とりあえず歩いた道を記しておきます。右手に千鶴幼稚園が見えるところにカーブミラーがあり、その横に細い路地がありこれを右折して進む。芦田川に突き当たるのでここを左折して進んで大渡橋を渡る。
 橋を渡ると正面に下る階段があり、これを降りていくと旧道が伸びているのでこれを歩く。
 「一里塚跡」があるが、ここには大きな榎が立っている。説明がなかったので昔の木が現在でも残っているのか、それとも植え替えたものなのかは分からなかった。
榎一里塚
 その先、左手に「旧一本松跡」の標柱と地蔵堂が並んである。松喰虫にやられて枯れたので昭和60年に伐採したと記されていた。
一本松と石像
 このあたりは芦田川を挟んで左右は山が迫っている。前方に新幹線が通っているが、芦田川に架かる鉄橋の前後は山なのでトンネルになっている。
 「谷尻」のバス停とその先の「坂部」のバス停のところにどちらも地神等の石像が並んで立っている。このあたりにあったものを集めたのだろうか?
 夕暮れが迫ってきた。17時13分にJR備後赤坂駅に着く。17時19分のJRがあったのでこれに乗り、次の松並駅まで行き、宿に入る。もう周囲は真っ暗だった。

 本日の歩行時間  7時間56分。
 本日の歩数&距離 49743歩、32.3km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん