山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年11月11日(火)

JR松永~JR備後赤坂~今津~尾道~糸崎~JR三原

                                    晴れ

 松永駅から備後赤坂駅までJRで戻り、7時20分に歩き始める。朝の旧道は静か、ヒンヤリとした冷気が身体を包む。昼間との温度差がかなりある。
 左手に「金毘羅大権現」と刻まれた大きな常夜燈が立っている。
常夜燈
 更にその先右手にも、先ほどよりももっと大きいというか巨大なといったほうがピッタリくる「金比羅神社」常夜燈が立っている。更にその先右手に「神村町二区クラブ」という看板がかかったところにも地神と常夜燈が立っていた。
 このあたりはとにかく常夜燈が多く、しかもそれらは皆大きい。ほかではあまり見かけないことだ。
 高速道路手前右手に石仏が沢山安置されている。この場所に集められたという感じだ。
 高速道路の高架下を通って進むと、左手JRの線路を越えた先に「今伊勢宮」がある。下に外宮があり、階段の上に内宮がある。ここの階段もかなりの高さだ。左手に道がついているのでこれで上まで登り、下りは階段を下ってみたが、段数は204段あった。昨日の日吉神社よりも大分多い。ただここも木々にさえぎられて眺望は開けていない。
今伊勢宮
 ここは応永35年(1428)に外宮が、正長2年(1429)に内宮が造営され、現在の社殿は大正8年(1919)に再建された。社に7本の杉があり、3杉、4杉と呼ばれているが、これは豊臣秀吉が九州下向のとき、ここで餅菓子を食べ、そのときの杉楊枝7本を「みすき世すき」と唱えて挿し置いたものが芽を出したと伝えられていると説明されている。こういう話は各地で聞くが、どうもにわかには信じられない話が多い。境内には延宝8年(1680)や天保4年(1833)といった年号が刻まれた常夜燈が立っていた。
今伊勢宮内宮
 線路を越えて街道に戻り歩いていくと、少し先で2号線に合流する。「神村小学校入口」の看板が立っており、そこから右斜めの旧道に入るが、すぐに2号線に合流、その先「福山西署入口」信号から再び右斜めに伸びる旧道に入る。 
 右手入ったところに「神村八幡宮」がある。ここも高台にあるが、ここは坂道を登っていく。社殿はまだ新しいが天保2年(1831)の常夜燈が立っていた。
 突き当りを左折し、バスセンター前の信号で2号線に接するが、そこから右斜めに延びる旧道に入ると、少し先右手に今津宿本陣跡がある。ここは代々庄屋職を務めた河本家で、明治4年(1871)の百姓一揆で主要な建物は焼失したが、表門や広大な屋敷地を巡る石垣等が残っている。
 今津宿本陣
 ここでカウントする。
 9時19分、今津宿本陣跡を通る。
 神辺宿から4時間35分、29181歩、18.6km。

 左手に「高諸神社」がある。延喜式式内社で現在の社殿は大正2年(1913)に再建されたものだ。磐境は神を祀る神域を石で囲んだところであり、自然石の配置を利用したものだが、ここの磐境は人為的に造られたもので、多数の石組みが残されている。神社の方がおられたのでいつ頃で来た石組みなのか聞いてみたが、分からないということだった。
 高諸神社石組み
 街道に戻ってすぐ先右手に「蓮華寺」がある。ここは脇本陣が置かれていたところで由来を見ているとお寺の方がこられて、中を見せていただいた。ここの上段の間は当時の姿をそのまま残しているということだ。
 蓮華寺
  藤井川に架かる真田橋を渡って進むとやがて2号線に合流する。その先右手に「高須八幡神社」がある。ここの社殿は新しいが、鳥居は享保2年(1717)と刻まれていた。
高洲
 この神社の道路を挟んだ前から旧道が伸びているのでこれを歩く。
  右手に「恋乃水」と刻まれ、伊勢音頭が刻まれた石碑とその横に祠が立っている。何かいわれがありそうだが、何も説明文がない。そのすぐ先に老護施設があり、そこにも「恋の水」という名称が使われていた。丁度そこに勤務されている感じの女性が通りかかったので聞いてみると、このあたりの地名が「恋の水」ということだった。なぜその地名ができたのかはわからないということだった。
恋の水
 「高須一里塚跡」という標柱が左手に立っている。遺構は何も残っていないが、このあたりの地名が一里塚となっているようだ。
 左折して進むと左手に下る旧道があり、これを下っていくと祠がある。その天井近くに板が渡してあって、そこに地蔵尊がズラッと並んで置かれていた。ちょっと珍しい置き方だった。
棚の上の地蔵尊
 やがて西瀬戸尾道ICのところに来るが、インターチェンジの手前を左折して坂道を上っていくと右手に池が見えてくる。その先にもう一つ池があり、右折してこの二つの池の間を通って高速道路の下のガードをくぐって進む。
 道はかなり急な上り坂になる。ここが防地峠だ。ただきれいに舗装されており、歩く上で問題はない。
 「従是西藝州領」の領界石が立っている。
 峠を下って高速道路の高架下を通るが、その手前に大きな題目石が右手に立っていた。
 歩いていると右手の山の上に三重塔が見えてきた。「西国寺」の三重塔だ。
三重塔 
 街道から外れるが右折して西国寺へ行ってみる。ここもかなりの坂で、上っていくと西国寺裏参道の石碑が立っており、同じ名前のバス停があって、ここから左折して更に坂を上っていくと西国寺に出る。
 「西国寺」は天平年中、行基菩薩の創建と伝えられている。 「三重塔」は永享元年(1429)足利六代将軍義教によって建立された室町時代初期の純和様の復古建築で国の重要文化財に指定されている。
 「金堂」も同様に重要文化財に指定されており、これは南北朝期備後の守護山名一族によって再建されたものと説明されている。
西国寺金堂
 街道に戻ってくると左手に「西郷寺」がある。 ここは鎌倉時代末期の正慶年間に遊行六代一鎮によって伝えられ、重要文化財に指定されている「本堂」は文和2年(1353)二代住持託何の発願によるものと伝えられている。
 西郷寺
 また「山門」も同様に重要文化財に指定されており、貞治年中(1362~1368)、また応永2年(1395)大一房住持の発願によって建立されたと伝えられている。 
西郷寺山門
  「正念寺」が右手にある。時宗の開祖一遍上人の跡を継いだ歴代の上人は「遊行上人」と呼ばれ、全国を回って念仏の教えを広めたので、各地に時衆と呼ばれる念仏集団が生まれ、その道場がつくられた。正念寺は第31代遊行上人によって開かれた念仏道場であると説明されている。
正念寺
 境内には尾道随一の名水といわれる「延命水」が湧いている。昔、旅人はここで足を休めて湯茶の接待を受ける慣わしがあり、俗に「防地の茶堂」と呼ばれていたそうだ。当然のことながら一杯飲んでみました。。。
正念寺延命水
 2号線を横切っていくと左手に八坂神社があり、「かんざし灯籠」が立っていた。江戸時代の末、ここから程近い芝居小屋に美しい、しかしどこか寂しい影があってあまり客のつかないお茶子がいた。お茶子とは観客にお茶や座布団、時にはお酒の接待をして心付けをもらう女性をいう。そのお茶子に浜問屋の若旦那が恋をした。しかし身を飾るかんざし一つとてないみずぼらしいお茶子を見た親は反対をしたため、お茶子は井戸に身を投げ、この大銀杏の木の下に「かんざしをください」と哀しい声で訴える幽霊が出るようになった。この灯籠はそのあわれを慰めようと心ある人がお金を出し合って奉納したと説明されている。 かんざし燈籠
 ここから街道を離れて「浄土寺」へ向かう。ここも見事なお寺だ。ここは推古24年(616)聖徳太子の開基と伝えられている。その後荒廃、再建を繰り返し、嘉暦2年(1327)に本堂、のち諸堂が相次いで整えられて現在に至っている。ここには中世寺院建築を代表する本堂(国宝)多宝塔(国宝)をはじめ阿弥陀堂〈重文)山門〈重文〉などが伽藍を広げる「国宝の寺」であると説明されている。
浄土寺
 ここに来ると前方に海が見えて気持ちがいい。尾道は古寺が多く、「古寺めぐり」の碑が立っていて順路を矢印で示している。ゆっくり見て回ろうと思うと丸一日掛けても終わらないだろうと思ったが、なぜか先を急ぐ私がいる。折角ここまできているのにと思うのだが。。。せっかちな性分は死ぬまで治らないのだろう。
  やがてアーケード街に入る。ここの右手に「尾道通り・旧本陣・石畳地区」という石碑が立っていた。
尾道本陣
  ここでカウントする。
 13時30分、尾道宿本陣跡を通る。
 今津宿から3時間37分、15657歩、7.5km。

 尾道郵便局のところで一旦アーケードは途切れるが、その先で再びアーケードに入る。かなり長いアーケードだ。
 尾道商工会議所の横に「奉行所跡」の真新しい石碑が立っていた。すぐ先に「おのみち街かど文化館」という看板がかかった建物があったが、閉まっていた。
 奉行所跡
  アーケードを抜けたところ右手に「林芙美子」の銅像があり、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい」という「放浪記」の一文が刻まれていた。
林芙美子像
 ここから右折して道路とJRの踏切を越え、左折して進むと左手に尾道駅が見えている。
  「吉源酒造場」の旧い建物が右手にある。ここは安政元年(1854)創業で以前は因島で製造していたが、昭和の初めに蔵と建物をそのまま現在地に移築したということだ。
吉源酒造場
 栗原川に架かる日小橋を渡ると急な階段を登る。左手に日比崎小学校があり、校庭の一番奥の端を廻り込むようにして進む。ここから道なりに下っていき、「日比崎中学校」の看板のあるところから右折して進むと、前方に天理教の大きな建物があり、右手にこれも大きな常夜燈が立っている十字路にでる。ここで道を間違えてしまい、この十字路を左折して進み、山陽本線に突き当たったところで右折、線路に沿った細い道を進んでしまった。ここは十字路を直進して進まなければならなかったようで、失敗をしてしまった。ちょっと残念だった。
  ここからしばらく線路とほぼ並行して通っている旧道を進み、その先で右折して進む。跨道橋でバイパスを越え、左折して進むと右手に「大人峠一里塚跡」の石碑が立っている。
大人峠一里塚
 しばらくバイパスと並行して進み、その先の木原踏切でJRを越えて2号線に合流する。資料では合流したすぐのところで前方に旧道が僅かの距離だがあるようになっており、実際前方に海のほうへ進む道があったので行ってみた。ところがここは企業の敷地だったらしく、行き止まりだったので引き返して2号線を進むと、すぐ先に「福地」というバス停があり、ここから左斜めに旧道が伸びているのでこれを進む。
  その少し先、木原内畠の信号で2号線に合流するが、合流した少し手前、線路の向こう側に「厳島神社」が見える。線路のこちら側に鳥居が立っており線路に向かって階段も付いているのだが、線路を渡る道がなく、横断禁止の立て札も立っている。ちょっとおかしな構図だ。しかたがないのでこちら側から写真のみを撮る。
厳島神社
 ここから2号線と併行して旧道が走っているようなのだが、所々で途切れておりよく分からなかった。2号線に沿って建っている「エトワール・ドゥ・キハラ」というマンションの横から小川に沿って下っていき、細い十字路を右折して進むと観音寺下という信号のところで2号線に合流する。その先で街道から離れ、JR和木1踏切を渡って急な坂道を登っていくと、「観音寺」がある。
 ここの境内には五層の石塔婆が立っていた。
観音寺石造り五重塔
 ここは高台にあるので眺望が開けて眺めがいい。すぐ前の島に大きな橋が架かっており、お寺の方にお聞きすると因島に架かる因島大橋ということだった。学生時代のクラブの同級生に因島出身者がいたことを懐かしく思い出した。
因島大橋
 街道に戻り、しばらく旧道を歩くが赤石というバス停のところで2号線に合流し、それからは2号線を歩く。ここは車の通行量は多いものの歩道があるので歩きやすい。
 併行して走っているJRと2号線がともに大きく右にカーブを切るところに旧道があり、その入口のところに「六本松一里塚跡」碑が立っており、「東方約500m鉄路内」と刻まれている。一里塚のあった場所に現在は線路が通っているということなのだろう。
六本松一里塚
 「糸崎神社」がある。ここの「神門」は三原城内にあった侍屋敷門の一つで、明治8年(1875)に現在地へ移築されたということだ。
 糸崎神社神門
 又ここには「御調井」がある。これは昔、神功皇后がこの長井の浦に舟で着かれたとき、この井戸の水を献上したことから「御調の井」と呼ばれていると説明されている。樹齢500年という三原市天然記念物に指定されている大楠が立っていた。
御調井
 糸崎神社を出ると2号線は跨線橋となって上り坂になる。その左手に併行して伸びている道が旧道だ。これを歩いていき、中原パーマという店を左折するようだが、うっかりその店を見過ごしてしまい、右手に跨線橋があるところまで行ってしまった。近くにおられた方に道をお聞きし、元に戻って中原パーマの店から左折、最初の十字路を右折して進むと先ほどの跨線橋の所に出た。先ほど道をお聞きした方がまだそこにおられたので話をする。北海道から鹿児島まで歩いているというと驚かれたようで「それじゃ、日本縦断というノボリを立てて歩けばいいのに」といわれてしまった。
 跨線橋を渡ると糸崎の駅だった。17時丁度に到着、今日はここまでとし、ここからJRで三原駅まで行く。
 三原駅は三原城の中にあり、城の中を鉄道が貫いているような感じだ。ホテルへ向かう際、左手に石垣と堀が残っている。
三原城

 本日の歩行時間   9時間40分。
 本日の歩数&距離 50315歩、32.2km。

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記録

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